刺客(5)
二人の少女が泉の畔で会話をしているころ、二人の大人はテーブルを囲んで会話をしていた。来客をもてなすために作られた一室で、年に一度訪れる領主の代官を迎えるために使われることが多い部屋だ。豪奢な調度品などは飾られていないが、高価で珍しい板ガラスが窓にはめられているのは唯一の贅沢と言えた。室内は清潔に掃き清められていて、開け放たれた窓から清涼な風が吹き込み爽やかな空気が満ちていた。テーブルの上には湯気を上げる二人分の茶が出ていて、その香りが風の匂いと相まって心地良く鼻梁をくすぐる。
「そんなわけで、急で申し訳ござらぬが、明日にでもこの村を離れることになりましてな」
リュードッグがバドに事情を説明する。昨晩、泉の畔で謎の旅人に襲われたという話はしていたが、その正体がサキを狙う刺客であると明かすわけにも行かないので、二人が村を離れるのはリュードッグの持病が悪化したということにしてあった。手持ちの薬に余裕がないので、大きな町で薬師を訪ねる必要がある、という筋書きである。
「若いころには病一つしたことはござらんかったが、老いぼれると体のあちこちにガタが来ましてなぁ」
実際のところ、リュードッグの肉体は並みの若者の数倍は健康なのだが、この時ばかりは目をしょぼつかせて元気のない演技をした。
あまりうまい演技でもなかったが、バドはリュードッグの言葉を信じたらしい。
「それはそれは、難儀なことですね。この村の呪い師を訪ねてみてはいかがですか? 偏屈な婆さんですが腕は確かですよ。薬草の類も色々と扱っていますから、お探しの薬が手に入るかもしれません。私から話をつけておきましょう」
「や、それはありがたい申し出ではござるが、このあたりにはあまり生えぬ薬草が良く効きましてな。大きな町へ出れば手に入るはずですので、時を無駄にせずにそちらに向かおうと思いましてな」
「そうですか……それは残念です。お二人にはぜひとも、もうしばらく逗留していただきたいところですが、無理は言えませんね。こういっては手前勝手ではありますが、領主様の手勢が到着するまでお二人に居ていただければ、心強かったのですが」
村からは朝日が昇るより早く、男たちの一団が街道を南へ下って行っていた。村の警護のための兵の派遣を領主であるムールン大公へ嘆願するためである。また、それとは別の男たちが、街道に野ざらしにされた魔獣の遺骸を解体するためにも村を出ていた。魔物の現れることなどここ数十年なかった村ではあるが、十六年前の戦役に出征した経験のある男たちは、魔物の骸を解体する術を知っているのである。
「それは、お役に立てず申し訳ござらぬ。城塞都市キノハまでは片道二日というところですかな?」
「ええ。キノハの城主様にご報告して、そこから大公様に伝えていただくつもりですが、運が良ければキノハに駐留している兵士を回していただけるでしょう。早ければ四、五日で一安心できるかと」
城塞都市キノハの城主が虎の子の装甲魔動機兵をこの辺鄙な村に派遣してくれる望みは薄いだろう。だが派遣されるのが生身の兵士であったとしても、魔物を駆逐することは不可能だが、農具の他には狩猟用の槍や弓矢しか持たない村人よりはましである。実際に魔物が出たときに備えるというよりも、人心を落ち着かせるのが目的なのだろう。
「まあ、魔物など、そうそう出没するものではござらぬ。あまり心配しすぎぬほうがよろしかろう」
「ええ、まあそうでしょうね。しかし、もうしばらく滞在していただきたかった理由はそれだけではございません」
バドの言葉に、リュードッグは頷いて見せる。
「ご息女のことですな?」
「はい。サキ様には良くしていただいて、あの子があんなに嬉しそうにしているのを、私は久しぶりに見ました。昨晩はつい娘に、サキ様とは親しくするなと言ってしまいましたが、あれは誤りでした。ただ、あの子の母親は不憫な女でしてな。あの子には母親の分も幸せになって欲しいと思うばかりに、要らぬことを口にしてしまいました」
「ふむ。奥方様は亡くなったと聞きましたが、しかし不憫とはまた、どういうことですかな?」
リュードッグの問いかけに、バドはしばらく口を閉ざしていたが、やがて話を始めた。
「ええ……今こうしてあなた様とお会いしたのも何かの縁、お耳苦しい話ですが良ければお話しましょう。マリーの母親の名はゼルパと言いまして、私の伯母に当たる人の娘ですが、その伯母夫婦がたちの悪い流行り病で急死したのです。ちょうどゼルパがマリーと同じ年頃の時です。ほかに身寄りがないので当家で引き取りました」
「ふむ、それで村長殿と恋仲になって、ご結婚なされた、と?」
「いえいえ、ゼルパは後妻でして。そのころ私はすでに前妻を娶っておりましたし、ゼルパのことは歳が離れた妹のように思っていました。ゼルパも、前妻を助けて良く働いてくれて、それこそ仲の良い姉妹のようでした。思えば、あの頃がゼルパにとって一番幸福な時間だったのかもしれません……」
