もう一人のおとなりさん
香坂さんにあげたものと同じクッキーのセットを小脇に抱えて、香坂さんとは反対のお隣、105号室のインターフォンを押す。
――反応がない。留守か。
香坂さんに会って気持ちが上向きになったせいか、いつも気詰まりな初対面の挨拶が今は苦にならない気がしたので、僕は残念に思って踵を返そうとした。すると、薄くて軽いであろうアパートのドアがやけに重たそうに開いた。
「……」
「…………」
105号室の主は、咥え煙草の、頬のこけた色の白い男だった。胡乱なものを見る目つき、というか、この人自身が胡乱な目つきをしている。髪はぼさぼさ、ひげは無精という修飾がよく似合う中途半端な伸び具合。香坂さんと同じくグレーのスウェットを着ていたが、くたびれ具合が全く違う。襟ぐりは緩み、茶色いシミみたいなものがところどころについている。煙草と何かすえたような臭いが僕の鼻をついた。男は、黙ったままいがらっぽいため息とともに紫煙を吐き出す。
何だろうこの間は……と面食らいながらも、僕は言葉を紡ごうとする。
「あの……」
「……」
「昨日、ここに越してきた……」
「不幸だね」
「え……」
初対面の、しかも怪しい見た目の男に不幸といきなり断じられ、動揺と共に元来の人見知りが戻ってきて口ごもってしまう。男はばりばり頭を掻いた。白いものが落ちてくる。僕は後ずさりたい気持ちを抑えた。男は正体のあやふやな細い目をより細くする。
「大家も人が悪い」
「……?」
「ああ、パスカルのクッキーか。美味いよね、あそこの」
男は意味深な言葉を口にした後、僕が差し出そうとしていたパステルブルーの包みに気づくと若干声を明るくした。目ざとく気付くあたりといい、甘党なのかも知れない。そしてそれを半ば強引に自分の手にするとそのまま、また重たそうにドアを閉めてゆく。半分ほど閉まったところで、
「久保田」
男が呟くように名乗った。
「え?」
「名前」
「……中村です」
「よろしく」
僕が返事を返さぬままに扉は閉じられ、ほどなくカギが掛けられる音がした。これ以上、久保田と名乗る男と話は出来そうにない。再び話したいと思えるタイプの人間でもなかったが、『不幸』という言葉が引っ掛かる。
僕はしばらくどうしたらいいかわからず、その場に突っ立っていた。