俺の彼女が諭吉に見える
俺は金に汚い。
「あつし君、私宝くじですごい金額当てたんだ。内緒にしてね」
6回目のデートの帰り。LINEに書くような軽い報告のつもりだったのだろう。
イエーイと両手を開いて俺の目の前に10本を示し、腕に抱き着いてきた。
その次にはもう昨日のバラエティの若手芸人に話題が移る。
しかし俺の耳には、彼女の可愛い声がもう何も入らない。
————10万? 100万? いくらなの?
頭の中は当選くじのことでいっぱいだ。
————当たったらどうするの? やっぱり貯金? 俺、彼氏だよね? 彼氏なら……。
どうすればさり気なく額を訊ねることができるのだろう、探るように小柄な彼女を見下ろして、愕然とする。
俺の彼女の顔が、福沢諭吉に見えるのだ。
もう一度言う。
俺は金に汚い。
実家の生業はただのサラリーマンだが、両親はとにかく吝嗇家だった。
ちり紙一つも無駄に出来ない。割り箸も洗って取っておく。
新聞すら取らない。夜中に捨てられたゴミ収集所の新聞の束を拾ってきて、まとめて読むのだ。当然一緒に手に入れたチラシの裏紙はノートとして使わされた。
ついでにゴミ袋も買わない。夜中にゴミ収集所にゴミ箱を持って行き、誰かの出した市指定ゴミ袋を空けて一緒に詰め込むからだ。
いつしか子供の俺もゴミ収集所のプロになった。
夜半に足を忍ばせてお宝を探し、明け方そしらぬ顔をして掃除をする。
すると早起きな近所のおばさんたちに「あら~敦君はえらいのねえ」と褒められて、お菓子や野菜のお裾分けをもらえたりするのだ。
もちろん親はそれを狙っていた。俺も褒められる分には嫌ではなかった。
しかしある日、俺は親の行動に疑問を持つ。
わが家の家訓において、トイレットペーパーは一回につき小は母だけ20cm、大なら30cmまでしか使ってはならない。
しかし俺は一昨日、友人家族の奢りで食べ放題に参加し、至福を味わっていた。
幸せの結果は、後日幸せなお通じとして現れる。
そして、さて便座に座って尻を拭こうとした時に、30cmなんかじゃ足りないという出来事に遭遇したのだ。
仕方ないからもう一巻きとペーパーホルダーをカラリと回した時、ドアの向こうから沈んだ声が掛かる。
「あっちゃん。まさかトイレットペーパーを無駄に使っていないでしょうね」
次に入ろうと廊下で待っていた母だった。
でも足りないから仕方がないのだという俺の訴えは、母の「そんな子に育てた覚えはありません!」という叫びにかき消されてしまう。
浪費家は所詮浪費家。無駄に生きる人生であり、作った人の思いを踏みにじる人種なのだと。
怨念のように俺の人格を否定をする母に、俺は怯えた。
そして、最終的に俺は母に屈した。
人生で最大の惨めな気持ちを味わいながら苦難の長い道のりを歩き、ようやく学校のトイレに逃げこんだのだ。
俺は学校のトイレの便座で考えた。
近所のトイレットペーパー1個の販売価が10mあたり4円と計算すると、1mあたり0.4円。30cmなら1.2円。
「あと1.2円くらい新聞拾ってきたらすぐじゃないか」
俺は世界の真理に気がついてしまったのだ。
チマチマ苦労して節約するよりも、稼いだ方が早いことに。
それからの俺は弾けた。今までの我慢の反動で、金を気持ちよく使うことに快楽を感じるようになったのだ。
なんでも稼げばいいのだ。
それになるべく労力を使わずに大儲けする越したことはない。
朝な夕なにバイトに励み、年齢を偽って麻雀、パチンコと様々な師について学んできた。皆素晴らしいおっさんだった。
友人関係も金を貸してくれるやつとしか付き合わない。
すると自然と金持ちかつ金遣いの荒いの奴らとばかり連むようになり、消費行動も激化した。
良い服、良い靴、良い時計、良いお店。それらはもちろん全部お高い。
軽く一財産を全身に身につけた頃には、親とはすっかり疎遠になった。
———大学の授業料を手切れ金にする。
これが、すっかり異星人となった息子に両親が言った、最後の言葉だ。
自分たちの蓄えを食いつくされるのではと警戒されての勘当だった。
親の金には一切手を付けていなかったのにな。
でもこれで気楽に浪費生活ができるのだ。
金持ちの友人宅に居候し、バイトと浪費と賭事三昧の生活を謳歌し始めた、その矢先だった。
入学式。俺の前に天使が現れた。
大学キャンパスに現れた彼女は、桜色の小さな頬と爪。艶めいた黒い瞳。
品の良い黒髪のストレートを背中まで伸ばし、白いキャミソールワンピースと白いミュール似合う、とてもとても、可愛い子だった。
一目惚れだった。
新歓コンパの時期からめちゃくちゃアピールし、金と時間ががもったいないというのに彼女と同じサークルに入ってしまう。
一ヶ月後には決死の気持ちで告白をし、OKを貰えたときには天国に直行してもおかしくなかった。
実際に付き合うと、彼女はさらに素敵だった。
友達思いで優しくて、お節介だけど押しつけがましくなく、食事や歩き方の所作まで品良く美しい。
俺は、自分の金を、初めて人のために使った。
彼女にアクセサリーを買ったのだ。
好きだと言っていたブランド。シルバーチェーンに、真珠とブルートパーズで花の形の作り上げた繊細なネックレスにした。
3回目のデートで、恐る恐る彼女にそれを渡したとき、彼女は全身で喜んでくれた。ああ、人のために金を初めて使い、良かったと思えた瞬間だ。
そして彼女は4回目のデートで手作りのクッキーを持ってきてくれた。添えてある小さい造花も彼女の手作りと知り、俺は泣いた。
それ以降、俺は今まで連んでいた遊び仲間とは距離を置き始めることにした。
彼女への愛しさは、きっと金以上の価値がある!
