恐れ多くも女王陛下2〜宰相の思惑〜
王宮の寝室のベッドに横たわるこの国の国王はまだ若くこれからの将来を期待されているというのに、その人生を終えようとしていた。その事実を嘆き悲しんだ人々が暗い面持ちでベッドの周りを取り囲んでいた。
「おいおい、皆の者。そのような顔をするでない。余がこの世を去ったところで世界は何ら変わらず回り続けるものだ。まだ世界に残り続けるというお前たちがそのようなことでどうする。これからの未来を、この国を、この子をよろしく頼むぞ」
頬がこけ顔色も酷くその死が間近だということが一目でわかるような状態だというのに、その強い意志を宿した瞳だけは変わっていなかった。いつも通りの力強い眼差しだ。
「お父様、どうしてずっとおねんねしているの?早く元気になってまた一緒に遊んでくださいね」
取り囲む大人たちの中に一人だけいた小さな少女が無邪気にそう問いかけた。幼すぎる少女にはまだ王の状態が理解できずにいた。自分を好いてくれている娘にうれしく思いながらも、王は少し困ったように微笑んだ。
「悪いな、キャロライン。余はもうお前とは遊んでやることができなさそうだ。それと、もう少ししたら余はお前や国民のもとを去らなければいけなくなってしまう。もう会えなくなってしまうのだよ」
溢れてしまいそうなほど大きな瞳がぱっとさらに見開かれ、潤んでいく。いつも仕事で忙しくあまり会えない日も多かったが、聞き分けの良いこの少女は泣いて駄々をこねるようなことはなかった。
しかし、今回はいつもとは違うただならぬ雰囲気を感じ取ったのかもしれない。大きな瞳から涙が零れそうになる。
「……だがな、キャロライン。余はお前のことをいつまでも見守っているぞ。離れてしまっていてもお前を思う気持ちはずっとそばにあるままだ。そして、お前は将来、国民を守り幸せにするような立派な王にならなければならない。強く生きるのだぞ!」
泣き出しそうな少女をなだめるように優しく語りかける。しかし、娘を想う優しい父親としてだけではなく、この国のことを想う国王としても少女に語りかけた。
その真剣な表情は病人とは思えないような力強さがあった。視線は少女をしっかりと正面からとらえ、王としての威厳と意思を宿していた。
「……はい。……わたし、お父様みたいな立派な王様になります!」
少女は声を震わせながらも、涙を零さず視線を逸らすことなくしっかりとそう言い切った。
それでも、これはこの幼い少女が一人で抱えるには大きすぎる使命で誰かにすがりたくなるのは必然だった。だから、少女は隣にいた青年の少女よりも大きな手をぎゅっと掴んでいたのだった。
その様子に気が付いた国王は思わず相好を崩した。そして、大きすぎる使命もこの二人でなら成し遂げられるのではないかと感じられた。
「ジルベール、お前にも頼んだぞ」
「はい。かしこまりました、国王陛下」
王は少女の隣のその青年にも語り掛ける。迷うことなくそう返事をした青年の瞳にも強い意志が感じられる。
そして、その青年は掴まれた手の中にある小さな手を壊さないように、しかし決して離さないようにしっかりと握り返していた。この手を自分が守るのだというように。
そしてその数日後、国民に深く愛された国王陛下は、国民と幼い愛娘を残してこの世を去ったのだった。
***
国境との境に架かる橋を一台の馬車が駆け抜ける。その馬車には1人の青年が乗っていた。
その青年の名はジルベール・ラフォン。彼は今、馬車が向かっている国の宰相の孫にあたる人物だ。
将来、国の中枢を担うに相応しい人物になるためにと他国へ留学していたため、母国へと帰還するのは3年ぶりになる。故郷を懐かしむ気持ちとこの国のために身につけた力を活用しようという野心を胸に馬車に揺られていた。
「失礼いたします。お久しぶりです、父上。これからは父上のお力になれるよう精一杯精進していきますのでよろしくお願いいたします」
母国へと帰ると、まずは3年ぶりとなる実家に顔を出した。
ジルベールの父は身体が弱く、あまり長時間働くことができなかったが、そんな彼をサポートしながら、この国のことを学んでいこうという企みがあった。
「久しぶりだな、ジルベールよ。立派になったな。お前の気持ちは嬉しいが、そんなことはしなくてもよいぞ」
「はい?どういうことでしょうか?」
ジルベールが誠実を尽くして言った言葉は簡単に否定されてしまった。父は理由もなくそのようなことをいう人ではないので、疑問に思い問い詰めようとしたところ、思わぬ訪問者が話に割り込んできたのだった。
