data07:プリン哀歌(後篇)
────、7
ふたりが恐るおそる第三班のオフィスを覗くと、眼の前をマウスが飛んでいった。
残念ながらコードのついていないタイプだったため、哀れなマウスは途中で引き留められることなく壁に激突し、床に落ちる。
しかしこうしたショッキングな光景もある程度は予想していたので、それほど動揺はしない。
とにかく状況を把握するために室内を見回した。
そういえばヒナトはここに来るのが初めてだ。
……これはひどい。
もともとはきれいに整頓されたオフィスだったのだろう。
奥の壁は薄紫色で、白いラインが三本。
壁に隙間なくぴったりと並べられた棚と、二人分しかないデスクのために、一班のオフィスよりも少し空間が広いような印象を受ける。
だが室内に立ちこめているのは雑然とした空気だ。
その原因は間違いなく床に散乱したファイルの山と、その中心でどす黒いオーラを放っている小柄な少年にある。
第三班オフィスの班長で、ユウラの言葉を借りれば「病的な甘党」であるというニノリは、GHの階層では今のところ最年少だ。
それでいて班長を務めているということは、それだけ能力が高いということになる。
「ニノりん、あのね、いちごゼリーならあるらしいの。それじゃだめかな?」
秘書であるアツキは荒れ狂う少年をなだめようと懸命に話しかけていた。
ニノリが投げたものが当たったのか、右頬が赤く腫れてしまって痛々しい。
当のニノリには彼女の声が届いていないらしく、何やらぎゃあぎゃあと泣き喚きながら手当たり次第にものを投げている、ように見えた。
とりあえずアツキのほうが入り口に近かったので、ヒナトはそのへんに落ちていた分厚いファイルを盾代わりにして近づく。
「アツキちゃん大丈夫!?」
「あ、ヒナちゃんにソーくん。ごめんねぇ、今ちょっとニノりん怒っちゃってるから、話は後にしてくれる?」
「いや俺らはニノリを止めにきたんだって」
「そうなの?」
この状況できょとんとしてふたりを見るアツキの神経はどうなっているのだろう。
っていうかこれで「ちょっと怒っちゃってる」レベルなのだろうか。
ヒナトには完全にぶち切れているように見えるのだが。
いつもこうなの?と聞くと、まっさかぁ、と軽く笑われた。
ニノリもさすがに毎日プリンを欲するわけではない。
というかそれでは健康によろしくなさそうなので、アツキが冷蔵庫をチェックしつつ、『プリンを食べる日』を決めているのだそうだ。
『食べる日』でなくてもニノリの調子を考えて糖分を与えることはあるが、そういう場合はプリンじゃなくても文句を言わない。
ただ、食べる日にだけは絶対にプリンを用意しなくてはならない。
カスタードプリンでも牛乳プリンでも最悪かぼちゃプリンでもいいので、とにかくプリンに属する冷たい菓子を摂取しないと、ニノリは仕事ができなくなってしまう。
……のだそうだ。
「仕事ができないって、こうやって怒っちゃうってこと?」
「ううん、動かなくなっちゃうの。無理にお仕事させてもすぐ寝ちゃったりとか、そうでなくてもすっごくストレスが溜まるらしくて、ひどいとこうやって爆発しちゃうのねー」
困ったねえとアツキは苦笑してみせる。
「このまま放っといてもそのうち疲れて寝ちゃうんだけどね。
でもそれじゃああんまりかわいそうだし、早く止めてあげないとサイちゃんたちもお仕事できないからなぁ」
「かわいそうか? ガキのお守りも大変だな」
「こら、そういうこと言わないの。私たちはニノりんのお姉さんお兄さんなんだから」
アツキとソーヤがそんな会話をしている間に、ニノリの行動は「物を投げる」から「物を殴る」にシフトしていた。
どのみち物に当たっていることに変わりはないが。
普段キーボードを触るくらいの作業しかしていないであろう手は華奢で、あたりに叩きつけられるたびアツキの頬と同じように赤く腫れていく。
端からはかなり痛そうに見えるのだが、ニノリはまったく構わず壁を殴り机を叩き、棚をひっくり返した。
まだかろうじて投げられずにいたファイルたちが音を立てて落ちる。
ニノリの喉から低い唸り声がした。
まるで威嚇する動物みたいだとヒナトは思った。
それでもこちらに攻撃が飛んでこなくなったことに対してヒナトたちは少し安堵していたが、逆にアツキは真っ青になってニノリを見つめている。
ここへきてもまだ、アツキはニノリを心配しているのだ。
その証拠に彼女のぽってりしたくちびるが、かわいそう、と動いたのをヒナトは見た。
「ソーくん、ヒナちゃん、お願い。一緒にニノりんを止めて。このままじゃ、怪我しちゃう」