それが俺の答えだった。
もちろんあいつらは俺に文句を付けた。しかし俺の気持ちが本物だと知ると、遠巻きに様子を見るというスタンスに変えたようだ。
そんな矢先の6回目のデート。
彼女のたった一言で、彼女の顔が諭吉に見える。
芸能人御用達の瀟洒な鉄筋マンション。2LDKのリビング。
同居人で世帯主の菅が、ヤコブセンの椅子に後ろ向きに座り、火のない煙草を咥えている。
そして、下で神妙に正座をしている俺を見下ろす。
「眼科は?」
「正常でした」
「精神科は?」
「異常なしでした」
「カウンセリングは?」
「占いに行った方がマシでした」
菅はふーんとダンヒルのライターで煙草に火をつけ、煙をゆっくりと吸い込んだ。
自分でもおかしいことだと思う。
しかし、愛しい彼女の顔が諭吉だぞ?
見つめられないし、キスもできない。しまいには今度こそ最後まで、と決意したことすら厳しくなってくる。
菅は、ビンテージジーンズの膝を叩いた。
「そうだ、今後は彼女とは真っ暗な部屋でイタスんだな」
「やめてくれ、真っ暗じゃ何もできない」
「じゃあ、簡単だ。袋を被せて後ろからヤレよ」
「やめてくれ! 彼女に殺される」
俺の悲鳴に、菅は煙草を切子の灰皿に押し付ける。
どうでもいいじゃないか、と菅は俺を見返した。
「どうせ顔で付き合っていたんだろ? さっさと当たりくじで貢がせて捨てればいいじゃないか」
「彼女は顔だけじゃない!」
「でも顔は男にとっちゃ大きなアドバンテージだよな。金の呪いかは知らないが、金に見えた時点で、お前の愛情とやらはとうに消えてなくなってるよ」
「そんなはずは……」
「よく考えな。俺たちは気楽にお前の復帰を待っているからよ。有働や井彩なんていつ敦が破局するんだって、しょっちゅう聞いてくるぜ」
茫然とする俺に、菅はこれ以上声を掛けてはくれなかった。
俺は彼女が好きだ。
彼女の笑顔、彼女の思いやり、彼女の行動。全てを守りたい。
だが一方で俺は金が大好きだ。
今日も今日とて、FXとパチンコだ。
じゃらじゃらと聞こえる騒音は、ネットの稼ぎとはまた違った満足を俺に与えてくれる。
通帳に一発大金を入れる快感。そして一気に引き出す快感。
最高だ。
俺の金と浪費を愛する気持ちが、彼女を諭吉に見せてしまうのなら、何とかしなければならない。
だが懊悩は依然変わらない。
結局、彼女を見つめることができず、キスもできないまま8、9回目のデートが終わってしまった。
時折彼女が寂しそうに俺を見る。
とても辛いが、眉間に皺を寄せた諭吉の顔は、見るのも辛い。
一方で、彼女の財布にあるという当たりくじが気になって仕方がない。
—————100万円か? 1000万円か? いくらなんだ!
ここんところFXで10万ロスったから、
「あつし君、私のことどう思っているの」と聞かれたら「それよりも当選したやつ、おいくらだったの?」と早答できる自信すらある。
彼女に大金、かもにねぎ。
しかし諭吉が俺を拒む。
なぜだ諭吉! 俺はお前を愛しているのに、お前は俺を拒むのか!
