伸びる手
観覧車を降りた後、泉美が食らいついてくるのではと思っていたが、彼女はむっつり黙ったまま久保田を睨んでいた。要が「泉美ちゃん、嫉妬しちゃったんだよねー」とか言い出してハラハラしたが、ぷいと顔を背けるだけで噛み付きはしてこなかった。
「で、どういうこと?」
帰宅するなり、要が尋ねてくる。
「どうも何も……」
「仁美さん、目赤かったよ。本人笑ってたから、言い出せなかったけどさ」
香坂さんは僕の発言以降、泣きそうなのを必死にこらえているような顔で、何かを言おうとしたが黙ってしまった。僕は恥ずかしさと気まずさを取り繕うために、外の景色の感想なんかを述べたのだが、香坂さんは気もそぞろと言った雰囲気だった。
「何か変なこと言ったの?」
「……」
変なことを言ったのは確かだけれど……。
僕は、後悔はしていない。
要は真剣な顔で僕を見ていたが、はぁ、と大きくため息をついた。
「まあ、兄ちゃんが変なことするような奴なら、あんな仕掛けしないしね。そこは大人になって聞かないどいてあげるよ」
要は上から目線で言うと、「そういえば」と言葉をついだ。
「能登谷くんから、兄ちゃん宛てにメール来てた。『明日のガイダンスどうするよ?』だって」
「ガイダンス……」
すっかり忘れていた。入学の初っ端から、不良生徒になるところだった。
「待ち合わせなくてもどうせ教室で会うからいいって返信しといて」
「はいはい。やっぱ携帯ないって不便だよ。この際スマホにしちゃいなって」
要はスマホを取り出して、素早い手つきで返信をし始めた。
ガラケーを貫く信条も特にないし、連絡がとれなくなるのも困る。出費が少しだけ痛いけれど。
能登谷からの了解の返信を確認してから、僕は寝ることにした。
◆
暗闇の中、スポットライトを浴びたように僕の周りだけが明るかった。
体の自由がきかず僕は立ち尽くし、かろうじて目線だけは動かすことが出来そうだった。
まただ。また、夢……。
何も見えなかったはずの目の前に、見事な桜の大樹が現れた。突然現れた、としか言いようがないほど無視できない存在感。
……綺麗だ。怖いほど。
意識が虚ろになる。だから、桜は嫌なんだ。
桜の花弁から目を逸らし根元に視線を向けたとき、それは顕現した。
――根元から生えた人間の腕。
いや、違う。生えているんじゃない。埋まっているんだ。
そして、その手がおいでおいでと動いた。
◆
僕は勢いよく飛び起きた。時間はまだ5時にならぬ頃だった。ベッドでは要が酷い寝相で平和そうな寝息を立てている。僕は春先だと言うのに体が汗ばんでいた。冷や汗だ。気持ちが悪いので、シャワーを浴びることにする。
ここに来てから見る桜の夢。あれは、河原の桜とは比べ物にならない樹齢のものに見えた。少なくとも、今まで生きてきて出会ったことのない規模のものだった。
埋められたり、埋まった人間を見たり……自分の精神がおかしいんじゃないかと思えてくる。
越してきたばかりで、疲れているだけだ。そう結論付けるが胸騒ぎは消えなかった。
冷蔵庫を覗いてみるが、ほとんど何も入っていない。買い物に行ってこないとな……と思いながら、烏龍茶を取り出す。そのうち要がのそのそ起き出してくる。
「おはよぉ、兄ちゃん。あ、まだこんな時間? もうちょい寝れる……」
「もう朝飯にするぞ。って言っても、まだパンと卵ぐらいしかないけど」
「うーん、あんま食欲ないや。昨日ヤスくんと屋台めぐりしたから……もたれてる、かも」
寝起きでぼさぼさの頭を掻きながらのたまう。
「んなこと言って、いつも昼食までもたないじゃないか。パン一枚ぐらいなら食べれるだろ」
「わかったよー……じゃ、出来るまで寝てる」
どこまでもぐうたらな妹だった。僕自身も料理スキルは皆無に等しい。トーストとスクランブルエッグをこしらえて、要と一緒に朝食を摂る。
「要、お前いつ実家帰るんだ?」
「え? どっしよっかなぁ」
「……考えてないのかよ」
「当然、学校始まるまでには帰るよ?」
「まあ当然だな、そりゃ」
「ブルーベリージャムとかないの?」
「誤魔化すなよ」
「えー」
えへへ、と笑う要。デスティニーランドに行ったら帰る、と言っていたはずなのに。
「何か、仁美さんとかと離れるの寂しいなって」
「また、夏があるだろ」
「そうだけど……もうちょっと、いてもいいでしょ? いいよね?」
俺がなかなか要にNOを言えないのを分かっていて、わざわざ聞いてくる。
「……学校始まる前の日までには帰れよ?」
「うん。ありがと、透兄」
要に見送られて、ガイダンス予定の時間よりも大分早めに部屋を出た。駅とは逆方向の大学のキャンパスを目指す。ここからは少し勾配の強い坂道が多い。キャンパスが山の上にあるからだ。少し息が乱れる。
大学にたどり着く少し前、今まで気にも止めていなかった脇道がふと目に入った。何故か、そちらへ向かいたい衝動に駆られる。時間はまだ充分にあったので、そちらの道へ歩を進めた。
その先は小高い丘になっていて、見事な桜が咲いていた。
既視感。
その樹は、まるで僕の夢から飛び出してきたようだった。いや、この樹が僕の夢に浸食してきたのか? だが、確かにこの道を来たのは初めてだったはずだ。
桜の下には、先客がいた。桜の木に向かって手を合わせている。白い春物のワンピースを身にまとった、茶髪のショートカットの女の子だった。
思わず、桜の根元を見る。花束が供えられていた。
女の子がこちらへ向き直る。僕の視線に気づき、訝しげな顔で軽く会釈をして去っていく。
彼女が桜を背にしたあと。
花束のすぐ側のあたりからいつの間にか、手が出て来ていた。
その手に付いた爪は赤く、酷く鋭利だった。