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あれから僕はもう一度だけ、アクツと会うことがあった。
もう会うことはないだろうと思っていたけれど、僕に課せられていたもう一つの任務が残っている。
アクツは僕の顔を見ると、なんで来たんだよ、と少し嫌そうな顔をのぞかせる。
でもそれ以上にどこか嬉しそうだった。
さっきほどからアクツに頭を撫でられている黒猫はついに我慢できなくなったのか、軽くアクツを威嚇し、彼を置いてどこかへ行ってしまう。
僕が河井のお願いの話をすると、アクツは軽く頷いて、その手があったかと不器用に、高らかに笑う。
そして僕がここに来た理由を訊ねる前から分かっていたのか、木陰で大きく広げてある、一枚の長い紙を見せてくれた。
アクツの手は墨で所々真っ黒に汚れ、すぐそばにはまだ墨の付いた筆と硯が転がっている。
「“歴史書”に空白を作って悪かったな」
そう言って、その長い紙を綺麗に畳むと僕に手渡した。
その瞬間、僕の心にあった違和感がすっと消えていった。
その違和感は今までずっと僕の中にあったものだから、なくなると逆に変な感じがした。
「オレにだってもっとうまいやり方はあったかもしれない。お前はよくやったよ。もうオレとお前が遇うことはないだろうな。でも、たまにでいいから。オレみたいなどうしようもないやつも必死になって歴史を繋いできて、同じようなヤツが身近にもいるかもしれないってことを思い出してくれよな」
名残惜しそうにアクツは言った。
「……。なんで初めて僕に会ったとき、僕の心を見透かしたようなことを言ったんですか?」
僕はそれだけがずっと分からなかった。
「なんとなくお前の眼が世の中を達観したような、他人事のように観ているような感じがして。昔のオレに似てるなと思った。どこか変化、いや救いようなものを求めるような感じがな」
「すんごくいやな回答だなあ。じゃあ“歴史書”に空白を作った理由の方は?」
「樅山がいなくなって数年間、“歴史書”なんて開きたくなかった。“歴史書”の空白が、まさに心に空いた空白そのものを表わすような感じがした。その虚無感を消したくなかった。“歴史書”に私的な出来事は書き込めない。それなのに樅山と過ごして楽しかった期間を、樅山のために泣いて苦しんだオレの時間を、オレにとってはどうでもいい“世の中”の出来事で書いて、書きなぐって、上書きしたくはなかった。樅山がいない世界は空白でよかった。何も起きなかった。むしろ空白がオレには適切だった気がした」
「それで……本当にもう大丈夫なのか? 今ならまだ“歴史書”のそのページを破り捨てることも」
「いや、いいんだ。オレはもう乗り越えられる。古久根のおかげかもしれない。やっぱりお前は強いよ。オレが次に選んだだけある。オレは“歴史書”に何も書けなくなってから、実はある人に会ったんだ。その人は自分を縛るしがらみや過去、人間関係が嫌になったらしく、全ての関係を断ち切って今は一人で旅をしていると言っていた。関係を失ったその人はオレに、後を継いでくれる人がいることの素晴らしさを教えてくれた。そうやって長い歴史をこれまで何人もの”歴史渡り”が必死になってつむいできた。そんな大事な役目なら、お前も頑張ってみればいいんじゃないかって。そう言われて、オレはまた“歴史書”を綴り始めることができた。偶然その人はお前と同じ名字だったんだ。だからオレはお前を次に選んだのかもしれない。樅山への悲しみを乗り越えるのにたくさん時間がかかってしまった。でも今なら樅山が生きていた時間に向き合うことができる気がする。だから空白にした“歴史書”にけりをつけたい。オレはもういい大人だ。お前よりだいぶ年上なんだぞ。伊達に150年は生きてるからな」
オレの仕事がやっと全部終わった。
感嘆の声を上げて、寝転んだアクツは天に向かって両腕を伸ばす。
固まっていた身体はほぐれた気がする、と言って両腕をゆっくり左右に下ろした。
「始まりこそ急で……。横暴で……。僕の人生を悉く狂わせてくれたなって少し恨んでたけど。でも、……。でも僕こそこうして色々世話になった。…………けどお礼なんて言わないからな」
不意に僕の頬を涙が流れているのに気付いた。
これで終わるのだ。
ならば今だけは。気持ちを切り替えるためにこの涙は必要なものなのだと自分に言い聞かせる。
アクツは何も言うことなく、ただ微笑んでいた。
それから次第に世界はぼやけ始める。
涙で相まって歪みは増していく。
視界がかすんで見えなくなった後も、春らしい暖かで柔らかな、スズランのような甘い香りを纏ったそよ風が僕の身体を優しく包み込むように吹きつけていた。
それをずっとどこまでも感じていた。




