第2章
コンコンと窓をノックする音が聞こえた。はっとした。脳みそが目を覚ました。ノックをされても真正面に顔を向けていた僕の横目で見た感じだと、ノックした直後向こうもこちらに気づいた様子だった。
はい…
そんな情けない僕の返事に彼女は複雑そうな顔をして少しの間をおいて、とてもいい笑顔で
「雨で濡れたら風邪ひきそうなのでおくってくれませんか」と言った。
なし崩し的に家まで送ることとなった。
一度は忙しいと断ったがそれは許されなかった。
風邪をひいたらとか、女の子1人でとか断るこちらが悪いような言い方をされた。
それでも、同じ会社でなければ断れただろう。いや、全く知らない見も知らない美人がこんなことを言ってきたら本来は、興奮しながら家まで送ったことだろう。しかし、またここで彼女を送らないという選択肢はコピー係に戻る未来を容易に想像させた。そして、どんな事を言われるかわかったものではないと僕を観念させるには十分すぎる彼女の笑顔だった。
彼女の家はたまたま僕の土地勘がある場所で住所を聞いたら何となく このあたりだろうな と推測できるくらいのそれなりに近いといえる場所だった。通い慣れた釣具屋さんの裏で海に行く前に寄って行こうと思っていた場所でもある。不満を抱くほどの寄り道にもならないと半ばあきらめと憂鬱が、僕の半分と半分で100パーセントを埋めたときに車を発進させた。
こう言っては何だが、僕は彼女の二重人格を疑わざるを得なかった。それほど、車に乗り込んだ彼女は饒舌だったし、会社で僕に話しかけてくる顔と(フロントガラスの雨を切るワイパーがきちんと視界に入っている僕ではあるが)横目でちらちらと確認したところ彼女はずっと笑顔で僕の中のイメージとのずれを感じていた。
明日会社で何か言われるための伏線なんじゃないか、はたまたこれはどっきりの類なのではないかと考えてしまう僕は、程よくかっこ悪いのかもしれないがしかし、この送り届けるミッションが失敗すればいずれにせよ明日の会社内での立場はどうしたって なくなる のが怖かったのだ。これが憂鬱の正体だろう。
変わらずにワイパーが視界にかっこんかっこんと入ってくる。
雨は上がりそうにないが彼女の会話も止まらない。営業成績トップを誇る彼女のこういうところを見習わなければならないのかもしれない。これに如何として返すかが明日と、今後の営業人生の分岐点だくらいの、かなり気負って会話した覚えがある。
「今日ってどこ行くの?」
「釣りに・・・」
「女の子を?ふふ」
「えーおやじギャグだし、っ自分で笑ってるし・・・」
「ふふ、そーなんです!私実は何でも笑っちゃう系女子なんですよ。」
「自己主張激しい系なんじゃない?」
あ。流石に言い過ぎたと思った。横目で確認した限り気にも留めていない笑顔で安心する。
「吉原さん、って常に真面目な顔してますよね!いつも何か考えてそうな・・・疲れないの?」
「僕一応先輩なんだよ?」
「確かに!先輩感ないよね!っておもわずため口になっちゃう。これは社会に出たらなめられてしまうやつですな!」
「僕、会社の先輩だって!」
「まあまあいいじゃないか先輩。同じ苗字のよしみじゃないか」
意外なことにまったく仕事の話は降ってこなかった。
そんなたわいもない話をしていると釣具屋に着いた。ウインカーを出して左折し釣具屋の無駄に広い駐車場に停める。
「雨が降ってる中此処から歩いて帰れってかバカヤロー」
彼女の発言でふと我に返る。
あ、間違えたと思った。運転と会話に集中して釣具屋に来てしまった。
あ、でも家この裏じゃんと思った。
「駐車場ないだろうなと思ってここに停めたんだよ」
そう言うと、
「あるけどね!」そう言われた僕は何かを見透かされてるような気がした。 ●
釣具屋までついてくるんだ。素直にそう思った。