アツキが震える声でそう言ったので、ヒナトとソーヤは顔を見合わせた。
幸いにしてニノリは小柄だ。
三人で一斉に飛びかかれば取り押さえることはできるだろう。
問題はそのあとどうやって彼を落ち着かせられるか、だ。
ちょっといいか、とソーヤが小声で話し始めた。
「今ワタリにプリンを探させてる。もう十五分も経ってるから、あと五分も粘ればひとつくらいは見つかるだろう」
「ありがとう、一個でもあればニノリんも満足してくれると思う」
「よし。じゃあ今から俺があいつを羽交い締めするから、おまえらは脚を押さえろ。アツキは右足でヒナは左足だ。それでワタリが来るまで粘る」
「も、もしプリンがひとつもなかったらどうするんですか?」
「そんときゃ暇そうな職員に買ってきてもらって、ワタリは縄とか縛れそうなものを持ってくるはずだ」
「え……そんなこと言ってましたっけ?」
「言ってねぇけどあいつならまずそうするだろ。俺より頭いいし」
そ、そうなの?
ヒナトはこんな状況下ではあったが新事実に驚き、ついでに何やらソーヤとワタリの間に信頼関係のようなものを感じて、それはそれでちょっと羨ましいなどと思った。
まあ班長と副官だものね。秘書よりワンランク高いものね。
でもってその秘書もヒナトレベルじゃあね……って何をネガティブな発想に流れているんだろう自分。
ともかく行くぞとソーヤに言われ、ヒナトは身構えた。
ニノリの左足はちょうどひっくり返った机の横にある。
ここから突っ込むと机にぶつかってしまうが、それくらいは仕方がないだろう、この場合。
「いいか、俺があいつの背後に回ってから押さえろよ。
……あとたぶん抑えるのにちっとは殴ることになるだろうから、先に謝っとくぜ」
言うなりソーヤが飛び出した。
ニノリは一瞬気づくのに遅れたが、手許にあった防水トレーでソーヤの拳を受け流すと、驚くべき動きでソーヤの脚を攻撃してきた。
ソーヤはかろうじて直撃を避けたものの、足を払われる恰好になり一瞬ふらつく。
そこをニノリは見逃さなかった。
素早く前傾したかと思うと、肩を思いきりソーヤの腰に当ててきたのだ。
すでに重心を欠いていたソーヤは踏みとどまることなく転げた。
ニノリはまだ止まらず、そのままソーヤに馬乗りになる。
殴る気だ、とヒナトは思った。
その瞬間、自分でも意識しないうちに身体が動いて、彼らふたりの間に割り込もうとしていた。
──だが。
ヒナトよりも一瞬早く、アツキが飛び出していた。
ショートカットのこめかみに赤いバレッタが、蛍光灯の光を反射してきらきらしている。
アツキはほとんど体当たりするような勢いでニノリに突進し、けれども前に伸ばされた両腕は、どうやら少年を抱き締めようとしていたらしい。
けれどもニノリは無情にも、アツキを見ないうちに半ば反射的に彼女を殴り飛ばした。
鈍い音が第三班オフィスに響く。
それを間近に聞いたヒナトは、さあっと身体の中に冷たいものが拡がるのを感じた。
……怖い。
ヒナトとあまり背丈の変わらない少年だと思って甘く見ていたのかもしれない。
どうにかなるだろうと思っていたはずなのに、中途半端に駆け寄った状態のまま、ヒナトの脚は動かない。
そうして何もできずにいたら、ソーヤがニノリを振り落とした。
続いて一発、小気味いい破裂音が聞こえた。
殴ったらしい。
ニノリがまた獣のような唸り声をあげる。
「……ソーヤさ、」
やめてください、と言おうとしていた、のだと思う。きっと。
しかしヒナトがはっきりそう口にする前に、背後で扉が開いた気配がした。
ワタリの声もする。見つけたよ、と言ったように聞こえた。
ソーヤが投げろと指示を出し、ワタリは言われたとおりにしたようだ。
眼の前を飛んでいく黄色い物体は間違いなくまだ封の切られていないプリンだった。
「おいニノリ! 御所望のブツだ!」
ところが肝心のニノリはまだ興奮していて、飛んできたものがプリンだということに気づいていないらしい。
投げ返されたそれはヒナトの足許に叩きつけられた。
プラスチックの容れもののなかで、柔い黄色が振動で少し崩れてしまった。
ヒナトはそれを手に取った。
遠くでソーヤのいらだった声が聞こえる。殴り返されたらしい。
顔を上げるとニノリとソーヤが取っ組み合いしている。
離れた場所には殴られた肩を抑えてうずくまるアツキがいて、いつの間にかワタリが駆け寄っていた。
何か声をかけているが聞こえない。
ふいにワタリがこちらを向いて、プリンを、と言った。
「ヒナトちゃん、もう一回プリンを投げて!」
「……それじゃ埒があかねぇよ! ワタリ、こいつの脚を押さえろ!
