桜の満開の下
「……来てくれたんですね」
漆黒の闇に溶け込むような真っ黒いローブを身にまとった香坂さんが、満開の桜の下で待っていた。
白い肌が際立ち、その微笑も艶然として映る。
ハルの申し出を受け入れた僕は、両親や要や能登谷……誰にも何も話さず、ここへ来た。香坂さんの口から直接話を聞こうとも思ったけれど、彼女の口から冷たい言葉を掛けられることを恐れて、やめてしまった。
何故だろう、心が妙な穏やかさを帯びている。死ぬことが怖くなくなっている。
「本当にいいの?」
「はい。それで皆が助かるなら……香坂さんの役に、立てるなら……」
「そう……」
香坂さんが僕に近づいて来る。眼鏡の奥の瞳が、僕だけを見つめている。
不意に、香坂さんが僕を抱き締めた。着ているのはローブ一枚だけなのか、柔らかい感触が伝わってくる。
「ありがとう、ごめんね……中村くん」
温かい。もう、このまま死んでもいい……
香坂さんは、僕の喉元にその、赤い爪をーー
「させませんッ!」
声と共に黒い影が飛び込んでくる。僕はすんでのところで赤い爪の被害を免れたらしかった。僕の半分まどろんだような意識が覚醒するのを感じた。
「ちょろいと思ったのにな……」
香坂さんは口の端を歪めて呟いた。
「二度も大事な人を失うわけには、いかないんです」
毅然とした声を上げるのは、目の前の香坂さんと全く同じ姿の人物だった。いや、こちらが本物の香坂さんなのだろう。
「洗脳か……小賢しい」
僕と偽物の香坂さんの間には、黒猫ーーハルがいた。黒いワンピースに赤いチョーカー。金色の瞳に闘志を滲ませている。
「しかし、贄もなく力もない貴様に何が出来る? 大人しくこの男を捧げれば、文句は言うまいよ」
「貴方が狂い咲いてから、もう半年は経ちます。私だって、力を付けた! もう、犠牲は出しません」
香坂さんが何やら呟き始める。掌に光が集まりだす。
香坂さんーー桜の幽鬼は、爪を立てて香坂さん目掛けて素早い動きで近づこうとする。そこにハルがまたぶつかっていく。幽鬼が赤い爪を振り下ろす。ハルはそれをよけながら、自らの爪と牙を向けんとする。
香坂さんの詠唱が終わる。まばゆい光弾が放たれた。幽鬼はハルの攻撃をかわしながら、光弾をもよけていく。
「甘いな!」
その時、幽鬼の腕が木の枝が成長するように長く伸びていった。僕の腹に目掛けて。不意の出来事だった。内臓をぶちまけて倒れる自分を想像した。
きぃん、と腕が何かで切り落とされる音がした。
僕の眼前にいきなり大きな鎌を持ったひょろ長い黒ずくめの男ーー久保田が出現していた。鎌で伸びる腕を切り落としたらしい。幽鬼の重たい悲鳴が聞こえた。切られた腕はまだびくびく動いていた。
「死神……貴様が来るとは!」
顔を歪める幽鬼に、ハルが襲いかかる。香坂さんは次の詠唱に移ったようだ。
「お前の行動次第では、何とかなるかも知れない」
「……僕の?」
「私の予知を外して見せろ」
幽鬼とハルの間で激しい闘いが続いていた。片腕のない幽鬼の動きに、俊敏な動きで対応している。そのうちに香坂さんの二度目の光弾が放たれた。今度は幽鬼の肩を掠める。幽鬼が小さく呻く。
「久保田さんのその鎌なら、幽鬼を何とか出来るんじゃ……」
「過度の干渉は死神の掟に反する。さっきの一撃がギリギリだ。お前と香坂であれを止めろ」
ここで僕にできることは何だ? せいぜい、相手を引き付けるぐらいしか……。
どうせここで死ぬかも知れないんだ、やってみるしかない。
「僕を殺せ!」
幽鬼の意識がこちらへ僅かに向く。
「僕を殺して埋めて、それで満足するならすればいい! 早く僕を殺せ‼︎」
僕の挑発に乗った幽鬼が、もう一つの腕を伸ばした。
「香坂さん、今のうちに、早く!」
香坂さんがはっとして新たな呪文を紡ぎ始める。今までなかった巨大な魔法陣が浮かび上がる。
瞬間、赤い爪が僕の腹を掠めた。熱い。痛みは感じないが、血が服に染みていく。
久保田は動かない。僕らを静観している。香坂さんが青ざめるのがわかる。
「香坂さん! 呪文を続けて‼︎」
「貴様の相手は私だッ」
ハルが幽鬼に食らいつく。ぐあぁあ、と太い声が上がる。僕はなりふり構わず、幽鬼に向かって飛びかかる。予想外だったのか、僕の勢いで幽鬼は倒れ込む。
「よし、このまま押さえ込め! 仁美‼︎」
魔法陣が青い光を放つ。先程とは違う優しい光が、僕を、ハルを、久保田を、幽鬼を、照らす。
「っく……やめろ、やめろぉおおお‼︎」
幽鬼がさらさらと砂のように消えていく。
後には、何も残らなかった。
「やった……のか?」
「透さん‼︎」
香坂さんが駆け寄ってくる。急に腹部に痛みが押し寄せて来た。
「ごめんなさい、ごめんなさい……‼︎」
「いいんです。僕、元々死ぬ気で来たんですから……生き残っただけで、めっけもんです」
ふらっとした僕を、香坂さんが抱き留めた。いい匂い。温かな感触。
ハルはふん、と鼻をならすだけだった。
久保田の姿は、いつの間にか消えていた。
満開の桜の大樹は、変わらず僕たちを見下ろしていた。