贖罪と覚悟
「これから出ます。サンプルを先方に渡したらそのまま直帰します」
今日中に新商品のサンプルが欲しいと言ってきた取引先の元へ向かうべく、帰り自支度を済ませた上で会社を出る。仕事をしている間は余計なことを考えずに済むからいい。
あれから私はゆうきに連絡が取れないでいる。気付いたらもう金曜日である。
私はまだ、現実を受け止めることができていない。今ゆうきと会っても、今までどおりの態度で接することなどできない。きっとゆうきの顔を見たら感情が溢れてしまう。
ゆうきに拒絶されたら諦めがつくと思っていた。けれど、あんなにもはっきりと拒絶されたにもかかわらず私はゆうきへの気持ちを捨て去ることができないでいる。
気持ちが叶わないことはわかっている。わかっていても、私がゆうきを好きなことは変えられないようだ。
「一生こうなのかなぁ」
ぽつりと呟く。私はこのまま一生叶わぬ恋を続けるのだろうか。十年経っても変わらない想い。あと何年か経てば突然消えるものなのだろうか。全く想像ができない。
取引先での仕事を終えた私は駅に向かっていた。
明日は土曜日だ。本来ならば喜ばしい休日が、 今はただただ苦痛である。一人になるとどうしても気分が落ち込んでしまう。ゆうきのことで頭がいっぱいになってしまう。
「夜ご飯どうしようかな……」
ひとりごちながら空を仰ぐと聞き覚えのある声が私の名前を呼んだ。
「…みずき?」
声の方を振り返り固まる。
そこに居たのは元夫の藤本隆哉だった。
「……久しぶり」
そういえばこの駅は隆哉の勤務先の最寄駅だった。遭遇しては気まずいからと、離婚してからこの駅を使うことは避けていた。ゆうきのことばかり考えていたせいか、そのことをすっかり忘れていた。
「みずき、随分顔色悪いけど……」
あの日以来、私はうまく眠ることも、食事をとることもままならなくなっていた。たった一週間で体重は落ち、睡眠不足で顔色は悲惨だった。
「それは、俺との離婚が原因なの?」
「いや、それは……」
それは違うと言いかけてやめる。まだ離婚して一ヶ月ちょっとしか経っていない。それにもかかわらず、離婚ではなく別のことで憔悴しているなんてことをどうして言えるだろうか。
「……あのさ、わかってるから」
隆哉は冷めた目で言う。
「みずきは俺を好きじゃなかったんだろう。離婚が原因なわけないよな」
言葉を失い隆哉の顔を見る。やはり隆哉は気付いていた。私が隆哉を好きではなかったことを。
「気付いてないと思ってた?」
黙る私を見て隆哉は続ける。
「ねえみずき。今から少し時間いい?」
気まずさで即答できない私を見て、隆哉は溜息をつく。
「気まずいのはお互い様だよ。俺のわがままだけど、どうしてもけじめをつけたいんだ」
今、私はゆうきのことだけでいっぱいいっぱいで、その上隆哉のことまで考えることなどできない。けれど、私が隆哉にしたことを思えば、せめて誠実に対応したいと思った。
「分かった」
隆哉は少しホッとした顔をして近くのカフェへ私を促した。
「ご注文いただいたコーヒーです」
お互いが頼んだコーヒーが提供される。
カフェに入ってすぐに何か言われるのだと思ったけれど、隆哉が話を切り出す気配はなかった。
隆哉がコーヒーを口に運ぶのにならい、私もコーヒーを口にする。隆哉はリラックスしているように見えるが、私は気が気でない。嫌な汗が背中を伝うのを感じる。
「……それで、どうしたの?」
これ以上の沈黙に耐えられず、隆哉を促す。
隆哉はコーヒーカップをソーサーに静かに置いて、正面に座る私を見て口を開く。
「俺はみずきが本当に好きだった」
恨み言を言われると思っていた私は、予想外の言葉に動揺する。