「それは儂から説明しよう。久しいな、ジルベール」
「お久しぶりです。元気そうで何よりです。御祖父様、この時間にこちらにいらっしゃるなんてめずらしいですね。いつもは、王宮にいらっしゃるというのに」
ジルベールの祖父はこの国の宰相であるため多忙であり、昼間に王宮の執務室を離れることなどほとんどなかった。そのことを疑問に思ったジルベールは思わず聞いてしまっていた。
「ああ、いつもならな。だが、今日はお前が帰ってくると聞いて一刻も早く向かえに来ようとここまでしだいだ。詳しいことは移動しながら話す。ついてこい」
そのまま強引に連れ出されたジルベールは休む間もなく馬車に乗り、王宮へと連れて行かれた。
「実は今、この国の状況は非常にまずい状態と言える。お前には十分に学んできてもらった方がこの国にとって有益となると思い、引き戻すことはしなかったが、簡単に言ってしまえば、王宮の業務が滞っているのだ」
「と、言いますと?」
「5年前、前国王が亡くなったとき、発展途上だったこの国は様々な国と関係を広げようと条約の制定に取り組んだり、新しい事業を展開しようと未知のものに手を出そうとしていた。国王がご存命であったのなら、優秀なあの方は全てのことを成功させていただろう。しかし、国王が抜けた穴は想像以上に大きかった。国の象徴だったあの方がいなくなってしまったことで、各国との条約の制定も難航し、新しい事業でさえ、なかなか進まなかったり、不発に終わることがほとんどだった。今は、その後処理に追われている。それに加えて、まだまだ取りかかれていない事柄と通常業務もある。何人も優秀な事務官が身体を壊して辞めていったよ。お前の父もその一人だ」
「父上もですか……」
確かに、先ほど会った父上は以前会ったときに比べてやつれて覇気がないようにも感じられた。元々、身体の弱い人なのに無理をしたのか、激務に耐えられなかったのだろう。
ということは………
頭の回転が速いジルベールには祖父の言わんとしていることが予想できてしまった。
「そうだ。だから、次期宰相はお前に任せようと思う。それも、早急にだ。儂ももうそろそろ限界なのでな」
やはりそうか。
ジルベールの予想は当たってしまった。
すぐに補佐官として国の上層部の役職には就けるとは思っていたが、この国に戻ってきて早々、宰相をやることになるとは。そんな若造が国の権力者の二番手となるなんて、どんな反感を買うことか。
だが、ジルベールにはそれすらも黙らせることができる自身があった。それだけの実力はあると自負している。
「………私には身に余る役職ではありますが、この国のため、謹んで宰相位に就かせていただきたいと思います」
「まあ、お前ならそう言うと思ってはいたがな」
ジルベールの祖父はさも当然の様にそう言ってのけた。普通なら断るような話だが、ジルベールならば話を受けると踏んでいたのだろう。さすがは、この国の宰相をしているだけのことはある。そう思い、ジルベールは内心、苦笑していたのだった。
***
王宮に着き、案内された執務室は何とも言い難いほどに悲惨な状況だった。書類は山となって積み上がり、期限ぎりぎりのものや、ましてや期限がとっくに過ぎた業務に追われている者までいた。
何という体たらく。だが、補佐官たちがサボっていると言うわけではなさそうだった。このような少人数で仕事を回していること自体、物理的に不可能であるのだろう。
「他の補佐官はどこにいらっしゃるのですか?人数が少ないように思いますが」
「ああ、そう言えば今はあの時間であったか。丁度良い。ついてまいれ」
そう言った祖父にジルベールが連れてこられたのは謁見室の前であった。半年ほど前に、前国王のご息女であられるキャロライン様が女王陛下となられてからは、この部屋も使用が再開されていた。
女王陛下が王位に就かれてから挨拶がまだであった自分を紹介するためにここに連れて来られたのだろう。祖父が扉の前に控えていた者に何か伝えると、扉が開いた。
「おい!今日の謁見はまだあるのか!妾はもう疲れたぞ!」
その瞬間、怒号が聞こえてきた。その声は、幼く可愛らしい声質ではあるものの、決して耳障りの良いようなものではなかった。内心、顔をしかめる。
「申し訳ありません、女王陛下。次が最後でございます。新しく宰相となった者を紹介いたします。………ラフォン、入室せよ」
