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『不幸』の侵食

もやもやした気持ちを抱えたまま、とりあえず部屋に戻ることにする。


引越しの荷解きは、昨日のうちに終わっていた。元来、物を溜め込むタイプではないし趣味もなきに等しいので、場所をとるのは家具と家電ぐらいである。参考書などはしばらく見たくもないので、置いてきた。


何となく気疲れして、ベッドに腰掛けた。

親の目と長かった受験勉強から解放され、新しい地で始める生活。


自由だ。同時に不安でもある。


香坂さんは見るからに好い人そうだった。久保田は……よくわからない。


不幸、か。


この104号室で何かがあったのだろうか。自殺とか、殺人とか。大家がなんとかとも言っていたし、いわく付きなのかも知れない。

正直、僕はそれを暗黙のうちに承認していた気がする。二階建てのやや心許ないアパートだが、最寄り駅から近い割に家賃は安かった。

僕は幽霊などは信じない。会ったことがないからである。


生きている人間の方が、よっぽど怖い。


あるいは、生きている人間が問題なのだとも考えられるがーー


考えごとを中断するように、枕元の携帯電話が短く鳴った。能登谷のとやからのメールだ。


『引越し祝いになんか食べね?

寿司とか、寿司とか、寿司とか』


能登谷は僕より少し先にこちらへ越してきた。高校のときはそれほどは仲良くなかったが、同じ大学へ行くと分かり、話すようになってから意気投合した。新しい土地での心強い存在だ。


了解の旨を伝えると、待ち合わせ場所と時間を決めた。まだ時間には余裕がある。気分転換にその辺を一回りしてこようかと思い立ち、僕は携帯と財布をポケットに入れて部屋を出た。





『田舎の中でも比較的都会』と称せられる場所に住んでいた僕は、『都会の中でも比較的田舎』のこの街に親近感を感じた。休み明けに通うことになる大学のキャンパスも、タヌキやヘビが出そうな山だった。垢抜けた感じがしないのが僕にはかえってよかったのだが、能登谷は「詐欺だ」と文句を垂れていた。


学生の割合が高いせいか、アパートが林立していて、昔ながらの商店や飲食店が多く見られる。今日行く店はチェーンの回転寿司だが、今度はこの辺のローカルな店にでも入ってみたいと思った。


しばらく歩くと、桜並木のある川原へと出た。桜は7分咲きほどでも充分存在感がある。春の数週間以外にはそんなに目立つことがないので、余計その存在が際立って異質に見える。僕は桜の木がそんなに好きではない。見ていると、夢が現実に侵食してきたような感覚に陥るからだ。


霞のような桜たちのシルエットを見ていたら頭がぼんやりしてきて、僕は桜から目を反らすように川の流れへと視線を移した。

僕は視力があまり良くない。なのに、その光景は双眼鏡で覗いたかのようにくっきり映った。黒い影が、川の中を浮かんだり沈んだりしている。それが人間であると認識するやいなや、僕は駆け出していた。


少しためらったが、川へと足を入れる。幸い、僕が立てる程度の深さだった。油断しないように慎重に、なるべく迅速に人影へ向かう。まだ小さな子どもだった。パニックになっているその子を、僕は体ごと抱き抱えた。驚くほど軽かった。


「もう大丈夫だよ」


僕は暴れる子どもに、何度もそう言い聞かせた。パニックは次第におさまったようで、何とか元の岸にまで救助することに成功した。

子どもは水を飲んだらしく、陸に上ると激しく咳き込んだ。救急車を呼ぼうと思ったが、そういえば携帯はポケットの中だ。財布も浸水しているだろう。


人っ子一人通る気配もなく、僕はとにかく介抱しようとその子に改めて目を向けた。


目を伏せてぐったりしているが、意識はあるようだった。黒いワンピースに、赤いチョーカー。肩口で切り揃えられたおかっぱ頭……そして、頭のてっぺんには二つの三角。


猫耳がついていた。


何かのコスプレだろうか。それにしても、コスプレで川原を訪れるなんてことがあるのだろうか。浮かび上がる疑問をおさえながら、僕は彼女の背中をさすってやろうとした。


「……見たな?」


静かで低い声色。女の子は両の目をこちらに向けた。


見事な金色の瞳。

縦長の瞳孔。


どこからどうみても、猫のものとしか思えない。


「汚らしい手で、触るな」


彼女は子どもにあらざるべき侮蔑の目で僕を見ていた。


「だ、大丈夫、なの……?」

「大丈夫ではないのは、お前の方だ 」


女の子は再び咳き込む。


「やっぱり大丈夫じゃないよ。触らないから、救急車呼ぶまでここで……」


女の子が僕へと間合いを詰め、その手が首にすっと当てられた。どうやら咳は僕を騙すための芝居だったようだ。鋭い爪の先がわずかに喉元に触れている。


「ここで見たこと、誰かに話せば……」


女の子は、一つ間を置いた。


「お前の命は、ない」


僕は動くことも話すことも出来なかった。


「警告はしたぞ」


女の子は消え、僕は膝から力が抜けて無様にその場に倒れこんだ。

四つん這いになった僕を見ていたのは、赤い首輪をした黒猫だった。

黒猫は冷たい金色の双眸を逸らし、その場から音もなく立ち去った。


『不幸だね』


久保田の掠れた声が頭の中で繰り返されていた。



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