「みずきは、積極的に場を盛り上げたりたくさん喋ったりする方ではないけど、ノリは良くて周りの人をよく見ていて、気遣いもできる。協調性があって、主張をむやみに押し通したりしない。押しには弱いけれど、本当に嫌なことははっきりと断るし、決めたことはしっかりと実行できる」
隆哉の意図が読めず、どういう反応をしていいかわからない。
「だから、そんなみずきだから、俺の好意に誠実に向き合ってくれると信じていた。付き合う時点で俺のことを好きじゃないことはわかってた。けど、一緒に過ごす中で関係が深まればきっとみずきも気持ちを返してくれると思ったし、みずきもそう考えて俺と一緒にいると思ってた」
私はいたたまれなくなって隆哉から目をそらす。
「交際期間は短かったよね。大学を卒業して仕事が始まって、思っていたより忙しくて。それですれ違うのは嫌だなと思ったからすぐにプロポーズした。あの時俺はみずきとの幸せな未来だけ考えていた」
私だってそうだ。私は隆哉と一緒の時間が好きだった。きっとうまくいくと思っていた。
「でも、入籍して一緒に暮らすようになって、俺には毎日違和感しかなかった。お互い仕事がある中うまく役割分担はできていたと思うし、生活自体は順調だったけど……幸せだとは思わなかった」
「それは…どういう…」
隆也が困ったように笑う。
「みずきから俺に対する熱を感じることができなかった。少しずつでも変わっていけばと思っていたけど、いつまで経っても変わらなかった。一緒に暮らしていても、どこか心の距離を感じた。俺はずっとそれが辛かった。いつまでも待つつもりだったけど……心が折れちゃったんだよな」
何も返すことができなかった。私が私なりに隆哉を大事に思っていたことは間違いないけれど、その気持ちは恋愛ではなかった。
「夫婦になって何年も経ってから落ち着いて、それであの状況なら何とも思わなかったんだろうね。けれど、俺は一度でいいからみずきに熱を向けてもらいたかった。
俺に何か問題があるのかと悩んだこともある。けど、多分違うんだろうって気付いたのは一緒にアルバムを見ていた時。みずきはアルバムの写真を眺めながら、俺が見たことのない表情をしていた。その時に、ああ、俺じゃないんだって思った。ショックだった。その時、ぽっきり心が折れた。俺じゃないのに、何で俺と結婚したんだって腹もたった。
……けど、俺はさ、無様な姿を晒したくなかった。みずきを責めたら、一層自分が惨めになる気がした。だから、何も言わずに離婚しようと言ったんだ」
笑おうとして失敗したような歪んだ顔の隆哉が言う。
私は、隆哉に対しあまりに酷いことをしていたのだと、ここにきて初めて自覚した。私は、私の身勝手で、この人の心を抉ったのだ。
「離婚したくないって言ってくれないかなって思った。そうしたらお互いの気持ちをぶつけ合うことができるんじゃないかと思った。けどみずきはあっさり離婚を受け入れた。何も言わなかった俺は何も聞くことができなくて、本当に、あっけなく……」
隆哉は唇を噛み締め俯いた。
「何も聞かないで離婚してしまったから、ずっと心にモヤモヤしたものが残ってすっきりしないんだ。他に好きな人がいるんだろうことはわかっても、じゃあ俺をなんだと思ってたんだって。誰でも良かったのかって。じゃあ俺の二年はなんだったんだって。離婚した後もふとしたときに考えてしまって、前に進めないんだ。だから頼むよみずき、全部教えて欲しい。俺をどう思っていたのか。俺の二年がなんだったのか」
隆哉の目に縋るような色があった。それを見て、私に唯一できることは、すべてを正直に話すことだと思った。
それは結果的に更に隆哉を傷つけることになるかもしれない。それで隆哉は私を詰るかもしれない。けれど、傷つけ合うことになっても、きっと私たちにはそれが必要なことだった。