僕も何も言わなかったけれど、ついてこられても困るのが正直だ。
いつもなら、自動ドアが開き磯のようなにおいが少しだけしてきて「釣るぞ!」という気持ちになるのだが今日に関しては気持ちが入りきらない。
子供を連れた親の気分だ。
これおいしそうとか、食べれるのかなとかずっと話しかけられて落ち着かない。今日が土曜日でカップルや親子連れがいるからいいが、平日の夕方に来ると作業服だったりスーツのおじさんたちが嫌そうな目で見てきただろなと思った。
店の大きさはそれなりに大きくて、なにより接客に力を入れているお店で、大学生の頃はこの店にほぼ毎日のように通った。通ったというか遊びに来ていた。バスプロ(ブラックバス釣りのプロ)になるといって僕と同じタイミングで上京した友人が働いていたからだ。今はもうやめて別の仕事をしているがその時に店長さんや店員さんに顔を覚えてもらってちょくちょく安くしてもらっていたのでお金に少し余裕がっできた今もネットやほかの店で買うことはしなかった。
僕の欲しかった目当てのルアーを二つ手に取り足早にレジに向かった。レジの前には誰も並んでいなくていつもの店長さんがレジをしてくれたのだが、これがよくなかった。
「いらっしゃい、今日行くんだろ?」と、リールを巻くジェスチャーをする店長から、昨日釣れたことを自慢しにきたお客さんがどこで釣っていたかのポイント(場所)を聞いた。ふいに、彼女がわたしの右後ろからひょこっと顔を出した。
「お、お前・・・か・・・こんな美人な彼女できたんか・・・お前ごときが・・・」
そう言った。確かに言った。お前ごときと。
大丸釣具店店長 小林 雄介38歳独身は確かにそう言った。
「彼女じゃなくて会社の同僚です」
そう言っても店長はすでに聞いていなくて、
「よかったな。よかったな。」と繰り返しい言った後で、泣いた。
え、泣くほど彼女できないと思われてんのか。と思った。
店長は「ずっとひとりなんじゃねーかと・・・」と言って店の奥に下がっていった。
店員さんが気付いて急いでレジに入ってくれなけばレジの横に置かれた水槽の中のいそめを見ていた子供の視線に僕は絶えることができなかったように思う。
この時彼女の顔を見る余裕がなくて確認しなかったことを僕は後から後悔するのだが今は知る由もない。
逃げるようにして店を後にし、駐車場の自分の車まで戻った。店を出てすぐに車を洗おうと思った。僕はきれい好きな性分で基本的に車はきれいな状態をキープしていないと気が済まないのだが、当分の間インテリアのようにガレージに置かれていたのだから白色の車がさらに白っぽくなっていても不思議はなかった。
どこかのガソリンスタンドに行って洗車をしよう。車に戻るときそんなことを考えていた。
だから不用意でも仕方ないのだ。不覚でも仕方ないのだ。彼女が助手席に座ることを僕は止めることができなかった。座られて話しかけられるまでの間、僕は彼女のことをすっかりと忘れていた。
頭のどこか位にはあったのかもしれない。しかし、車が汚れていたことと、店長の涙とそれによる恥ずかしさが、それを僕の脳みその端っこのほうに追いやってしまったのだ。
そして彼女はこう言ったのだ。
「さあ、送ってよ」と。
気が付くと、フロントガラス越しの空が晴れていた。
そうは言っても彼女の家はこの真裏で車のエンジンをつけて駐車場をでて彼女の家まで行くのに1分あれば間違いなく着く。歩いたほうが早いのではないかという思いはあったがその話をした場合1分以上の時間が費やされることはすでに明白なのであるから僕はおとなしく車を発進させて送り届けるほうが時間を、これ以上費やすことはないのであるから黙って送り届けることにした。
