恋文・らぶれたあ(For Miss S)
――Dream come true ?
――君を夢に見ました。僕はとても悲しくなりました。
紫乃は膝に置かれた手紙を何度も手に取り、その度に溜め息をついた。
妹に見立ててもらった、萌黄色の振袖に藤の花と蝶をあしらった爽やかな色合いの加賀友禅と、菖蒲色に可憐な白花咲く蔦葉模様の綾織の帯というお気に入りの一式をまとっても、気分は晴れない。
先程まで木綿の着物を着ていたのだが、先程客人が訪れるとかで晴れ着に着替えさせられ、髪までしっかりと結われてしまった。
朝からバタバタと下働きのものが騒がしく、父は朝から不機嫌で、逆に母は浮足立っているほど上機嫌。
一体どんなお客様なのかしら、と紫乃は頭の片隅で考えつつも、目線は手紙から離れない。
――Can you believe yourself ?
――君は本当にいますか。君は君をどのように証明しますか。
かさり、と便箋の一枚が風で舞う。少し開けた窓からのそよ風の仕業だ。桜も盛りを過ぎ、葉が目立ち始め、暖かくなった空気に初夏の気配を感じる。
「あ」
「姉様、大事なお手紙はしっかりと手元に置いておかなければ」
慌てて腰を浮かしたが、ちょうど部屋に入ってきた妹の小桃が一足早く拾い、紫乃へ手渡す。山吹色の振袖に色とりどりの牡丹と鞠が鮮やかな京友禅と、渋い弁柄色の織の名古屋帯を締めた小桃は、少々憮然とした面持ちだ。
「ありがとう、小桃さん」
「また、あの詩人の方からのお手紙ですか。父様や母様から、姉様だけでなく青治兄様までお叱りを受けますわよ」
「あの詩人だなんて、そんな言い方。宗太郎様は青治兄様のご学友で、素敵な詩を作っても本業は彫刻家なのよ。この春でお二人とも卒業されたけれど」
「はあ、小桃も一緒に行けば二人きりにはさせなかったのに。風邪を引いた青治兄様が、紫乃姉様の東京見物の案内を彼に頼んだばかりに、見初められてしまって。そりゃあ姉様は美人で器量良しで小桃の自慢よ。だからって、もう!」
一人憤慨する小桃に、紫乃は苦笑する。
優しい面立ちで内向的な姉と、華やかな顔立ちで才気活発な妹。一番上の青治は真面目で頑固なので、兄と妹二人の性格は各々違う。それでも兄妹仲は良く、特に年の離れた紫乃と小桃は連れ立って出掛ける機会も多い。
しかし最近は、姉の想い人を良く思っていない小桃が紫乃に当たることが増えた。かと思うと、何故か宗太郎からの手紙を小桃が届けてくれることが多いことに紫乃は気付いている。
妹の心境がいまいち読みきれない紫乃は、困ったように笑う。
「小桃さんは笑顔のほうがよりかわいくてよ」
「そんなことより、姉様も懲りないですわね。あれだけ父様たちに連絡を取るなと釘を刺されていたのに。博臣様という立派で素晴らしいお医者様に婚約破棄されても、まだ目が覚めないのですか?博臣様はずっと姉様を好いていらしたのですよ」
「私と博臣様は幼馴染みの延長で婚約しただけなのだから、私たちには友情以上の感情は芽生えていないわ。滅多なことを口にしては駄目よ」
「それは姉様だけです。博臣様のお気持ちは、この小桃がよく存じていますわ。博臣様は、姉様が他に気持ちがあることに気付いて、全ては姉様のために自分が悪者になるお覚悟で、婚約をなかったことにしたのですよ」
「…小桃さんは、もしかして」
――You don't know.
