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天穹の双月  作者: すだちなんてん
第一章
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奇妙な旅人(1)

 鼓動が早鐘のように胸を打つ。

 喉はカラカラに乾いていて、呼吸をするたびに痛んだ。

 息を切らせながら、無人の街道を駆ける。今朝まで降った雨のせいで、路面はぬかるんでいる。

 街道といっても、通行量の少ないこのあたりではろくに舗装もされておらず、幅も荷馬車が一台通れるだけしかない。左右には樹木の生い茂ったなだらかな丘陵が広がっている。

 足をもつれさせて、何度も転びそうになるが、そのたびにぐっとこらえて自分に言い聞かせる。

――転んではだめよ、マリー。

 もうこれ以上は走れない。

 全身の筋肉がそう告げている。

 もう限界だ。

 空気が足りない。

 目の前をチカチカと星が漂って見える。

 何度も眩暈の感覚に襲われる。

 手で頭を撫でてそこに付けた髪飾りの感触を確認する。

――足を止めちゃだめ。一秒でも早く、一歩でも遠くに逃げないと。

 弱音を上げる自分の体を叱咤する。

 ぬかるんだ地面に何度も足を取られては、両手を地について完全に転んでしまうのを堪える。

 着ている服やお下げに編んだ杏色の髪の先端はすっかり泥まみれになっている。

 それでも足を止めるわけにはいかない。

 背後から強烈な獣の臭いが漂ってくるのが分かる。

 走っても、走ってもその臭気は体にまとわりついてくる。

 何度も何度も転びそうになりながら、よろめきながら足を繰り出す。

「あっ」

 掠れた声が漏れた。

 限界を超えた足は、ついに僅かな地面の凹凸に蹴躓いてしまう。

 両手をついて道のぬかるみに倒れこむ。

 倒れこんだ拍子に髪から碧の石が付いた銀細工の髪飾りが外れて水たまりの泥水の中に落ちたが拾い上げる余裕は無かった。

――起き上がらないと。

 泥のついた顎を拭うことすらせずに、上体を起こした。

 しかし無情にも足は痙攣し、言うことを聞かない。

 地面の泥をつかみながら体を引きずって前へ進もうと藻掻くが、歩く速度の半分にも及ばない。

 臭気が強くなった。

 息遣いが聞こえる。

 自分の呼吸音ではない。

 何か巨大な生物の荒々しい呼吸音だ。

 それが背後から、ゆっくりと近づいてくる。

――振り返っちゃだめ。

 だが背後から迫り寄る恐怖は、否応もなく視線を引き付ける。

 機械仕掛けの人形のようにぎこちなく振り向いた視線の先には、黒い塊がいた。

 犬のようだった。

 毛皮が夜のように黒い。まるで暗闇を覗いているようだ。

 朝方まで強く降った雨が上がり、晩夏のまだ鋭さを残した陽射しが降り注ぐ中にいてすら、輪郭を見失いそうになる程黒い。

 だが、大きさは犬のそれではない。

 熊の三倍ほども大きい。

 それが一頭ではない。

 まだら模様のが一頭。灰色のがもう一頭。 黒い一頭の後方に二頭の獣が控えている。

 三頭のそれが、のそりと無造作に近寄ってくる。

「ひっ」

 誰かが悲鳴を上げたのを聞いた。

 いや、ちがう。これは自分の声だ。

 巨大な獣は塗れた鼻づらをぬっと近づけてくる。

 鼻の大きさだけでも人の顔ほどもある。

 生臭い、獣の息の臭いが一段と強くなる。

 生暖かい鼻息が顔に吹きかかる。

 もう一度悲鳴を上げたが、今度は声にもならなかった。

 声にならない悲鳴を聞いて、黒い生き物は歯をむいて嗤った。もちろん、犬が嗤うわけがない。でも確かに嗤ったように見えた。

――獲物をいたぶってるんだ。

 そう直感が告げる。この巨大な獣が本気を出したら、人なんてすぐに捕まってしまう。にもかかわらず、捕まらずにここまで逃げてこれたということは、この醜い生き物は必死に逃げる姿を嗤いながら追いかけてきたのに違いない。

「あっちに行って!」

 今度は声を出すことができた。

 はたして、その生き物はもう一度牙をむき出しにして嗤った。

 そして、その巨大な顎を空へと向けると、落雷のような音を立てて吠えた。

 他の二頭もそれにつられて吠えた。

 空気がビリビリと震えた。

 その吠え声を聞いて、四肢の力が抜けるのを感じた。眼からひとりでに涙が零れ落ちた。

 ひとしきり吠えた獣は、今度はこちらに向かってその顎を開いた。鋭い牙がギラリと光った。

「だれか、助けて……」

 声にならない声で助けを呼ぶことしか出来ない。

 だが、その声に答えるように、忽然と誰かの声がした。

「まったく、躾のなってないイヌコロだね」

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