そんな様子の女王陛下をいつもの事のように軽くいさめると、祖父はジルベールに入室を促した。ジルベールはその言葉に耳を疑う。自分がいつ宰相になったのかと。先ほど、次期宰相に推薦していただくという話は聞いたばかりであったが、それにはまだ時間が掛かるはずだった。
しかし、女王陛下の前で、こう言ってしまったからにはもう後には引けなかった。
「失礼いたします、女王陛下。お初にお目にかかります。私、この度宰相位に新しくつかせて頂くことになりましたジルベール・ラフォンでございます」
動揺を表に出すことはなく、悠然とした動作で女王陛下の前にかしづき頭を下げる。
「おもてを上げよ。ふん、お前みたいな若造に務まるのか見物だな。まあ、これから宰相としてせいぜい精進するといい」
「有り難きお言葉でございます。心より精進して参ります。ときに女王陛下、一つお耳にお入れしたいことがあるのですが、発言をお許しいただけますか?」
「うむ、話してみよ」
女王陛下はこの前、10歳になられたばかりでジルベールの一回り以上年下だ。そんな少女に若造と言われたことは気にもとめていなかったが、女王陛下のその態度が気に障った。
「恐れ多くも国王陛下、その玉座はあなた様には合い相応しくないと考えます」
ジルベールは前国王を心から尊敬していた。その国王がおかけになっていた玉座にさも当然の様にふんぞり返って座る少女の姿が苛立たしかった。留学中に様々な国の国王に謁見したが、少女の姿は愚かな国王の典型的な姿であった。
「……な、なな、なんだと!!貴様は余を侮辱しているのか!!不敬罪だ!皆の者、今すぐこの者を処罰せよ!」
当然、このような展開になることは予想していた。愚かな国王は激高しやすい。これも典型だ。
それに、無知で言いくるめやすいということも。
「いえ、そうではありません。私は陛下のお身体を案じてそのように申し上げたのです」
「は?どういうことだ?」
「その玉座は陛下のお身体に合っておりません。今もそのように反り返ったような姿勢をとっていらっしゃいますが、その体勢は腰に大きな負担を与えております。玉座を小さなものに変えるか、もしくは座り方を直すかをしなければ近いうちに腰が砕け、一生寝たきりの動けない身体になってしまうかもしれないのです」
ジルベールは一気にそう言い切ると最後のとどめにと、嘆かわしいというように俯いて手で顔を覆った。脚色どころではなくほとんどが嘘であるが、女王陛下は信じ込んだようで顔を青ざめさせていた。まあ、子供であるのだから信じてしまうのも無理はないだろう。
「驚かせてしまったようで申し訳ございません。それほど心配せずとも今ならまだ間に合います。早急に新しい女王陛下に合った玉座を手配いたしますがよろしいでしょうか?」
「う、うむ!なるべく早くだぞ!」
「御意に」
ジルベールは再び女王に向かって一礼すると、謁見室を後にした。
「お前なあ、何を言い出すのかと冷や冷やしたぞ。何事もなくて良かったが」
「私の方が驚きましたよ。まだ決定もしていないというのに、女王陛下に私を宰相として紹介するのですから。それに、あの女王陛下はどうなさったのですか?どなたが教育していたのでしょうか?」
退室したジルベールの後に続いて宰相である祖父、いや、先ほどの時点で前宰相になったジルベールの祖父がそう苦笑しながら話しかけた。それほど肝を冷やしているようには見えないところが、食えないところだ。
そんな祖父にジルベールは貼り付けたような笑顔で問い詰めた。暗にあなたが付いていながら、何故あのように育ってしまったのかと言うように。
「いやあ、お父上様である前国王もお亡くなりになって可哀想でなあ。つい、皆も甘やかしてしまうところもあってだな……。ごほん。それはさておき、お前が宰相位に就くことについてだが、先ほどの女王陛下への対応を見ていればもはや反対する者などいないだろう。お前もそう言う意図もあってあのような態度を取ったのであろう?」
「ええ、そうかもしれませんね。とにかく、引き継ぎをお願いします。私が宰相となったからには、好きにやらせていただきますからね」
年甲斐もなく顔をほころばせる祖父に対して冷たい視線を送りながら、ジルベールは諦めたようにため息をついた。切れ者と言われていた前宰相の祖父も子供の前では形無しか。孫である自分は祖父に甘やかされた記憶がないのは複雑ではあるが。まあ、子供の頃から大人にわがままを言うような可愛げのある子ではなかったのだけれども。
