新しい出会い
ひゅう、と喉が鳴った。
悲鳴さえ出なかった。
手は動かない。まるで赤い花を咲かせた小さな植物のようだった。僕はその場から慌てて逃げ出した。下り坂を転がりそうなくらいのスピードで走り、呼吸が乱れきったところで足を止めた。もう桜のある丘は見えない。夢と現実が混濁しただけだと、自分に言い聞かす。しかし、毒々しい赤い爪は脳裏に焼き付いて離れなかった。ガイダンスまで大分時間をとっておいてよかった。時間がなければ、寄り道なんてしなかったとも言えるけれど……。
少し休んでから、キャンパスへ向かうことにした。先ほどより道行く人の数が大分増えている。やがて正門に着く。正門からすぐが理系校舎で、文系はまた一つ坂を越えたところに校舎を構えている。キャンパスは無駄に広い。見学と受験でしか来たことのない僕には未知の領域が沢山ある。坂の途中には、桜が咲き乱れていた。なるべく見ないように通り過ぎる。
校舎に入り、ガイダンス予定の4階までエスカレーターで上る。教室は半分ほど埋まっていた。能登谷はどこだろう……ときょろきょろしていると、こちらに手を振る彼の姿が見えた。
「よう。俺より遅いとか、珍しいじゃん。また来なかったらどうしようかと思った」
「ちょっと、寄り道しちゃってさ……」
能登谷の隣に女の子が座っていた。ショートカットに白いワンピース。さっき桜の木の下で会った子だった。お互い、顔を見合わせる。
「あれ? 二人とも、知り合い?」
「知り合いってわけでは……」
彼女がやんわり否定する。
「さっき偶然見掛けてさ」
「ふーん、偶然も重なるもんなんだな」
それから、お互い自己紹介をした。彼女は、新島朋絵。もちろん僕らと同じ学科で、校舎前で能登谷に声を掛けられたのだと言う。またナンパか、とツッコミたくなったが、新島さんに不快感を与えそうなのでやめる。新島さんはさっきの訝しげな表情とは違う、にこやかな様子で僕らと話した。
時間が来て、教授たちがやってきてガイダンスが始まる。平板な説明が続いた。書類や冊子に目を通し、大事そうな所だけメモをとって、一時間あまりで話は終わった。教室から出て、伸びをする。能登谷は、隣で大きなあくびをしていた。
「これだけの為に早起きかよ……あー、だる」
「『生活を見直せ』って意味で早くしてるのかもよ?」
「それはあるかもな。バイトに打ち込んだり、デートしたり、そんなんばっかじゃいられないっていう」
能登谷がにやりと笑ってこちらを見る。「デート?」新島さんもつられて、こちらを見た。
「中村くん、彼女さんいるんだ」
「……能登谷、お前余計なことを……」
「俺をハブったからなー。許せないよなー」
「ふーん、いいな」
「あ、朋絵ちゃん彼氏いないんだ。俺とかどうよ?」
新島さんは至極クールに「うーん、パス」と一言寄越した。
「私はもっと、デリカシーのある人がいい」
そうだそうだ、お前にはデリカシーが足りない、と追撃してやりたかったが、能登谷が意外と傷ついた雰囲気を醸していたのでやめた。
「まあ、人間心変わりというものがあるしね!」
「私は能登谷くんの心変わりを待つわ」
「どんだけ嫌われてんの、俺……」
新島さんが、くすっと笑う。それから、能登谷と新島さんの軽口の応酬が続いた。僕はどうしても、脳裏に焼き付いた光景が離れなくて、心から笑うことがなかなかできなかった。
「じゃ、俺はこっちだから」
「うん。じゃあね」
駅への分かれ道で、能登谷が僕たちに手を振る。新島さんも駅へ向かうものだと思っていたから、面食らった。
「あ、新島さん、駅行くんじゃないんだ……」
「この近所なんだ、実家。近いからN大受けたみたいな感じ。中村くんは、一人暮らし?」
「うん、商店街抜けた先のアパート。悠遠荘っていう……」
途端に新島さんの顔が曇った。何かまずいことを言っただろうか。
「ひょっとして、104に越してきた、とかじゃないよね……?」
ずばりと言い当てられる。
「え、うん……何で知ってるの……?」
「だって……」
新島さんが言い淀む。言おうか言うまいか、ためらっているようだった。言葉を待っていると、彼女はおずおずと口を開いた。
「遥希さん……前の住人の、知り合いだからよ」