次第にサークル内でも俺の彼女への態度が冷淡だと、悪口が聞こえてくるようになった。
◇◇◇◇
生殺しのような苦しみに苛まれる中、大学内で嫌な噂を聞いた。
学内の窃盗事件が多発しているのだ。話には財布そのものから、中身を切られて金を抜かれたなど何パターンかある。
しかし犯人の守備範囲は広かった。教室や、サークルの更衣室、果ては教授室までやられたという。
そしてなぜか、現場の近くにはいつも俺の名前が落書きされていた。
学校運営側から呼び出しを食らったが、知らないものは知らないのでどうしようもない。
サークルの中でも、学内の中でも、俺の噂は黒く纏わりついてくる。
大学門前のバチンコ屋の店員にまで警戒されたのには参った。
俺は金には汚いが、俺なりの金に対する主義がある。
自分の金は自分で稼ぐのだ。
………もちろん奢られるのも、タダでもらえるのも、金のある奴にたかるのは別枠だ。
人から堂々とゆすり取るまでなら拳で手に入れたと許せるが、こっそり盗み出すなんて金を愛するものの風上にも置けない。
しかもそれを俺の名前でやるなんて許せない。
最近は彼女の眉を下げた諭吉顔も苦しく、色々と行き詰っていた俺は、犯人を捜し出す決心をした。
懐中電灯とスタンガンを菅から借りて、俺は夜中の校舎にやってきた。
何か所かに俺は罠を掛ける。
嘘の財布を、教室の机にあくまでうっかり忘れられたように、参考書に挟んだり、リュックに入れて放置するのだ。
罠用の嘘財布は菅から借りた。
端っこにお札が数枚はみ出ながらもチャックが強固に堅く、刃物でもなかなか切れず取り出せないというイタズラ用の黒財布だ。
下手に引っ張ると大きな音が出る。そこに更に、井彩から借りたGPS発信器が取り付けてある。スマホで後を追えるというやつだ。
あいつ等は本当にくだらないことに金を使う。
何カ所にか罠を仕掛けたが、その内の一つ、文学部のA練から反応があった。
恐る恐る警備員がいないのを確かめ、A練の校舎に非常口から入り込もうとすると、「あつし君」と声を掛かる。
振り返ると、夜の諭吉が真夜中の懐中電灯照らされて、下から浮かび上がっていた。彼女だ。
思わず恐怖で叫ぼうとする口を、根性で押さえる。
彼女は「心配だったの」と側に来た。
「最近あつし君ずっとふさぎ込んでいたでしょう? 何かあったのかなって思っていたの」
それは君の顔のせいです。なんてとてもじゃないけど言えない。
「お金の話になると過敏に反応するし。最近は窃盗事件の噂が流れる度にイライラしてるし。だからあつし君が一人で歩いていて気になったの。ごめんなさい」
彼女がうつむくと、諭吉のほくろがよく見える。
少し皮肉な気持ちになって、俺は訊いた。
「俺じゃないよ。でも、俺が犯人だとでも思ったんだ」
「そうね、もしそうだったら私が止めなくちゃと思ったの」
彼女の諭吉が決意に染まる。
「私、あつし君がお金が好きすぎるって知ってるの。大学の知り合いにあつし君のグループの素行を良く知っている子が居てね」
彼女は続ける。
犯罪まがいの金持ち集団。親の金を利用してすれすれの行為を楽しむ連中。バックが大きすぎて手も出せない。
そのグループの一人が自分に告白をしてきた。
「あつし君には最初警戒していたけど、本当は自立して真っ直ぐな人で、きちんと自分で稼ぐ人だって分かったの。だから窃盗なんて馬鹿な真似はしないって信じたかった。それにこれをバイト代買ってくれたでしょ」
彼女は胸元からネックレスを取り出す。俺があげたやつだ。
いつもこっそりつけてるの。諭吉の笑みが、優しく見える。
「大切なお金だからこそ、強い決心を込めて私への愛情を示してくれたのよね。だから、私はあつし君を信じる。今度は私があつし君に何かしてあげたいの。お願い。困っているなら一緒に何かをさせて」
諭吉のはずの笑顔が、優しく見える。
ぴぴぴぴと、嘘財布の警報が鳴った。
慌てて廊下を走り出す音がする。
「! 財布の罠に気がついたかっ」
「え? 犯人がそこにいるの?」
俺はA練に入り込み、走り出した。
スタンガンのスイッチを押して、犯人の後ろ姿を追う。ジーパンにTシャツにショルダーバックという軽装の犯人は、階段を軽やかに走って2階に進む。
「危ないからそこに居て!」
「ううん、私も手伝うわ!」
俺の制止を拒否した彼女は、ミュールで併走しながら付いてきた。
ミュール? と疑問符がわいたが、それもすぐに犯人が2階から飛び降りたことで忘れた。窓枠に飛びつくが、すでに西校門に向かっている。
「なんて野郎だ」
「あつし君どいて!」
彼女が窓枠に手をやると軽く飛び出した。重力がないかのごとく着地して犯人を追いかける。唖然とした。
俺も越えようとするが、地面が遠い。
しかたなく、階段を懸命に降りる。彼女が危ない!