――君は、もしかして、忘れてはいないでしょうか。君を慕う僕のことを。
紫乃の口が言葉を続ける前に、小桃は紫乃が大切に手元に置いている手紙を何故か焦ったように指差す。
「姉様っ!そのお手紙、どんなことが書いてありました?」
「え?ええと、外国の言葉も書いてあって、その意味はわからないけれど、日本語で書かれているのは、宗太郎様の夢に私が出てきたのですって」
「まあ!きっと、あなたを想うあまり、あなたが夢の中に出てきてくださったなどと、歯が浮きそうな台詞が綴ってあるのでしょうね。さすが詩人だこと」
「それがね、私が宗太郎様以外の人から忘れ去られてしまったそうなの。それで、私が本当に存在するのかどうか、手紙をしたためて確認したかったのですって。起き抜けからとても悲しい気持ちになってしまったようで心配だわ。明日からお仲間と合同展示会だと聞いているし、私如きの夢でお心を乱されては申し訳ないもの」
紫乃が手紙に目を落とし、憂いの表情を浮かべるのを見て、小桃が目くじらを立てた。
「姉様、この手紙は姉様の気を引くための、あの男の手段ですのよ!姉様の存在が創作意欲を増すなどと言って、どの詩集も彫刻も全然買い手がついていないというではありませんか!勉学のため外国へ行ったのに、一向に芽の出ないそんな男に、大事な姉様を…」
「小桃さん」
紫乃は厳しい声で話を遮った。温和な姉の見たことのない鋭い目付きに、小桃は思わず居ずまいを正した。
「私のことは何を言っても構いません。ですが、宗太郎様や彼の作品を貶すことは私が許しませんわ。あの方の才能は本物です。私が宗太郎様をお慕いしていることとは関係なく、世界各国でご遊学したことは、あの方の血肉となり、必ず世間様に認められる日が来るのです」
――I love you and you love me.
――僕だけは、君を君として証明できます。そして、逆もまた然り。僕を僕として証明できるのは、君だけです。
諭すように言葉を紡ぐ姉の芯の強さに当てられ、小桃は黙り込むしかなかった。
そんな緊張感に包まれた部屋に、心地よい低音の声が優しく響く。
「ありがとう、紫乃さん。やはり本物の君がいい」
「え…宗太郎、様?何故ここに?まさか、今日の客人とは…」
先程までの凛々しさはどこへやら、紫乃はおろおろと部屋に入ってきた背の高い洋装の男を見上げる。その後ろから兄の青治の顔も見えた。
運動を好むがっしりとした体躯の青治よりやや細身の宗太郎は、癖の強い黒髪を今日は後ろへ撫で付け、このあたりでは滅多に見かけない上等な一揃えのスーツも白いシャツも糊がパリッときいていて、涼やかな顔立ちも相まって惚れ惚れするくらいいい男だ。
宗太郎は狼狽する紫乃の手を取り、彼女の黒目がちの潤んだ瞳を愛しそうに見つめた。
「ご両親を説得したから来てくれって、青治くんと小桃くんから昨晩に電報が届いてね。今日という日を逃したら、紫乃さんをお嫁にもらえなくなると思って、慌てて来たんだ」
「え…え?」
未だ戸惑う紫乃に、宗太郎は笑みを深めてゆっくり伝える。
「紫乃さん、こんな芸術家駆け出しの僕だけど、苦労をかけることはわかりきっているけれど、僕をそのまま受け止めてくれるのは、君だけなんだ。君が君であることの証明は、僕が君を生涯愛すること。逆もまた然り、ってね。どうだろう、結婚してくれないだろうか?」
「ふふ、宗太郎様らしいですわね…はい、慎んでお受け致します」
独特の言い回しに、思わず紫乃は笑った。そして彼の手を握り返して、万感の思いで頷く。
青治はやんややんやともろ手をあげて喜んだ。
「いやぁめでたい!良かったな、宗太郎、紫乃。それに、芸術家の駆け出しなんて言ってるけれど、宗太郎のお父上は日本画壇の大家だからな。素質は十二分に揃っているだろう?」
「貴様、それは僕への重圧か?」
「はは!宗太郎は隠したがっていたが、両親があんまりにも話を聞いてくれないから、つい素性を明かすことになってしまった。すまない。だが、それでわかってもらえたよ。うちのような小さな町のたかが数百年続く造り酒屋が、国から名誉ある賞を数々授与されている画伯の子息へ失礼を働いているってことにね」
「おいおい、やめてくれよ。親父は親父だ。僕は本当にまだ何者でもない」
からかうような青治に、宗太郎が苦虫を噛み潰した顔で首を振る。紫乃は宗太郎の素性について詳しくなかったので、目を白黒させるばかりだ。
そんな中、言葉を発さない小桃を不思議に思った青治が声をかける。
「おや、小桃は何を泣いているんだい?」
「ひ、ひっく…だって、紫乃、姉様に、怒られたの、初めて、で…うぅ…」
