香坂さんちの
目が覚めたのは、昼近くになってからだった。机に突っ伏して寝ていたらしい。体には薄手のタオルケットが掛けられていた。
能登谷はちゃっかりベッドの上で寝息を立てている。僕が先に寝入ったので、ベッドへ移動したのだろう。
今日は、さしたる予定も入っていない。まだ寝足りないような感覚がある。しかし、この時間から二度寝なんて不健康にもほどがあると思い、目覚ましに日の光を浴びようと立ちあがった。
外に出ると、ちょうど大家さんが掃除をしているところだった。
「こんにちは」
「あらぁ、こんにちは」
大家さんは、手を止めてこちらに向き直った。白いフリルをあしらったエプロンに、ポニーテール。実際大家にしては若そうに見えるのだが、何故か『若作りしている』感が全身から溢れている。
「えっとぉ……中島くん?」
「中村です……」
「そうそう中村くん、ここには慣れたかしら?」
まだ越してきて三日目で慣れたもないよな、と思いつつ「ええ、まあ」と返す。
「本当、いいところよぉ。ごみごみしてなくて、自然もいっぱいあるし。学生さんが多いから、お手頃なお店もいっぱいあるわ。わたし的にはね、『アガサ』って喫茶店のコーヒーがおすすめよぉ。あとね……」
大家さんはおっとりした口調で熱弁を始めた。香坂さんを前にした昨日の僕など、まだ可愛いものなぐらいに。恥ずかしかったなアレ……と、昨日を振り返るとどうしても嫌な出来事が頭の中に去来する。
そういえば、大家さんも人が悪いとかなんとか言ってたっけ……。悪い人には見えないが、何かを隠しているのだろうか。思い切って聞いてみるべきか。いや、悪い話があるなら大家さんが口を割るわけはないのだ。
大家さんはまだこの街のおすすめスポットを語り続けていた。
不意に、その横から小さな影がさっと通り過ぎる。
赤い首輪をした、黒い猫。
二つの月のような金の瞳が、僕をとらえた。
猫は、不快そうに顔を歪めた、気がした。
「あらぁ、ハルちゃん」
ハルと呼ばれた猫は、ぷいと顔をそむけて外へと飛び出して行ってしまった。
「相変わらず、愛想がないわねぇ」
「あ、あの猫……」
「ハルちゃんよぉ。仁美ちゃんのところの」
「仁美ちゃん?」
「103のね」
「香坂さん……ですか?」
「そうそう。本当はねぇ、ペットは禁止なのよ。でも、あの子の場合特別だから……」
大家さんはそこで、言葉を濁した。
「特別って、どういうことですか」
「……仁美ちゃんには、私が言ったって喋らないでねぇ?」
僕は頷く。
「去年、あの子のお母さまが亡くなってね……お母さまが飼ってらしたのが、ハルちゃんなの」
特別というから、もしかして大家さんはあの猫の正体を知っているのかと思ったが、どうやらそういう話ではないらしい。
「私もお母さまにはお世話になったしねぇ……それで、特別にというわけ」
「そうなんですか」
「仁美ちゃんには内緒よぉ。プライバシーの問題とかあるから……あの子なら怒りはしないでしょうけど、一応ねぇ」
そう言って、大家さんは口元に人差し指を当てる。何だかわざとらしさを感じるポーズだった。
「どこまで話したかしら、ああ、そうそう……」
大家さんはまだ喋り足りないらしい。しかし僕はそれどころではなくなってしまった。
あの猫が香坂さんの……。
人違いならぬ猫違いということもあるかも知れないと思ったが、昨日の侮蔑を含んだ女の子の眼差しとさっきの黒猫の表情はそっくりな気がした。