心臓が壊れるほど走りに走って西校門に着くと、犯人は彼女に地面に押しつけられて捕らえられている。
見るとなんと、遊び仲間の有働だ。
俺に気が付いた有働がわめく。
「何やってんだよ有働!?」
「それよりこのアマどうにかしろよっ」
「あつし君、こう言っているけど、どうするの?」
大人しくなった有働は、地面に座り込み、ふてくされていた。
こいつは俺に彼女が出来て、付き合いが悪くなったことが心底面白くなかったらしい。菅は放っておけと言うが、自分たちのおもちゃを取られたままでは詰まらない。
だから俺が窃盗犯ということにして、彼女との仲を割いてやろうと考えたのだ。
有働は衝動に駆られやすい性質だ。思いついたことはどんなにヤバかろうが大抵勢いで実行する。
そして失敗しようが、隠ぺいしてくれる親族には困らないらしい。
基本的は犬のように人懐こく陽気なやつで、俺にはパチンコの玉をいつも分けてくれるから、俺に関して暴走するなんて考えもしていなかった。
俺は有働の胸ぐらを掴んだ。
「お前が諭吉の呪いを掛けたのか!」
「はあ? んなもん知らねえよ。俺はあくまで俺たちの金好きペットが女にかまけているのがムカついて、ちょっと金の亡者に相応しい前科でもつけてやろうかなと思っただけだ」
「それぐらいで人を犯罪者にするな!」
「俺らにとって、お前そんだけ面白れえやつなんだよ。金にどこまでも汚ねえくせに、妙に自立しているし清潔だし、金を借りても倍にして返しやがるし、金ネタではすぐ舞い上がって滑稽になるし」
「俺で遊ぶんじゃねえ! おれはもう、彼女と新しく、愛に生きるんだよ!」
「ぷぷー。お前にそんなことあり得ねえわ。気持ち悪っ」
俺の叫びをけらけら笑い流す有働に、彼女が優しく声を掛けた。
「あつし君は、もう私のものですから」
そして、肩に掛けていたハンドバックから財布を取り出し、宝くじを取り出した。
宝くじ……当たりくじか!?
彼女がくじを摘み、俺と有働の前でヒラヒラ揺らす。
俺の瞳がヒラヒラ動く。
「1000万円、当たりました」
俺の瞳がキョドキョド動き、耳の中で心臓の鼓動が激しくビートする。
————1000万! 今1000万って言ったよね!?
目が充血していくのが分かる。
彼女の諭吉が、俺に素敵な笑顔で微笑んだ。
意識の遠くで、カチっという音がする。
「こうします」
当たりくじに、100円ライターの火が着いた。
一気に燃え上がる火。
俺はパニックに陥った!
「ぎゃああああああああああ!」
「うわ、すげえな」
彼女が燃え尽きかけた当たりくじを地面に落とすと、俺はその燃え残りに縋った。必死に素手で叩いて消火した燃えかすには、笑顔の太陽が黒く無惨になっている。
わなわなと両手でくじを拾い上げる俺を、彼女はのぞき込んだ。
「ね? もうこれで私がまっすぐに見れるでしょう?」
彼女の顔はもう諭吉に見えなかった。
大きな瞳とけぶるような長いまつげの、透き通るようなまなざしが、俺を優しく見つめてくる。
「諭吉がいない……」
「でも、私がいるからいいでしょう?」
「1000万円……」
「それでも、私が好きでしょう? 私は、あつし君が好き」
ね、一緒に1から稼ごう? 一緒に、だよ?
とても楽しそうな、満面の笑顔がとても綺麗な彼女が、落とした肩を抱いてくれる。
ふんわりとしたイチゴのコロンが、汗と一緒に香ってきた。
髪の感触も胸の感触も柔らかい。
いい匂いだ。頭が真っ白になるくらい、甘い。
「あいつやべえわ。敦、すげえのに捕まったな」という有働の声が遠く聞こえてくるが、今は彼女の甘い香りに浸っていたい。
後日、ルンルンと彼女との10回目デートに出かける俺に向かって「彼女もお前を愛でるのが好きなんだってな。良かったお仲間だ」と菅が喜んでいる。
何を言っているのかはよく分からなかったが、なんとなくムカついたので尻に蹴りを入れておいた。