「やれやれ、これは大好きな姉が取られると土壇場で躍起になったな。それでいて、紫乃には本当に好きな人と幸せになってもらいたいと、両親が勝手に捨てていた宗太郎からの手紙を拾い上げて紫乃に渡したり、お前は矛盾しているぞ。でも、どちらも本心だものな」
からりと笑う青治に一つ頷いた紫乃は、子供のように泣きじゃくる小桃の側にそっと近付き、背中を撫でた。
「小桃さん、ごめんなさい。あなたの気持ちに気付かないで、きついことを言ってしまって。お手紙ずっと届けてくれて、どうもありがとう」
「いいえ、姉様。小桃のほうこそ、謝らなければいけないのです。博臣様に好かれている姉様が羨ましくて、なのに他の人を好いている姉様が恨めしくて、でもやっぱり小桃は姉様が大好きで…ひっく…」
「そうか、小桃は博臣を慕っていたのか。それなら、博臣にはもう婚約者も恋人もいないのだから、問題ないじゃないか」
「で、でも、博臣様は紫乃姉様を…」
「人の気持ちは変わるんだ。先のことはどうなるかわからないだろう?ああ、博臣は頭はいいが鈍いところがあるから、小桃の気持ちは伝えた方がいいぞ。伝えなくて、一生会えなくなってから後悔することもあるしな」
「青治兄様…」
青治は紫乃に抱きつく小桃の頭をがしがし撫でながら、少し悲しげな顔で笑う。
紫乃と小桃は思わず青治を見つめた。兄が以前病気で婚約者を亡くしたことを思い出したのだ。
宗太郎は知ってか知らずか、青治の言葉を借りてぽつりと呟く。
「人の気持ちは変わる、か。それは自分のことか?いい加減、八千代さんへの返事をしたらどうなんだ」
「い、いや、それとこれとは話は別だろう…八千代さんは華族のお嬢さんだぞ?まだ幼いし、俺のことを兄のように思っているだけだろう」
「ほう、そうか」
紫乃は宗太郎から聞いたことがあった。
宗太郎の口利きで、兄が学生のときに由緒正しきお家のお嬢様の家庭教師をしていると。そのお嬢様から熱烈に口説かれていることも、知っていた。
この真っ赤な顔にこの慌てよう、兄も満更ではないのかと、紫乃は嬉しく思った。
そう、生きている限り、人の気持ちは変わるのだ。
宗太郎のことを愛しているが、昨日より今日、今日より明日ともっと気持ちが強くなる。
これも、変化だろう。
兄にはまた人を好きになって欲しいと、心から願う。
まだ何か言いたそうな宗太郎の口ぶりに、真っ赤な顔をした青治が慌てて皆を急き立てる。
「それはさておき、さあご両人!早く応接間で待つ両親に挨拶をしてこないと!宗太郎はこのあと予定があるのだろう?」
「そうだな、明日の打ち合わせが少々」
「まあ、申し訳ございません。こちらへご足労くださったばかりに…」
「なあに、紫乃さんに会いに来たと思えば、こんなの苦労に入りませんよ」
「お熱いことは結構だが、父も母も待ちくたびれてるんじゃないか。ほら早く」
「青治兄様、小桃はしばらくしたら参りますわ。こんな顔では心配をかけますもの。そして、宗太郎様」
「うん?」
小桃は宗太郎に声をかけ、手を揃えて深々と頭を下げた。
「小桃の大事な大事な紫乃姉様をどうか末永くお守りくださいまし」
「ああ、承知した。小桃くん、ありがとう」
「小桃さん、大好きよ」
紫乃の手を固く握った自分の手を小桃に見せ、宗太郎は力強く頷いた。紫乃も涙を湛えた瞳で、優しく妹を見つめる。
小桃も姉とその愛人の姿を目に焼き付け、漸く明るく笑った。
◇ ◆ ◇
その後、宗太郎は紫乃に宛てた手紙の内、紫乃の反応が良かったものを抜粋して「恋文・らぶれたあ(For Miss S)」という本を出した。
英語と日本語で書かれた内容は、若者から絶大な支持を得て、男性が女性へ想いを打ち明けるときにこの本を手渡すことが流行する。「For Miss S」のSを恋しい女性のアルファベットの頭文字にするのが粋だともされた。
作者の他の作品をと、宗太郎の他の詩集や本業の彫刻の方にも注文が殺到したのは、嬉しい誤算だった。
日本美術界からは外国かぶれと嘲られていた宗太郎の作品だったが、世論を味方につけ、徐々に評価を上げているらしい。宗太郎の両親が嬉しそうに、こっそり紫乃に打ち明けた。
妹の小桃も諦めずに博臣を慕い続け、念願の逢い引きが叶ったと、嬉しそうな手紙が届いた。
青治のほうはというと、業を煮やした八千代が家を説得し、押し掛け女房よろしく実家に滞在していて、兄様が嬉しいやら困ったやら毎日てんやわんやだと、後書きに添えられていた。小桃と八千代は年が近く、同じように片思いをしていることもあり、とても仲良くしているそう。
日当たりの良い縁側に置いた籐の椅子に宗太郎と腰掛けながら、届いた手紙についてああでもないこうでもないと語る何でもない平穏な幸福に、紫乃は心から満たされていた。