魔女
香坂さんが、魔女?
104号室の人間は不幸に遭う?
「なんですかそれ……」
「額面通りの意味だよ」
「冗談にしたって全然おもしろくないですよ」
「私は面白い冗談しか言わない」
だから、どこから来るんだその自信は。
「僕は、魔女とか、幽霊とかそういうものは一切信じてませんから。香坂さんに失礼ですよ、そんな言いがかり」
「実際、噂になっている」
「噂は噂でしょう」
僕は呆れかえる。噂ごときで、初対面の自分に不幸などと言ったのか。やっぱり、この人は怪しい。
「お待たせしました! ……っと」
険悪な雰囲気を感じ取ったのか、注文の品を運んできた店員が戸惑う。
「ベーグルとトースト、お持ちしました……けど……」
「あ、ありがとうございます」
久保田は店員の方をちらと見て、「ベーグル」と言い放っただけだった。
結果、僕の方にシナモントーストが置かれる。店員が去って行くのを見計らって話の続きをしようと久保田を見ると、彼はベーグルに思い切りかぶりついていた。口元のひげの上に、ブルーベリージャムとクリームチーズが乗っかって三重に汚いことになっている。久保田は僕の視線に気づき、
「やらないぞ」
と子どものように言った。マイペース過ぎるよ、この人……。またため息が出た。
「いりませんよ……とにかく、新参者の僕にただの言いがかりで人に悪いイメージを与える発言をするのは感心しません」
こちらは真面目に話しているのに、まだベーグルを貪っている。完全に無視されたので、仕方なしにトーストをかじる。シナモンと砂糖とバターの味がした。甘ったるい。
何故、こんな胡散臭い男と食事なんてしているのか自分に問いたい。席を立つことも出来るのに、僕はそれをしない。何故か。
昨日起こった唯一の非日常的体験のせいだ。
あのハルという黒猫の飼い主が香坂さんだと聞いたからだ。
噂は噂だ、と本心から思う。香坂さんが悪い人間だとは思えない。
僕がトーストを半分も食べ終わらないうちに、久保田は食事を終えたようだった。口の周りがえらいことになっているが、注意する気も起きなかった。
「前の104の住人は、死んだ」
「!」
唐突に事実を語られて、僕は虚をつかれた。
「……だから、なんなんです? それを香坂さんがやったと?」
「喉笛を掻き切られて死んでいたらしい。獣の爪のようなもので」
「……それと香坂さんと、どういった関係が?」
「……黒猫」
びくり、と体が震える。
「黒猫を従えた香坂が現場の近くで目撃された。真っ黒なローブのようなものをまとっていて、」
『お前の命は、ない』
「それはさながら、魔女のようだったと」
微かに触れた鋭い爪の感触が蘇った。
「そんなの……たまたまでしょう」
「104の住人は香坂の恋人だった」
話の切り口がまた唐突に変わる。
「最初のうちはよかったが……次第にそいつはノイローゼになった」
久保田は残りのコーヒーを飲み下した。
「猫が、俺を見てる……しきりにそう言うようになった。香坂の黒猫に監視されている、と。どこにいても、そいつが付いて回ると」
あの、何もかも見透かすような金の双眸……。
「香坂が、黒猫をけしかけたとうちの大学ではもっぱらの噂になっている」
「……うちって、N大……ですか?」
「そう」
二人とも先輩だったのか……元々、学生用のアパートのようだから、奇妙ではないが。
「香坂は、孤立している。何も知らない君が彼女と仲良くするのはまずいと思った」
久保田はまたコーヒーを飲もうとしたが、空だったらしくうらめしそうにカップを一瞥した。
「香坂と仲良くすれば、あるのは不幸だ」
無茶苦茶な理屈だ。証拠など何もない。
「それでも、仲良くしたいと言うなら無理には止めない。客観的な事実を知って貰いたかった」
久保田の今までちっとも変わらなかった表情が、その時少し和らいだ気がした。
「104の住人は、私の数少ない友人でもあったからな」
「……」
「余計な尾ひれの付いた情報を頭に入れられたら、気分が悪い。まあ、近付くなというのは私の独断と言えるが……」
久保田はそこで人心地ついたらしく、手を上げて店員にコーヒーのお代わりを頼んだ。
僕は、ぬるいコーヒーを啜った。冷めても香りは良かった。
しばらく、僕たちの間に沈黙が訪れた。
店員がお代わりのコーヒーと、デザートのチョコレートを運んで来る。
「ごゆっくり……ね」
彼女は控えめに言って、他の客の応対へと戻って行った。
「安心しろ、毒は入っていない」
それ、アガサじゃないんじゃ……と思いながら、僕もキャンディ型に包装されたチョコレートに手を伸ばした。
もし、本当にあの黒猫が香坂さんの恋人を追い回し、最後には喉首を掻き切ったのだとしたら……。
香坂さんがけしかけたというのはないとしても、あり得ない話でもない気がしてくる。
それだけ、あの黒猫には人間への嫌悪みたいなものがあった。
口に含んだチョコレートは、トーストとは違ってほろ苦かった。