春
腹の傷は深いものではなく、香坂さんの手当てで出血はおさまった。
香坂さんは終始申し訳なさげにうつむいていた。
「ごめんなさい……巻き込んでしまって」
「そいつが選んだことだ。謝る必要はないだろう」
「無理やり選ばせたのは、ハルじゃない! 私、反対したのに嘘までついて……」
平然と言うハルに香坂さんが声を荒げる。香坂さんが僕を人柱にしようとしていた、というのはハルの嘘だったらしい。それなら、僕をそれほど思っていないというのも嘘なのだろうか。
「文句なら死神に言え。奴がこの小僧を試そうとしたんだ。お前の幸せがどうとかと言い出してな」
「私の幸せ……?」
「荷物を持つ人間が増えれば、心は軽くなる。人身御供になる運命を乗り越えれば、小僧がお前の理解者になってくれると」
ハルは眉根にしわを寄せる。
「あの死神くずれの心境の変化はよく分からん。自らの犠牲を賭してまで運命に歯向かわせるとは」
「犠牲って……」
「久保田くんはどうなるの?」
「まあ、ただ死神のノルマが増えるだけだ。あと百人魂を送れば許されるものが、千人になったというだけのこと。傍目には呑気な昼行灯なのは変わらんさ」
ハルの言葉に少し安心しかけたが、一桁も数字が変われば途方もないだろう。自分の命と引き換えだと考えたら感謝するほかない。
「死神と仁美に感謝することだな。まあ、お前の多少の頑張りも認めなくはない」
ふん、とハルは皮肉っぽく笑う。
「ハル、そんな偉そうに言うことじゃあないでしょ。透さんや久保田くんがいなかったら私、負けてたかも知れない。今度は、守れてよかった」
安堵のため息と共に、香坂さんの目に涙が溢れてくる。
「遥希くんみたいにならなくて、よかった……」
香坂さんが泣き顔でくしゃくしゃになる。僕が無事で泣いてくれているのか、遥希さんを思い出して泣いているのか。そんなことを考えてしまった自分が嫌だった。嗚咽を漏らす彼女を見ていられなくて、僕は香坂さんの頭に手を置いた。
「泣かないで下さい。遥希さんも、きっと笑顔が見たいって思ってるはずです」
香坂さんのすすり泣きがいくらかおさまる。
「僕は遥希さんの代わりが出来る気も、する気もないです。でも、僕なりに香坂さんと接していきたい」
「……」
「嫌ですか?」
香坂さんはふるふると首を振った。泣いているのもあいまって、仕草が子どものように映る。守ってあげたいと思った。
「これから、数多の不幸がお前に訪れることになっても、か?」
ハルが金色の目を光らせて僕を睨みながら尋ねてくる。
「魔女の仕事は災厄の平定。半人前の仁美は迷惑をかけるだろうよ。それでも構わないと?」
「ああ。構わない。手伝えるなら、何でもする」
「……そう答えなければ、かっさばくところだった」
ハルは、金色の眼を三日月のように細めた。彼女の皮肉っぽさや悪意などない、心からの微笑を見たのはこれが初めてだった。
それを見て、何だ、可愛らしい顔も出来るんじゃないか……と思ったけれど、黙っておいた。
◆
明くる日、香坂さんの申し出で僕たちは遥希さんのお墓に行った。仇をとらなければ申し訳が立たないと、一度もお参りをしたことがなかったのだと言う。霊場にも桜の花は咲き誇っていた。もうすっかり春だった。
墓石は古びていて、かつての遥希さんのことを知らない僕には偲ばれる面影もなかったが、もう『過去』の人なのだと思い知らされた気がした。
「僕なんかと来て、よかったんですか?」
「透さんだから来てもらったんです」
「え?」
「新しいお隣さん、ですから」
香坂さんは屈託なく微笑む。僕はちょっと残念に思う。お隣さん止まり、か。
「仲良く墓参りか。結構だな」
ぬっと細長い人影が現れる。相変わらずのくたびれた姿で、無表情の久保田だった。
「久保田くん……」
「……柄じゃないんだがな」
彼は花束とコンビニ袋から取り出した饅頭を墓石の前に置いて、手を合わせた。更に、僕と香坂さんにまで饅頭を渡してくれた。自分の分もちゃんと用意しているようだった。
「それ食って英気を養え」
「あ、あの……この度はありがとうございますというか、すみませんというか……」
「中村の為でも香坂の為でもない。私のエゴだ。遥希もまあ、浮かばれるだろう」
久保田はそれだけ言って、饅頭をつまみながらふらふら去って行く。何も変わりなどないように見える。
「久保田くん、待って!」
遅々たる歩みが止まり、ゆらりと久保田が振り向く。
「あの、透さんの歓迎パーティしませんか? お隣さんのよしみで」
「……構わない」
「え? いいんですか、そんな……」
「やりましょう! 私、腕によりをかけさせて貰いますから‼︎」
そう言って、香坂さんは腕まくりの真似をする。久保田を引きとめるための思いつきだったのかもしれないが、その気持ちは嬉しかった。
「そうと決まったら、買い出しに行かないと……! 久保田くん、手伝ってくれる?」
「……構わない」
「それじゃあ、行って来ますね。透さんは、お家で待っていて下さい!」
「あ、ちょっと……」
僕に手を振って、香坂さんは久保田の方へ行ってしまう。僕は墓前で一人きりになってしまった。
突然、激しい風が吹いて桜の花びらが舞い落ちてくる。
墓石の向こうにうっすらと、穏やかな顔で二人を見ている青年が見えたような気がしたが、次の瞬間にもうその姿は見えなくなっていた。