そんなことよりも、と先ほど謁見した女王陛下を思い出す。
あれは、だめだ。この国をまとめる者として相応しくない。
尊敬する前国王の血を引くご息女であられるにもかかわらず、その片鱗も見られない。
まず、考え方がだめだ。自分勝手で他人のことを考えられないものが王として国民に貢献できるとは思えない。
それに、あの姿。椅子の座り方は言うまでもないが、服装や髪も気になった。女王陛下として最高級の手入れがなされているはずであるのに、服には皺が寄り髪は乱れていて全体的に小汚かった。使用人の言うことを聞かずに、きちんと手入れを受けていないことがうかがえる。
だが、使えないものもこの国のために最大限に利用することこそが宰相の責務だ。
せめて、みかけだけの女王陛下として私の傀儡となっていただこう。
そんな考えの中、ジルベールは再び書類が山積みとなった執務室へと足を踏み入れた。
***
ジルベールが宰相として働き始めてから、女王陛下の改造計画は着々と進められていった。
まずは約束していた謁見室の新しい玉座を用意から始めた。あの時言ったことはほとんどが口からの出任せであったが、身体に合わない椅子が成長を阻害するということはあながち間違いでもない。子供用の椅子も取り扱っている椅子職人に作らせたところ、女王はなかなかにその椅子を気に入ったようであった。これで、最初の信用は得られた。
次に、その見た目をどうにかしようと、これまた誇張を織り交ぜながら湯浴みと髪の手入れをするように仕向けた。さらに、好き嫌いも激しく、食事を残すことが多いという話も料理長から耳にしたので、若干の脅しも織り交ぜながら完食させるように誘導した。
女王陛下はなかなかに素直な性格で口車に乗せるのが簡単なこともあり、一般的な家庭で育った子供なら当たり前に出来ているようなことではあるが、生活態度はすぐに改善されていった。
また、女王陛下は自分がこの国の最高権力者という意識だけは強いのか、恐れ多くも女王陛下、と前置きをつけると大抵のことは聞き入れてくれていた。
女王陛下にお付きの周囲の者からも陛下がよい子になられたとの声があり、業務だけではないジルベールの手腕も評価されることとなった。
そこまでは順調だったのだが………
「ジルベール!!おい、いるか、ジルベール!!」
今日も執務室の扉が勢いよく開いたかと思うと、そんな声が聞こえてきた。朝から何とも元気なものだ。
ここのところ、何故か毎日のように女王はジルベールのいる執務室へと訪ねてくるようになっていた。
嫌われるよりは好かれる方が扱う側としては扱いやすいが、ここまで懐かれてしまうと話が変わってくる。こうも毎日押しかけられては仕事の邪魔に他ならなかった。
「はい、ここにおりますよ。今日はどういったご用件でいらっしゃったのでしょうか?」
「うむ。今日は天気が良いから室内にいるなどばかばかしいと思ってな。お前がこんなところにずっといるから知らないと思って余がわざわざ教えに来てやったのだ。ほら、早く外へ遊びに行くぞ!」
書類の山の奥から顔を出したジルベールは女王陛下に歩み寄る。ジルベールに迎えられた女王陛下は満面の笑みでジルベールの手を取り、外へ連れ出そうとした。
ジルベールは毎回執務室に来る女王陛下に内心渋々ながらも付き合い、そのついでにと生活態度を改善していた。しかし、いい加減それも面倒になってきていた。何よりも、やらなければならない業務は終わらないほどあるのにそんなことに時間を取られるのが我慢ならない。
ジルベールは女王陛下がなされていることは純粋に好意からくるものだということは分かっていた。ジルベールのためを思ってそのような行動を取っているのだから、無知とは恐ろしいものだ。
そうはいっても、もはやジルベールも我慢の限界だった。手を引く女王陛下に連れられることなく、その場を動こうとしなかった。
「おい、どうした?余の誘いを断るというのか?」
「恐れ多くも女王陛下、私には仕事がございますので陛下にお供することは出来ません。せっかくの有り難いお誘いをお断りして申し訳ありませんが、他の方とお遊びになっていただけないでしょうか?」
「余はお前と遊びたいのだ!仕事など他の奴にやらせておけばいいだろう!」
「それがそうもいかないのです」
何とも自分勝手な言い分だ。そんなことをしては、他のものが苦労するということが分からないのだろうか。