彼女の家は高層マンションと言わないまでもファミリー向けに作られたようなマンションで、それなりの高さを誇る灰色のよくある見た目で、このマンションを見たときに僕の感想は「本当に社長の愛人だったんだ」ということだった。断っておくが、これは口には出していないし表情にも出していない。車で家まで送る間と釣具屋の店内で一緒に居たとはいえ、そこまで彼女に僕が気を許しているのかといえばそうでもない。マンションを見て再び警戒心が呼び覚まされたのではなく、油断はしたが警戒していないわけではないのだ。
彼女の言った通りこのマンションには駐車場があった。駐車場はきれいなアスファルトで、駐車スペースに番号が振られている。指定された番号に車を停める。と言っても部屋に行くわけではない。エンジンは切らずに彼女が車から降りるのを待った。そうすると彼女はいままでにないとても丁寧できちんとした口調で僕に向かって
「ありがとうございました。」と言った。
正直少し面を食らった。男らしい感じかふざけた感じで「じゃあな」とか「ばいばい」と言われると思っていたからだ。そう言って彼女は自分が乗っている助手席のドアを開けて車を降りた。そしてこう言った。
「ごめんなさい。ちょっとだけ待っててもらえますか」と。
5分が経ったかなと思うくらいで彼女は戻ってきた。その間僕が考えていたことは、
1、社長が一緒に出てくる。
2、彼氏が一緒に出てくる。
3、会社の同僚が一緒に出てくる。だった。
正解は4。で、一人で出てきた。しかも、先ほどとは違う装いで。助手席の窓越しに見た彼女の姿に僕はとても動揺したし、憂鬱で逃げ出したい気分にさせられた。近づくにつれて、彼女がしていた大きめのレンズでピンク色の縁をしたコーチ製サングラスをかけているところを見たとき、より一層逃げ出したいと思った。
彼女は自らの釣り道具一式を持ってきたのだ。彼女が近づいてきているときに、思わず口から出た言葉は、「嵌められた」だった。
僕はもう抗うことはできなかった。ニヤニヤしながら近づいてくる人を呆然としながら待つことしか、できることもなく思考回路はオーバーヒートしていた。
ガチャっと助手席の扉が開く音がして我に返った。「どうして」と言ったところで彼女が「釣りに行きます。」と言った。これから発言するすべてが無に帰すであろうことを僕は悟った。そして、今から釣り竿などの荷物を戻しておとなしく帰っていく彼女を想像することができなかった。
半ばあきれ顔の僕の顔を見て「ふふふふ」と笑った彼女は助手席のドアを閉めて後ろに回り、そしてトランクに荷物を慣れた様子で積んでいった。この車は、釣りをするためだけに買ったような車だ。山道でも走れるように大きな車でそれなりの排気量を誇るが僕の荷物と彼女の荷物を積み込むときれいに埋まってしまった。「手伝ってよ」と言われて、積み込んでいるときに考えたことは、竿の長さだ。彼女の釣り竿はツーピース(二つに分かれるもの)だった。僕は普段絶対にツーピースの竿は使わないが、たまたま今日のメインは海を見ることで、釣りはその副産物的な愉しみであるため二つに分かれないワンピースの竿は、フロントガラスに接触してがちゃがちゃと音がするため僕もツーピースの竿しか積んでおらず、わざわざ置いてきていたのだ。それを考慮してくれたのだろうか。とも、一瞬考えがよぎったけれどもそんなこと他人に分かるわけがないし分かる人間がいたとしたら一緒に行こうと言い正したりしないだろう。そんな目で僕は彼女を見ることしかできなかった。
実のところ僕は運転があまり好きではない。運転は自分で言うのもなんだが得意だと思う。が、無理に割り込んでくる車や、車間距離がやたらと近い車がいると気になってしまうからだ。また、僕は子供の頃から清く正しくまじめに生きてきたという自負がある。だからなのか僕は運転しているときに、信号無視をする歩行者だったり危ない運転をする人を意識しなければならない(近づくと事故をするかもしれないため)ことが、少しの苦痛に感じるのだ。しかも今日は助手席に人を乗せている。より一層の注意が必要となるのだが、彼女は僕に話しかけ続けるだろう。