きちんと向き合わないまま結論だけ出してしまったから、隆哉は囚われてしまった。
私にとって今ゆうきの話をすることは苦しくて辛い。けれど、これは酷い仕打ちをした隆哉に対して負うべき責任だと思った。
ただ、その前にまず伝えなければならないことがある。
「最初に、これだけは言っておきたい。誰でも良かったなんてことない。私にとって、隆哉が特別だったことは本当だよ。隆也が大事だったし、隆哉とだったら良い関係が築けると思ってた」
隆哉はじっと私を見つめている。
「けど、うん。隆也が言ってたことは、そう。私にはずっと、好きな人がいる。……高校の時から」
隆也が息を飲む音が聞こえた気がした。
「高校三年間、ずっと好きだった。けど、告白もできなかった。大学で離れれば気持ちは薄れると思ってた。実際、大学に入って気持ちはある程度落ち着いたと思ってたよ。過去の思い出にできると本当に思ってた。でも、それは私がそう思い込みたかっただけだった。隆也のことは好きだったけど、それは恋愛じゃなかった。私はずっとその人への気持ちを抱えていた」
「……俺が離婚をしたいって言った時、なんで何も言わなかったの」
「どこか心の中でわかってたんだと思う。……一緒にアルバム見たの覚えてるよ。その時、確かにその人の写真を見て、気持ちが、高揚した……から……」
視界がぼやける。泣きたくない、私に泣く権利なんてない、そう思うのに、目から一つ、二つと滴が溢れる。泣いている姿を見せないように俯く。
「……っごめんね。ごめんなさい。私は隆哉に不誠実だった。こんなにも隆哉を傷つけることだって気付いていなかった。隆也のことも、大事だったのに、そんなに苦しめていたなんて、私が浅はかだったばかりに…」
許してもらおうとは思わない。けれど、謝らなければいけないと思った。隆哉の大事な時間を、私は奪ってしまったのだ。
「……俺のことが特別だった、大事だったっていうのは、本当?その人じゃなければだれでも良かったわけじゃないの」
「そんなわけっ…!私は本当にバカで、隆哉と結婚する時、もうその人への気持ちはなくなったって思ってたんだよ…」
「……なんだよそれ……」
ぽつりと呟かれた言葉に顔を上げる。
そこには困ったように笑った隆哉がいた。
「みずきはさ、基本的にしっかりしてるし、周りもよく見えてるのに、たまにとんでもないドジをするよね」
「ドジって…そんな言葉で済ませちゃ…私、隆哉に酷いこと……」
「気付いてなかったんだろ。しょうがないじゃん。その人以外の男では俺が一番だったってことだろ」
「…私は、隆哉のそういう穏やかで、優しいところがすごく、すごく好きだった」
「今言われてもなあ…ってか過去形だし」
「…ごめん」
「そこは謝るなよ。まあでも、みずきの気持ちがわかって良かった。なんとも思われてないのに一緒にいたんだって思ったままだったら、俺の二年間は……ただ俺がピエロだったって話になるだろ?」
隆哉の表情が、心なしすっきりしているように見えた。
「高校の時からだから、もう十年もその人が好きなのか。……なあみずき、余計なことかもしれないけど、その人に気持ち伝えろよ」
その言葉に心がキシリと軋む音がする。
「……それは、できない」
「どうして?……まさか、もう亡くなってるとか…」
「ちょ!縁起でもない!そうじゃなくて……。あの、実はその人男じゃないの」
「……は?」
隆哉が目を見開く。鳩が豆鉄砲を食らったような顔とは、こんな顔のことをいうんだろう。
「…え?みずきレズ…いや、バイだったの?」
「違う!その人以外の女性を好きになったことないし、多分、基本は異性愛者だと…思う」
「基本が異性愛者ってなんだそれ…。まあいいよ、そこはいいよ。えーっと…告白できないって、相手が異性愛者だから?」