ジルベールは女王陛下に気がつかれないほどの流れるような動作で彼女の手を振り払い、机の上に積み上げられた書類の山へと向かった。そして、一束の紙を取り出すと女王陛下の前へと戻ってきた。
「これが今、私が行っている仕事の一つです。国境にかかる橋の通行の取り決めについての文書なのですが、これには国の権力者のサイン、すなわち王か宰相のサインが必要なのです。他にもこれと同じような私が行わなければならない仕事が山ほどあるためここを離れられないのですよ」
「そんなもの、ただ名前を書くだけだろう?後でやれば良いではないか」
「いえ、きちんと確認し改善すべきことがあればそれを提示したうえでサインしなければなりません。例えば、この橋は国境に架かっているため他国と自国の人々が行き来していますがそれだけでなく農作物や製造物を運ぶためにも使っています。それに対する通行料は通常よりも安価に設定しています。陛下はガトーショコラがお好きでしたよね?」
「うむ。あれほど美味なものはないと思っている」
「そのガトーショコラの材料となる作物も我が国では栽培できず、他国からの輸入に頼っています。もし、通行料をあげてしまったらもう我が国に運び込むのは諦めてしまうかもしてません。そうなってしまえば、ガトーショコラを召し上がることが出来なくなってしまうかもしれないのです」
「それは嫌だ!……それならばしかたないな」
ジルベールの説明に納得した女王陛下は少し寂しげに肩を落としながら執務室を去ろうと背を向けた。ジルベールは例のようにほとんどが嘘の言葉で女王陛下を追い返す。
これでいい。自分に興味が向かなくなってもう誘いに来なくなってしまうかもしれないが、それはそれで都合が良い。少し嫌われるくらいが立場的にも丁度良い。ジルベールはさみしげな女王陛下の背中を見送りながらそんなことを思っていた。
しかし、女王陛下は俯きがちだった顔を勢いよく上げて振り返り、落胆した表情から一転して何かを思いついたようにぱっと顔を明るくした。
「そうだ!だったら余がそれを手伝ってやろう。サインをするのは王でも良いのだろう?そうすれば半分の時間で済むのだから余と遊ぶ時間も出来るであろう!」
「なんと有り難いお申し出でしょう。とても助かります。では……これをお願いします」
急に振り返ってきたと思えば女王陛下はそんな提案をしてきた。本来であれば王が行うべき仕事も宰相であるジルベールが代わりにしている。手伝っているのはこちらの方だと顔をしかめそうになったが、もちろんそのような感情は表には出さずに表面上は優しく微笑むと、ジルベールは女王陛下に一冊の本を手渡した。
「なんだこれは?仕事の書類ではないではないか。算術の問題集だと?」
「はい。美味しい料理を作るためにはまず下ごしらえが大切です。それをしないことには調理すら出来ません。そのことと同じで仕事をする際にもまずは下準備が必要なのです。ですので、女王陛下にはまず、算術の知識をつけていただきたく問題集を自室で解き終えて来て欲しいのです。ですが、陛下にそのようなご面倒をおかけになるのはとても心苦しい事なので無理にとは申しませんが」
学のない者に仕事など任せられる訳がない。これで勉強でもしていなさい。という皮肉を込めてジルベールは算術の問題集を渡した。自分のせいでジルベールが多忙を極めているとは露にも思わずに無邪気にそのようなことを言う女王陛下に嫌みの一つでも言いたくなったのだろう。
「良いだろう。すぐに終わらせてきてやるから待っていろ!」
しかし、女王陛下はそんなジルベールの皮肉には少しも気がつくことはなく、意気揚々と執務室を後にした。
女王陛下に手渡した算術の問題集は300ページ以上ある。あの堪え性のない女王陛下がそんなものを終えられるはずがない。これで、執務室に来ることもなくなるだろう。
そんな考えとジルベールの皮肉を読み取った他の補佐官は、恐ろしい者を見るような目でジルベールのことを見ていたのだった。
***
もう執務室に来ることはないだろう。そう高をくくっていたジルベールと補佐官たちは3日後、あの問題集を抱えて再び執務室に訪れた女王陛下に驚くこととなった。女王陛下は問題を全て解き終えた上でやって来たからだ。
しかし、適当に埋めてきただとか、誰かに代わりに解かせただとか思うのは以前から女王陛下を知っていれば当然のことであろう。だから、ジルベールも例に違わずそう思い、答えの書き込まれた問題集をめくりながら女王陛下に不正を暴く冷酷な質問をしたのであった。