しかし、ここで間違えてほしくないのは、そうは言っても彼女と話すことが苦痛ではないということなのだ。彼女は会社にいる時とは違い何というか、そう、親しみやすさがある。何より底抜けに明るく感じる笑顔がある。だからなのか、自分でも意外なほど話せた。まるで20年来の友達かのように、とてもしっくりときた。彼女はなんにでも興味を示した。。そしてその感想が秀逸というか、自分の発想にないことで正直楽しかった。
普段電車で通勤する彼女の家は駅からそれなりの距離がある。30分はかかるそうだ。対して僕の家は駅から5分の閑静な住宅街。僕は駅近くに部屋を探したが、彼女は違った。たまたまふらっと寄った不動産会社で勧められた部屋の内見終わりに、駅まで実際に歩いてみたいと言って本当に歩いて帰ったらしい。その時、小学校があって子供の声が聞こえてきたりして仕事に行くとき元気になれそうとか、並木道が青々としていて、きれいだからこれが赤くなったら季節が変わるんだって思えるだろうな。とか、とても大きなカエルがいてこんなに川もないところに、こんな大きなカエルがいるわけないから誰かが毎日餌をやっているかもとか、そんなことを思ったら楽しくなって、ここにしようと部屋を決めたという。
僕からすれば、毎日歩くのだから少しでも駅に近く毎日少しでも寝れるように駅に近くと思ってしまうが、彼女の考え方やとらえ方は僕には新鮮だった。
こんな話もした。僕は釣りをしていて釣れた魚をおいしそうとは思わないし水族館が好きでよく行くのだが友人と行ったときにおいしそうだと言うから、刺身になって泳いでくれてたらそう思えるかもねと、冗談で言った。みたいな話をしたら彼女は少し考えて でも、魚を見ても牛を見ても私はおいしそうだなって思うと言われて冗談だと思ったが、どうやら本気だったようで少しだけ引いたし、この子は毎日が楽しいんだろうなと思った。
僕の部屋を出るところから考えて2時間ほど経った。釣具屋から考えると1時間30分車を走らせ目的の海に着いた。釣具屋で聞いた釣りのポイントには、すで人がいてそこで釣りをすることはできなかったが、もともと釣ろうと思っていたポイントは、ちょうど今まで竿を振っていたであろう釣り人が、帰るところだったのでそこでゆっくり釣ろうと車を近くの時間貸しの駐車場に停めた。車を降りると空が気持ちいいくらいに晴れていて空をまぶしそうに見上げる僕を、天気予報、完全に外れたね。とピンク色のサングラスをした彼女が笑った。
ポイントについて彼女の第一声は、「海のにおいがする」だった。
そりゃあ海だからねと言って竿の準備をする僕に彼女はそうだねと言って笑いかけて彼女も準備を始めた。手伝う?と聞くと んーん大丈夫 と言って慣れた手つきで針に糸を通した。
釣果から言うと僕は、3時間ほどの時間では魚を釣ることはできなかった。
竿を振り慣れているのがわかるフォームとサングラスのレンズがガラスの偏光レンズに代えられていることからも彼女が釣り好きであることは疑いようがなかったし、この数時間で、彼女の言葉と人間性疑おうとは、もう考えていなかった。これがこの人心掌握が営業成績ナンバー1の実力か。とか、考えていると、クーラーボックスを抱えた彼女がこちらに向かって歩いてきた。このクーラーボックスの中には、50センチを超える大きなクロダイとたくさんの氷が入っている。大物だ。
「もう帰ろ?」微笑みながらそう言った彼女は、海と夕暮れを背景にして絵画のように美しいと思った。
「すっごい動いてる!」クーラーボックスを持った彼女が言った。しゃべらなければいいのにと、心からそう思った。
明日からの彼女の反応を少し不安に感じながら。