「いや、彼女はレズビアンみたい」
「っはあ!?いや、それならどんな結果にしろ気持ち伝えるハードルは高くないだろ」
「違くて…レズビアンだって知ったのつい最近で…そのこと聞いたときに、私のことは友達だって、邪な感情は持ってないって、はっきり……」
「……なるほど。……でもそうだとしても、気持ちを伝えてけじめつけた方がいいんじゃないか」
「もう振られてるみたいなもんじゃん……」
「……それでみずきのけじめがつくならいいだろうけど、十年好きだったんだろ?絶対引きずるだろ」
「そりゃ…そんなにすぐどうこうってのは難しいけど…」
「それにどういうシチュエーションで友達だって言われたかわからないけど、向こうはみずきを異性愛者だって思ってるんだろう?だったら、関係を壊さないためにそう言っただけかもしんないぞ…ってなんで俺がみずきの恋愛相談受けてんだよ。俺まだ若干引きずってんだけど」
「……ごめん」
「まあなんかもういいよ。なんていうか、すっきりしたし。だからこそ言うけどさ、みずきもちゃんとけじめつけろよ。でないとまた繰り返すぞ。俺、かなり悩んだし、傷ついたし、同じことを他の人にやるのはやめてほしい」
瞬間、頭に浮かんだのは勅使河原さんだった。
「……そうだね。それは、本当にそうだね」
隆哉の言いたいことは痛いくらいにわかる。けれど、ゆうきに気持ちを伝える決断はまだできない。
「……すっかりコーヒー冷めちゃったな」
隆哉はコーヒーカップを持ち上げ、半分ほど中身が残ったそれを弄ぶようにくるくると揺らす。
「新しいの頼む?」
「……いや、これ以上話すこともないだろ」
隆哉は冷たくなったコーヒーをぐっと飲み干して席を立つ。
「俺さ、平気そうに見えるかもしれないけど、ぶっちゃけ無理してる。ダサいから言わないでおこうと思ったけど、平気だと思われて今後恋愛相談なんて持ちかけられたらたまったもんじゃないから言っとく。いつか友人の頃みたいに戻れる……かはちょっと約束できないけど、まあ、頑張るわ。ここのコーヒー代は慰謝料ってことでみずきにご馳走になることにする」
隆哉は子供っぽい笑顔を見せて背を向ける。その背中が店外に消えるまで、目で見送った。
隆哉は、本当に自分にはもったいない程の人だった。どうしてあの素敵な人を好きになれなかったのだろう。何故、私を友達としか思っていないゆうきだったのだろう。自分の心なのに、なんてままならない。
冷めたコーヒーをゆっくりと口に運びながら思考を巡らせる。
ゆうきから逃げようとしていた。けれど、ゆうきから逃げても、きっと私はゆうきを好きな気持ちから逃げられない。
こんなにこの気持ちを引きずっているのはきっと高校の時に決着をつけなかったからなんだろう。
誰にだって初恋はある。実らない人なんてごまんといる。けれど、それを十年も引きずる人はそうそういないだろう。みんな事実を受け止めて、前に進んでいるんだ。
私は情けなくも事実を受け止めず逃げ続けてきた。その結果、隆哉を傷付けた。そして、私は同じことを勅使河原さんにしようとしていたのかもしれない。
そこまで思考してコーヒーカップをソーサーに戻す。
もう逃げるのはやめよう。なんでもない顔でゆうきと友人関係を続けていくのは無理だ。何かしらの結論を出さないと、私はずっとここから抜け出せない。その結論が何かは、まだ決められないけれど。
伝票を掴んで席を立つ。たった一杯のコーヒーを慰謝料なんて、そんなことでは私を許してしまうなんて。
あんなに沈んでいた気持ちが嘘のように、暫くぶりのすっきりとした気持ちで店を出た。すっかり日が落ちてしまっていた。
都会の夜空に星なんて見当たらないはずなのに、ふと見上げた空には確かに星が輝いているように見えた。