「素晴らしい。全部解いていらっしゃいますね。……時に女王陛下、369×784は?」
「289296」
その問題集には加減乗除の基本的な計算問題が出題されていたが、後ろのページに進むと3桁の計算などなかなかに難易度の高い問題もある。そんなこともあり、こんなに早く解き終わるはずがないと踏んでいた。
口頭でこのような難易度の高い計算問題を出しても、大人でさえ大抵の人間は答えることが出来ないだろう。しかし、ジルベールは女王陛下を諦めさせるためにそんな問題を出した。
だが、女王陛下は一拍も置くことなく、正しい答えを導き出したのであった。
ジルベールは女王陛下のその答えに一瞬、思考が停止した。まぐれか?と、そう思うもそんなことは計算するより当てることの方が難しいとすぐに考えを否定した。となると、本当に女王陛下はこの問題集をこの短時間で解き終えたということか。
「……正解です」
「当たり前であろう!余がどれほどやったと思っているのだ。こんなものは朝飯前だ」
誇らしげに腰に手を当て胸を張る女王陛下はいつもの調子である。しかし、今回はその態度も虚勢ではなく、実力に見合ったものだ。女王陛下にこんな能力があることなど予想していなかったジルベールはわずかに言い淀んだ。
自分で暗算できなかったのであろう補佐官たちはジルベールの返答で正答だと分かり、その事実にどよめいていた。ジルベールも内心では驚いていた手前、補佐官たちの気持ちは分かる。だが、関わり合いにならないように仕事に集中しているふりをして聞き耳を立てていたくらいなら、最後までそれを貫き通せば良いものを。ジルベールはそんな補佐官たちの態度に腹立たしく思う気持ちに加えて、自分の動揺を誤魔化すように補佐官たちへの仕事を追加したのであった。
この少女は、ただの愚か者ではないのかもしれない。
そんな考えがジルベールの中に浮かんだ。しかし、断定するのにはまだ早い。
ジルベールは次に女王陛下を王宮の図書室へと連れて行き、そこにある歴史の書物を100冊ほど読むように指示した。何故、歴史の書物などを読む必要があるのかと聞きはしたものの、女王陛下はそれ以上の反論もなく読み始める。
どうせ、長続きはしないだろう。と、大した期待もせずにジルベールは図書室を後にし、通常の業務へと戻っていった。
それから数日はいつも以上に急な業務が立て込んでおり、ジルベールの頭からは女王陛下のことがすっかり抜け落ちていた。やっといつも通りの忙しさに落ち着き、資料を取りに王宮の図書室へ入った際、女王陛下の姿を見たことでそのことを思い出した。
もうあれから1週間くらいがたった頃だろうか。一心不乱に本を読む女王陛下の姿を見たジルベールは彼女に声をかけた。
「精をお出しですね、女王陛下。本棚の本はどれほどお読みになりましたか?」
「おお、ジルベールではないか。余が来るのを待ちきれなくなったのか?だがもう少し待っていろ。今、この机にあるものを読めば全て読み終わるからな」
机にあるのはあと3冊か。1週間ほどで100冊を読み終えるはずがない。読んでいたとしても、適当に流して内容が頭に入っていなければ何の意味もない。そう思い、女王陛下に本の内容を尋ねる質問をしようとして…………やめた。
きっと、彼女がそう言っているのだからそうなのだろう。きちんと向き合ってみて分かった。彼女は多少の見栄は張るものの、嘘は一度もついてはいなかった。
もう彼女の実力は本物だと認めるほかない。
最後にジルベールは彼女に一つだけ質問をした。
「恐れ多くも国王陛下、一つお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「うむ。なんだ?」
「陛下はお勉強がお嫌いでこれまでほとんどされてこなかったと聞きました。どうして急にこんなにも熱心になられたのですか?」
「別に余は勉強が嫌いというわけではない。昔、余を教えていた家庭教師に聞いたのだ。何故こんなことをしなくてはならないのかと。数字の式を解くことも故人の名前を覚えることも意味があるとは思えなかったからな。そうしたらその教師は、意味などと余計なことは考えずに勉強はしなければならないものだと言った。余はそんな意味のない無駄なことに時間を使いたくなどなかったから、家庭教師の授業は聞かないことにしたのだ」
なるほど。優秀な彼女の芽を潰したのは無責任な教育者のせいであったのか。
