追憶と自覚
電気をつけて洗面所で手を洗ってからリビングのソファに座りテレビをつける。
体に染み付いた習慣は無意識でも実行されるらしい。しばらくテレビをぼーっと眺めていると、ふいに明瞭な意識が戻ってくる。
二年ぶりに会ったゆうき。ふわふわした猫っ毛の髪にキリッとした涼しげな目元。通った鼻筋に、薄い唇。笑うと柔らかく目尻が下がり、綺麗に並んだ歯が口から覗く。
何も変わらない。出会った頃のまま、その魅力は少しも損なわれていない。
出会ったのは十年も前のことなのに、目を閉じるとまるで昨日の出来事のように鮮明に記憶が呼び起こされる。
ゆうきとの出会いは高校一年生の春だった。知り合いがいない高校に進学して心細かった私に声をかけてくれた隣の席の子。それがゆうきだった。
「ねぇ、田中さんはどこ中?」
声に振り向いた私は、ゆうきの柔らかな笑顔を見て息を飲んだ。心臓が誤作動しているかのように大きく音を鳴らし、顔が熱くなった。そんなことは初めてだったから、私は最初自分の身に何が起こったのか分からず混乱した。中学校の名前を言うだけで、三回も噛んだ。ゆうきは、そんな私を見ても変な顔をするでもなく優しく微笑んだ。私はその姿に見惚れ、「もっとこの人の笑顔を見たい」と思った。そして、そこでやっと自分の身に起こったことを理解した。
私は、一目で恋に落ちたのだ。
幸い隣の席だったので、私はすぐにゆうきと打ち解け、あっという間に仲良くなった。仲良くなるうちにゆうきの穏やかな人柄や周囲への気遣いの細やかさを知り、心に芽生えた恋の芽をすくすくと育てていった。毎日がきらきらと輝いていた。
この恋が受け入れられると思っていたわけではないけれど、初めての恋に浮かれていた私は、誰よりもゆうきと仲良くなれたら、淡い恋心を伝えようと思っていた。
けれど、あることに気付き、私は気持ちを伝えることができなくなってしまった。
ゆうきはななちゃんのことを最初は白鳥と呼び、私のことも、田中と呼んでいた。私もゆうきを名字の小森、と呼んでいた。高校で出会ったばかりだったから、名字で呼び合うことに違和感はなかった。
でもある時、三人で話していたら、ななちゃんが「ななって呼んで。いつまでも名字で呼ばれるのってなんかよそよそしく感じちゃう。私も名前で呼ぶから」と言った。
確かにな、と思って、私はそれを了承した。私はその時から、それぞれをななちゃん、ゆうき、と呼ぶようになった。ななちゃんも、私をみずき、と呼ぶようになった。
けれど、ゆうきはななちゃんのことはななと呼ぶようになったにもかかわらず、何故か私のことは「田中」と呼び続けた。
最初は、あれ、と少し不思議に思っただけだった。席が隣同士だったため、私とゆうきはお互い一番最初に友人となった相手だった。だからこそ、呼び方が定着してしまって、今更変えたくないのかもしれない、と思った。いや、そう都合よく思い込もうとしたのかもしれない。
けれど、親しくなったどの子のことも名前で呼ぶようになっていくゆうきを見るうちに確信した。
ゆうきは私を名前で呼ぶのが嫌なのだと。
何故かはわからない。実は嫌われているのかもしれないと思って少し距離をとったこともあったけれど、そういう時はゆうきから私に声をかけてくれたため、嫌われているとは思えなかった。
ただ、ゆうきに「田中」と呼ばれるたび、ゆうきとの距離を感じた。
そしてある時ふと、もしかしたら私の恋心がゆうきには薄々バレていて、釘を刺されているのかもしれないと思いついた。
もし、釘を刺すために私を「田中」と呼んでいるのだとすれば、それはすなわち私に告白して欲しくないということだ。
そうであるならば、気持ちを隠さなければならないと思った。
私は、ゆうきを不快にさせたくなかった。不快にさせるくらいならば、この気持ちは胸の奥に眠らせようと思った。
私は、ゆうきへの恋心が暴かれるのが怖くて、そうではないとゆうきを安心させたくて、告白してきた同級生と付き合ったりもした。直接そうと言われたわけではないのに、一度嵌った悪い想像は私をずぶずぶと深い沼に沈め、私は身動きを取ることができなくなっていった。
当時の私は最良の選択をしたつもりだった。どうせ進学先の大学は同じではないだろうし、この恋心は次第に薄れ、ゆうきへの気持ちはちょっと切ない青春の一ページになるだけだと思っていた。そして、いつか互いにパートナーができて、笑い話として話せる日が来ると思っていた。
「そう思ってたんだよなぁ。」
まさか十年間もこの気持ちを拗らせるとは思っていなかった。
こんなに引きずるならば、仮にゆうきに嫌がられたとしても、玉砕覚悟で告白していた方が良かったかもしれない。今更ではあるけれど。
昔何かのテレビ番組で見た、好きという気持ちは脳内麻薬によるもので、長くても三年しか持続しない、という話はなんだったのだろうか。十年経ってもこの気持ちはなくなっていないではないか。
二年も会っていなかったのに、ゆうきを一目見ただけで少女のように心が踊った。
この十年、こんな気持ちになったのはゆうき相手だけだ。
「一途といえば聞こえはいいけど……」
誰もいない部屋でつぶやき、私はそこで思考をすることをやめた。