ヒナはラボに行って、職員に事情を説明してそれで、麻酔かなんかもらってくるんだ!」
ソーヤの言葉に、アツキが伏せていた顔を上げた。
……泣いている。
「そんなことしないで」
「つったってアツキ、こいつはそうでもしねぇと止まんねーぞ!」
「で、でも、……麻酔は絶対にだめだよ……! だってソーくんも、知ってるでしょ、私たちの身体には」
「他に方法がねぇんだよ!」
ニノリと殴り合いながらのソーヤの怒号に、アツキはびくりと身体を震わせる。
そしてちらりとヒナトのほうを見た。
牡丹色の瞳いっぱいに涙を溜めて、けれども彼女は、何も言わない。
言わないけれどもヒナトにはその意味がわかった。
麻酔を持ってくるなと、そういうことだろう。
どうして麻酔がいけないのかはヒナトには思い出せなかったが、アツキの真剣な感情は伝わってくる。
じゃあ、他に、どうやってニノリを止めればいい?
悩んでいるときの癖で、ヒナトは手許をごそごそやった。
……プリンを持っている。
そうだ、さっき拾ったのだった。
もしかして、とヒナトは独りごちる。
このプリンは未開封。感触は冷たくて硬い。
だからニノリはこれがプリンだとわからなかったのかもしれない。
──アツキの意に反して麻酔を取ってくる前に、一度試してみる価値はあるかもしれない。
「ソーヤさん、もうちょっと押さえててください!」
「ヒナ!?」
「ワタリさんはどうにかしてニノリくんの口を開けさせて!」
「……なんか急に無茶ぶりかましてきたね?」
手許でべりべりと気持ちのいい音がする。
ヒナトはそれをしっかと掴み、ソーヤに抑えつけられているニノリの許へ走った。
ワタリは困ったようにニノリの顎を抑えていて、開いているのはわずかに一センチほど。
しかもニノリが暴れ回ったせいで、きっとコーヒーや紅茶に添えられていたであろうスプーンも見当たらないので、ここは即席でやるしかない。
ヒナト最終奥義、プリンの蓋で簡易スプーンを作るの巻!
「くらえ!」
謎の掛け声とともにヒナトはプリン(さっき叩きつけられて崩れた残骸)をニノリの口に流し込んだ。
文字どおり食らわせてやったわけだ。
んぐ、とニノリが呻く。ワタリはそこですぐさま手を離した。
「ソーヤも離したげてよ。窒息しちゃうだろ」
「お、おう」
恐るおそるといった感じながらソーヤが腕を離しても、ニノリはもうぴくりとも動かなかった。
無表情のまま、しばらくもごもごと口を動かしていたかと思うと、芝生色をした両眼から幾筋も透明なものを溢れさせた。
どうやらやっと落ち着いたらしい。
ほっとしてヒナトが声をかけようとした瞬間、彼はむっくりと起きあがった。
ヒナトは驚いて黙り込んでしまったが、その手にあるプリンを見たニノリは、プリンとヒナトを交互に見た。
何が起きたのか彼自身にもわかっていないらしかった。
次に眼をやったのは自分の両腕で、やはりかなり傷むようだ。
それからきょろきょろとあたりを見回したニノリは、アツキを見つけた。
頬を真っ赤に腫らしたアツキは、ニノリが落ち着いたのを見て、嬉しそうににこにこしている。
「あ、……アツキ、それ……おれが?」
やったのか、と掠れた声でニノリは尋ねる。
アツキは笑ったまま平気だよと言った。
どうみても平気じゃないはずなのに、眼はまだ充血したままで、それでもアツキの微笑みは少しも崩れることがない。
ニノリはアツキに駆け寄って、ごめん、と必死に謝り始めた。
→