バドはそこで言葉を区切って、茶を一口すすった。追憶に浸っているのか、続きを話すのは気が重いのか、あるいは両方かもしれないが、しばらく黙ってからまたぽつりぽつりと話を再開した。
「しかし、ゼルパの若い時分をこんな田舎で家事の手伝いなぞをさせておくのは、私にはもったいなく思われましてな。伝手を頼りに、さるお方の屋敷に女中奉公に出したのです。貴人のお屋敷で奉公すれば、礼儀作法も身につくので花嫁修業の代わりになるだろうと、そうすれば良い嫁の貰い手が見つかるのではないかと、その時は考えていたのですが……」
「そうはならなかった、と?」
「はい。ゼルパを女中奉公に出して三年ほど経ったある晩、真夜中に家の扉が叩かれましてな。ちょうど今くらいの季節のひどい嵐の夜でした。扉を開けると、濡れネズミのようになったゼルパが立っているではないですか。ひどく憔悴していましたが、一目で妊娠していることが分かりました。一体どうやってここまで来たものか、と思いましたが、とにかくその時は家に入れて体を温めてやり、事情を聴いたのです。ですが、頑なに事情を話そうとはしませんでした。ただ、出産するまでこの家の隅に置いてほしいと、そう言うのです。そのためなら、労を惜しまず働くから、と。無論、知らぬ仲ではありませんから、働く必要などないから気が済むまでここにいてよいと、部屋をあてがって住まわせたのです。……ちょうどその少し前に、前妻が風邪を拗らせて逝ってしまっていたのですが、病床でゼルパを外に出したのは失敗だったと繰り返し言っていましてな。病で気が弱っていたのでしょう。自分の死後はゼルパを呼び戻して後妻に据えろとまで言っておりました」
「ふむ。女人の考えることは分からぬが、自分の知らぬ女が後釜に収まるくらいならば信頼できるゼルパ殿を、ということですかな」
「ええ。ですから、あれが戻ってきて、初めのうちは思いもよりませんでしたが、しばらくすると自然と私もそうすべきだと思うようになったのです。歳は離れていましたが、一方は男やもめ、もう一方は腹の中とはいえ子連れですから、つり合いが取れているようにも思えましたし、あれの幸福をもう一度誰かの手に委ねる気にもなりませんでした。あれも嫌がる様子もありませんでしたから、出産後ほどなくして後妻として迎えました。それがちょうど、あの戦役の終わった年の末の事です」
「ま、待たれよ。あの、十六年前の戦役の時ということはつまり……?」
絶句するリュードッグに、バドは頷いて話を続けた。
「ええ。マリーはその時の子です。私の実の子ではありません」
「なんと……仲睦まじい親子だとばかり思っておったが、まさか血の繋がりがないとは……。マリー嬢はそのことを存じているのですかな?」
「いえ、それが娘はまだ知らないのです。はじめのうちは、物心ついたら教えるつもりでいたのですが、無理が祟ったのでしょう、ゼルパが亡くなりましてな。母を亡くした幼いあの子に父親まで血が繋がっていないとは言えず、いずれ伝えねばならぬと思いながらも、今まで伝えることができませなんだ」
「無理もござらぬ」
リュードッグは、感極まったといった様子で、鼻をすすりながら頷いている。
「……あの子はもう忘れているでしょうが、実はあの子がまだ小さいころ私に言ったことがあるんです。自分は貰い子なんじゃないかと。勿論、何の根拠もありません。子供の頃、誰もが一度は考えるような他愛もない想像ですよ。ですが、私はその時あの子を叱り飛ばすべきか、笑い飛ばすべきか分かりませんでした。いや、今でも分からないのですよ。本物の親だったら、きっとこんなことで悩んだりはしないのでしょうね」
バドはそこまで話すと大きくため息をついて、冷めた茶を飲みほした。
「しかし、いつまでもこのままというわけにも参りません。近頃はほとほと困っていたのです。ですから今回、あなた様のような信頼のできそうな御仁に打ち明けることができて、心底ほっとしました」
「信頼できると言われては無下にするのは心苦しいですな。そうですなぁ……」
右腕が巨大な義手でなければ腕を組みたいところなのだろう。リュードッグは手持無沙汰そうに左手で口ひげをいじりながら、視線を宙に漂わせて考え込む。
「直接伝えるのが憚られるというのでしたら、文をしたためてはいかがですかな?」
「文……なるほど、手紙ですか。良いかもしれません。それならば言葉を選んで伝えることが出来ますからね」
バドは顔に喜色を浮かべて、何度もなるほどと呟いて頷いている。話を切り上げて今すぐ手紙を書きにでも行きそうな雰囲気だ。
「と、ところで、村長殿。一つお聞きしたいことがありましてな。よろしいですかな?」
リュードッグはバドに話を切り上げられては敵わないとでもいう様に慌てて声をかけた。