「そうですか。そんなことが……」
「だが、意味がないわけではないではないか!その時教師が余に教えなかったために、今、出来ないことがあるのではないか。それに、ここにある歴史の書物を読んでいて分かったことがある。歴代の優秀な王や歴史上で主要となる人物は皆、多くの知識を持っているようだな。余も立派な王になるためにもっと学ばなければなるまいな!」
以前ならただの虚言だと聞き流していた彼女の言葉も、今なら実現するだろうとそんな気がした。
そういうことならば、彼女をみかけだけの女王陛下、傀儡としておくのはもったいないな。
今後の彼女の使い道が広がったことにジルベールは口角が上がるのを止めることは出来なかった。
「そうですね。恐れ多くも女王陛下、あなたは馬鹿でいらっしゃるのでもっと多くのことを学ばなければなりませんね」
そして、ジルベールは彼女に発破をかけるようにいつもの前置きに加えてそう続けた。
さて、やらなければいけないことはさらに増えそうだが、これからが楽しみだ
***
それからは怒濤の日々だった。まずは、留学時代の友人を彼女の教育係として呼び寄せた。ジルベール自身がつきっきりで彼女の教育をすることはできないので、信用のおける者に任せるためであった。渋る友人を説得するのには骨が折れたが、彼は予想以上の働きをして彼女を成長させた。そして次に、彼女の国民からの印象改善に取り組んだ。半年ほどではあったが、彼女が女王陛下として即位してからジルベールが宰相位に就くまでの間の彼女の態度が噂程度ではあるが、世間に広まってしまっていた。直接謁見に赴いた者などは彼女に対してあまり良い印象を持っていないようであった。そんな彼女の印象を塗り替えるために、各地に赴きその優秀さを認めさせていった。
その他にも、滞っていた他国との条約の制定や新しい事業などやらなければならないことは山ほどあり、日々を忙しく過ごしていた。
そんな日々の中、ジルベールには公務とは関係ない一つの懸念があった。
それは、よく彼女の視線を感じるということだ。それも、まるでジルベールに恋をするような熱い視線を。
幼い少女が身近な異性に好意を抱くのは不思議ではないことなのだろう。社交界や他国との交流の中で他の異性との関わりが増えれば自然とそちらへ興味が移っていくはずだ。そんな風に考え、これといった対処も彼女の気持ちに取り合うこともしなかった。
しかし、何年経っても彼女の瞳にはジルベール以外が映ることはなかった。
「失礼いたします。お呼びでしょうか陛下」
「遅いぞ、ジルベール!余を待たせるとはなんたることだ!」
急に執務室に呼ばれ扉を開くと同時にそんな怒号が飛んできた。正面の椅子に腰掛ける女王陛下は腕と足を組み、憮然とした態度だ。それにも関わらず、ジルベールは逆にそんな女王陛下の様子に頬を緩めた。
「これはまた随分と懐かしい口調をしておられますね。お待たせして申し訳ございません、女王陛下」
「たまには昔のことを思い出してみるのも良いものでしょう?ジルベール、あなたが来てからもう何年になったのかしら」
「宰相位につかせて頂いてから8年が経ちました。長いようであっという間の時でございました。その間にこの国も陛下ご自身も随分と成長いたしましたね」
いつものように座り直した女王陛下の姿は誰が見ても賞賛するような美しさと優雅さを兼ね備えている。さずがだとしか言いようがない。元々の素質はあったが、ここまで理想とされるような女王にまで成長を遂げたのは本人の努力によるところが大きい。
もはや、あのわがまま放題だった名ばかりの女王陛下の面影は何処にもなかった。
幼い頃の女王陛下を懐かしく思いながらも、ふと陛下の前の机に並べられた10枚ほどの肖像画に目がとまった。
「ところで、その机の上にある大量の肖像画は一体なんですか?隣国の第三王子にグレゴール商会のご子息、自警団の英雄まで。他にも共通性の無いような方達の肖像画がこんなにも」
「さすがはジルベールね。顔を見ただけで分かるなんて。ジルベールにも相談しようと思ってたところなのよ」
「何をでしょうか?」
「私の結婚相手よ。他国との関係性の強化を選ぶか、商会との結びつきを強めて資金の確保に努めるか、平民の憧れの象徴と一つになりさらなる支持を得るか。さて、どれがいいのかしら?」
