香坂さんと出会って
美しいのに、どこか存在感の希薄な人だ。
玄関から顔を出した彼女への第一印象がそれだった。
いかにも部屋でくつろいでいたふうな、洗いっぱなしの黒くてまっすぐな髪、簡素なグレイのスウェットに少しくたびれたジーンズ。化粧っけのない切れ長の目の上には銀縁の眼鏡が乗っていて、口元には異質のものを見る怯えと、はにかみが同居しながらもそれを感じさせまいとする、どこか不自然な笑みが浮かべられていた。
「昨日隣に越してきました中村です。よろしくお願いします。あの、これ、ささやかなものですが」
シャイな人なんだな、と思いながらも、無防備な姿と眼鏡の奥の少し茶味がかった瞳にどきどきする。警戒心を取り払うような自分ができる最大の人懐っこい微笑みと、芯の通った声音で挨拶をしながら、土地勘のない駅前にあるデパートの地下で選んだ、いくつかの姉妹店を持つ菓子店のクッキーのセットを手渡す。
「そんなわざわざ……ありがとうございます」
消え入りそうな声でお礼を述べ、緊張を含んだ笑みのまま菓子折を受け取る。
「中村さん、ですか。よろしくお願いします。私は香坂といいます。香るに、坂」
香る、という響きが、和の匂い立つような美しさを持った彼女に似合うな、と口に出そうかと思ったが、それはいくら何でも安くて気持ちの悪い口説き文句のような気がして、やめた。
僕がそうであるのはもちろん、香坂さんも社交的でも器用でもないようなので、そのまま挨拶を終えればいいものの、微妙な沈黙が流れてしまう。
顔を見るのも恥ずかしくなったのか、香坂さんの視線は僕からわずかに逸れ、手元の菓子折へと移る。視線を追うように僕もそちらを見ると、色の白い神経質そうな細い指と、几帳面に切りそろえられた血色のよい爪が目に入る。
相手も困っているのだしそのまま会釈をして引き返せばいいものの、引き返すのには惜しい魅力を感じて、おもわず言葉を紡ぐ。
「このクッキー、すごく美味しいんですよ。あの、お店自体は駅前で見るからご存じかも知れないんですけど……メレンゲのなかにアーモンドパウダーが入ってて、触感がすごいふわっとしてて、しかもナッツなんかが入ってるのかな、サクッとしてて。小さいころから大好きなんです。この町は物件の下見以外には全然来たことがない場所だったんですけど、そのクッキーが売ってるお店を見たら、何だか自分の居場所を見つけたみたいに安心して。お隣さんにもこれは絶対食べてもらわなきゃって思って……それで……」
香坂さんは、僕の熱弁にうつむいていた顔を上げていた。その顔には、もう取り繕った笑みはなかった。
ああ、ついまた悪い癖が出てしまった。初対面の人間とは、まったく喋れなくなるか、気持ちが上ずってついつい喋りすぎてしまうかの二極なのだ。
これは、引かれたかな……と思いきや、「ああ」、と香坂さんは単なるあいづちとも感嘆ともとれる声をあげて、緊張していた顔を少し緩めた。
「本当にお好きなんですね。このクッキー……思い出の味が知らない場所にあって安心するって、その気持ち、わかります」
と、かすかに口角を上げた。自然さを見せたその笑みがまた可愛らしかった。自分の気持ちを分かってもらえたことも嬉しくて、僕は香坂さんに並々ならぬ好感を抱いた。
新たな出会いの幕開けは、微かな恋心の芽生えと共に訪れた。