桜の樹の下には
僕は濡れ鼠で、まさに猫に襲われた鼠のごとき気持ちで部屋へと帰った。
洗面所に行き鏡を見ると、首元には浅く短い切り傷が出来ているのがわかった。その傷が、僕の見たものが幻でないことを証明していた。
いっそ幻の方がいい。
幻だ幻だと鏡の中の青い顔した自分に言い聞かせる。
張り付いて気持ちが悪い衣服を脱ぎ捨て、体を拭いてジャージに着替えた。
ポケットの中の携帯は案の定動かなくなっていた。能登谷に連絡も出来ない。時計を確認すると、もうすぐ待ち合わせの時刻になるところだった。しかし、外に出る気になれない。
ごめん、能登谷……。
僕はベッドに寝転んだ。
◆
身体が重い。目を開けると、大きな桜の木が見えた。闇の中で、薄紅の花弁が幾つも舞っている。起き上がろうとしたが、身体の自由がきかない。
ざく、ざくという断続的な音がしていた。それな土を掘る音だと気付くのに少し時間がかかった。
僕は、桜の下に埋められようとしている。
そう直感した。シャベルの音は僕の神経まで蝕んでいくように止むことがない。
ざく、ざく、ざく、ざく。
やがて、ピタリと音が止んだ。
仰向けに横たわったままの僕の視界に、桜以外のものが入り込む。
それは白い肌を泥で汚した久保田の顔だった。
一回しか会ったことがないのに、やけに目鼻立ちが鮮明だった。
久保田はひょろひょろの身体に似合わぬ力で僕をたやすく持ち上げてしまう。そして、深く掘られた穴の中へと僕を横たえた。生温かい、湿り気を含んだ土の感触。
久保田はシャベルを構えた。僕の上に土が被さっていく。
ざく、ざく、ざく、ざく。
視界が狭まってゆく。桜が、久保田が、見えなくなる。息が苦しい。
たすけて、だれか――
◆
間延びしたインターフォンの音が響いた。
今度は起き上がることが出来た。そこは無味乾燥な、まだ見慣れぬ僕の部屋。
いつの間にか眠っていたらしい。
今度はノックの音がした。
「中村! おい、いないのか?」
能登谷の声だった。僕はのろのろと立ち上がって、ドアを開ける。
「お前、約束すっぽかして……」
文句の一つでも言おうと口を開いたようだが僕を見て驚いた様子で尋ねてきた。
「どうしたよ? 酷い顔して」
「……ごめん」
「別に謝んなくてもいいけどさ。心配したんだぞ。電話でねーし、お前んちにも連絡ないって言うし」
『お前の命は、ない』
金色の目を思い出して、僕は言いよどんだ。
「……風邪っぽいみたいでさ。少し寝れば大丈夫だと思ったんだけど、寝過ごした」
わざとらしいと思いながらも、笑ってごまかす。能登谷は疑りの眼差しを向けたが、それを口にはしなかった。
「まったく……しょーがねえな。無事ならいいわ」
「……ごめん」
「だから謝るなって。お前も飯まだなんだろ? 買い出し行ってきてやる。何がいい?」
「いいよ、そんな……」
「お、れ、の、飯のついでだっつの。食欲ないんなら適当に軽いもんでも買ってきてやるよ。何か食えば、気持ちも上向きになるだろ」
結局厚意に甘えて、買い出しに行ってもらうことにした。能登谷が来てくれてよかった。とりあえずしばらくは一人で心細い時間を過ごす心配がなくなったことに僕はほっとした。
テレビをつけると、旅番組が放映されていた。『桜の名所巡り』というテロップが目に入る。
川原での出来事とさっきの夢のおかげで、桜という文字さえ見たくない。騒がしいバラエティ番組にチャンネルを変えた。
ぼんやりそれを眺めていると、再びインターフォンが鳴った。やけに早いと思いながらドアへ向かう。
「随分早かった……」
警戒もせずドアを開けると、そこにいたのは香坂さんだった。眼鏡の奥の瞳は驚きで見開かれている。
しまった。
こんなしょぼくれた顔を、よりによって彼女に見られるとは……。
「あ、す、すみません突然……」
「いえ、こちらこそすみません……」
お互い恐縮しあって、謝り合戦になってしまった。香坂さんの顔は心なしか赤くなっている。
「……これ、大根と鶏の煮物なんですけど、作り過ぎてしまったので中村さんに、と思って……」
煮物のいいにおいに、薄れていた食欲が蘇ってくるのを感じた。
「いいんですか?」
「はい、お嫌いでないのなら」
「そんな、とんでもない! 頂きます」
実際それは僕の好物だった。香坂さんは「よかった」とはにかんだ笑顔を見せたあと、僕にタッパーを手渡した。それから、ちょっとばつが悪そうな顔で、
「あの……風邪、お大事にして下さいね」
と付け加えた。能登谷の声は大きい。玄関口で騒げば隣にも聞こえるのだろう。
「ありがとうございます。香坂さんも、体には気をつけて」
「はい。お友達にもよろしくお伝え下さい。それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
そして僕はドアを閉めた。自分の態度が変でなかったか気になってしまう。
煮物は、まだ温かかった。香坂さんの善意も温かかった。やっぱり好い人なのだとしみじみする。
しばらくして、能登谷が戻って来た。僕の様子が先程と明らかに違うので、またいぶかしい顔になった。
「お隣さんから煮物頂いたよ」
「そういや、いい匂いがするな。ぶり大根?」
「鶏と大根だよ。お前の分もあるっぽい」
「ふぅん。で、お隣さんは美人なんだろ?」
「い、いきなり何言い出すんだよ」
「あからさまに元気になっちゃってさ。お前ってわかりやすいよな。まあ、家庭的な美人が隣だって考えたら何か興奮するけど」
「こ、興奮……」
何を言い出すんだこいつは。
「今度会うまでに仲良くなって紹介してくれな」
「無茶言うなよ……」
「向こうからアピってるわけだし、わけないんじゃね? 何なら俺が行ってもいいけど」
「やめてくれ」
「独占欲?」
「トラブル起こしたくないだけだよ……」
女性とあらば恋愛対象にするその癖を直して頂きたい。向こうは純然たる厚意でやっているに違いないのだから。
「いいから、冷めないうちに頂こう」
「そうだな。お前をからかうのはいつでもできるし」
そうして、僕らはささやかな引越し祝いをした。
食欲は完全に回復こそしなかったものの、煮物はとても美味しかった。母親が作ったそれによく似た慣れ親しんだ味で、実家に連絡を寄越していないことを思い出した。
けれど、能登谷と会話が弾んでいくうちに、一日ぐらい連絡しなくても、子どもじゃあるまいし……と気にしなくなってしまった。
その日は夜半過ぎまで、下らない話とトランプゲームで盛り上がった。
いつ眠ったものか、正確な記憶がない。
だが、今度は、夢も見ず眠ることが出来たのは確かだった。