女王陛下はまるで次の舞踏会で出す料理は何にするかというようにそのことを話し始めた。だが、結婚相手を選ぶこともそれと似たようなことなのかもしれない。王宮で開かれる舞踏会には影響力のある人物が多く参加する。そこに出された料理一つを取っても注目され、その料理の原材料はどこから仕入れた物か、どの地域のレシピを使っているか、誰を主な対象として作られているかなどによって政治や経済の流れが変わってくる。自分の好きな物を出すわけにはいかない。
それと同じように考えると、まさに多大なる影響を及ぼすと考えられる女王陛下の伴侶選びには私情など挟む事はできない。
女王陛下はそんな風に考えているのだろう。
だがしかし、ジルベールには一つ疑問があった。
女王陛下は自分のことが好きではなかったのかと。
「陛下はそれでよろしいのですか?」
「……ジルベール、あなたがそんなことを聞くなんて珍しいわね。政略結婚など当たり前のことでしょう?」
こんなことは国の未来を第一優先に考えなければならない宰相がするべき問いではない。うぬぼれもいいところだが、そんなことを聞かずにはいられなかった。
女王陛下は表情を曇らせ、ジルベールから視線を外すと胸を押さえた。きっとまだ自分のことを好いて貰えている。そう確信するのには十分な材料だった。
だが、彼女は手本となるような立派な女王陛下になられた。自分の感情は押し殺し、好きでもない相手と政略結婚することになるだろう。それは国の発展のために有意義なことだ。
………嫌だ。そんなことは認めない。
理性的に考えれば彼女の選択が正しいことなど分かりきっている。それでも、彼女が他の男と結ばれてしまうことがジルベールには我慢ならなかった。そして、自覚した。
ああ、そうか。俺は彼女が好きなんだ。
思えば前国王の死の間際、幼かった彼女の小さな手が俺の手を握った時から、愛を抱いていた。
「……賢くなられましたね、女王陛下。そして、残念なほどに聞き分けも良くおなりになられた」
昔のままだったら彼女は自分の欲しいと思ったものは全て手に入れていただろう。成長したことで本当に欲しいものも我慢するようになられた。今のジルベールにとってそのことが不都合となるなんて思いもよらなかった。
「残念?もしかして、私のことを心配してくれているの?あなたにも人の心があったのね。でも、その必要はないわ。私が想っている相手は絶対に私とは一緒にならないような人だもの。叶わない恋を望むより、私は国にとっての有益を望むわ。それに、わがままは子供の頃に言いきってしまったのよ」
ジルベールの女王陛下に対する今までの態度は女性に対するものではなく、女王陛下という立場に対するものでしかなかった。そして、いつも国の利益を考え、時には冷酷な選択も行ってきた。そう思われても無理はないが、複雑な気分だった。
「はー。本当に優秀になられましたね。最近のあなたの働きはとても素晴らしいものですが、こういう時に少し面倒なのは誤算でした。女王陛下、私は幼い頃から一度もわがままを言ったことがありません。長い生涯の中で一度くらいわがままを言っても許されるとは思いませんか?」
「は?」
自分は口のうまい方だと思っていたが、こんな時には何故こんなことしか言えないのだろうか。しかも、このように苛立ったような態度で。恋は人を駄目にするものだと何かの書物で読んだことがあったが、それが自分にも該当するとは思わなかった。そして、自分の気持ちを伝えることにこれほどまでに緊張することも。
彼女がジルベールの訳の分からない発言に惚けている間に、距離を詰め寄り彼女の前にかしづいた。
あの、あなたをいつも導いてきた前置きに続く言葉でなら、受け入れてくれるだろうか。
「恐れ多くも女王陛下、私はあなたを愛しております。私と婚姻を結んで頂けないでしょうか?」
その言葉を聞いた瞬間、彼女は顔を真っ赤に染めて目を見開いた。そして、考えるようにころころと表情を忙しく変える。
ああ、どうか俺を選んでくれ。こんなに不安に感じるのは初めてだ。
ジルベールは目の前の彼女をじっと見つめていた。ふいにこちらを見た彼女と目が合う。その目には戸惑いの色が浮かんでいたが、意思を固めたようにこちらを見つめ返すと目を細め、こくりと頷いた。
今まで生きてきてこんなに嬉しいことはない。
そんな気持ちを表すようにジルベールは彼女の手を取り、その甲にキスをした。
小さくもあの頃より成長し大きく力強くなったこの手をもう離しはしない。絶対に守り抜き、幸せにしてみせる。
密かに心の中でそう誓い、ジルベールは満面の笑みで彼女に笑いかけたのだった。




