data74:そして夜が明ける
────,74
泣き崩れたワタリを見下ろして、ソーヤは考えた。
彼を言葉の限り罵って、腕が砕けるまで殴れば事態が変わるのなら、喜んでそうする。
それだけの痛みと熱がソーヤの胸にはある。
けれど幸か不幸か、それでは誰も救われないことを、ソーヤの頭は理解していた。
それにどんなに腹が立っても、どんなに憎らしくても、この眼は曇らない。
ワタリが悪意からそんな愚かな行為をしたのではないことくらい、こうして嘆く姿を見ていればわかる。
後先も考えずにそんなことをする男ではないことくらい、班長だから、知っている。
それに、最初に会ったとき。
すでにソーヤの記憶障害は他の全員にも伝わっていて、だからみんな、腫れものに触れるようにソーヤに接した。
タニラやアツキはぎこちない愛想笑いを浮かべ、さも気にしていないかのようなふり。
あのユウラですら、仕方がないことだと励ますような言葉を口にした。
その気遣いはありがたかったし、逆に辛くもあった。
ただひとりワタリだけが初めから、ごく自然な微笑みを浮かべて『はじめまして』という言葉でソーヤを迎えた。
はっきり言って胡散臭かったが、ソーヤはすでに見知らぬ『友人』たちの優しい気遣いに疲れていて、それよりワタリの完全に割り切っているような態度のほうが、一緒にいて楽だと思えたのだ。
同時に、その完璧な演技の裏に何があるのかも気になった。
その結果がこれだ。
信じがたい、最悪で最低な、やりきれない真実の羅列にさらされて、ソーヤは今も疲れ果てている。
そしてだからこそ思うのだ。
――これで終わりにするわけにはいかない。そんなこと、認めてたまるか。
「立てよ」
呟きながら、自分も上体を起こす。
そのままベッドからも立ち上がり、そして、まだ屈んだままのワタリの胸倉を掴んで引っ張り上げた。
「立てっつってんだよ!」
「ぅ、ううぅ……ッ」
「泣いたままでいいから聞け」
涙で潰れた青い眼の中に、鬼のような形相の己が映り込んでいる。
「てめーをどうするかはぜんぶ終わってから決める。それまでは俺の副官だ。俺の指示に従えクソ野郎」
「な、にをッ……したら、いい……」
「仕事は山ほどある。まずGHの連中を全員ここに呼んでこい」
「わか、った」
ワタリは頷いた。
そしてぼろぼろの顔のまま、飛び出していった。
二十分ほどかかり、医務部に残っていた組についてはソーヤも多少手伝いはしたが、とにかくソーヤの病室に予定どおり全員が揃った。
さほど広くもない病室に九人も集まるとさすがに窮屈だったが、そんなことは誰も言わない。
ワタリがこれほど尋常ではないようすで、しかもその状態で何かを頼んできたことなど今まで一度もなかっただろうから、誰もがことの重大さを察知していた。
そもそも昨日の時点ですでにGH全体が、もはや尋常とは言い難い。
ともかく空気は重苦しかった。
それを静かにナイフで切り裂くように、ソーヤは宣言する。
「ヒナトを取り戻そうと思う」
その内容に驚いたか、あるいは挙げられた名前に反応したのか、何人かが息を呑んだ。
唯一すぐに口を開けたのは、予想はしていたがサイネだった。
「……あんた、自分が何言ってるかわかってる?」
「わかってる。でもって、俺たちだけじゃ手が回らねえことも承知してるから、おまえらにも集まってもらった」
「つまり私らも手伝えってこと?」
「ああ」
「花園がそれを許すと思う?」
「いや。……そもそも許可なんざ初めから求める気はねえ。花園の意思なんざ知らねえよ。
誰が何と言おうと、ラボや上に妨害されても、たとえ一人でだって俺はやる」
そうしなければ、きっとソーヤは再び死ぬ。
身体が生きていようとも、心が腐って朽ちてしまう。
睨むようにサイネを見つめて言うと、彼女は黄金の瞳をきゅっと開いて、それから閉じた。
「……わかった。私は乗る。ついでにユウラと、あとタニラもいいでしょ?」
「うん、もちろん……!」
「俺もやる! 手伝うよ! っても、何ができるかはわかんねーけど……」
「うちも。……また、ヒナちゃんに会いたいもん……」
「おいアツキとエイワ、俺を差し置いて決めるな。……今回は多数決ということにしてやる」
次々に名乗りを上げ、頷く面々に、ソーヤの胸が優しく痛む。
わかってはいたが、彼女を失うことを悲しんでいたのは自分だけではなかったのだ。
そう思えることが今は嬉しい。
それらを感慨深く眺めているうちに、隅で独り黙っていたミチルを見つけ、ソーヤは言った。
「……おまえとワタリは拒否権ねえからな。班長命令だ」
彼女は何か言いたげにこちらを見たが、しかし、何も言い返さなかった。
・・・・・*
それは無謀な試みだった。
現時点でヒナトがどのような状態なのかもわからないのだ。
彼女の体組織がどの程度残っているのか、そもそも蘇生が可能なのかもわからないし、仮に成功したとしても何も覚えていないかもしれない。
はっきり言って労力の無駄でしかないのに、なぜみんな躍起になっているのかが理解できない。
命を救われたと思っているらしいソーヤはまだいいとしても、他のソアなど、ヒナトに何の恩も義理もない赤の他人ではないか。
そんな冷静な眼差しを向けるほどに、ミチルは周囲との温度の違いを思い知る。
でもこれは仕方のないことだ。
ミチルは他のソアたちに比べてヒナトと過ごした時間が長くはないし、そもそもずっと彼女を恨んで憎んでいた。
ほんとうならヒナト復活計画の手伝いなどしたくないくらいで、だから周囲と同じ気持ちで同じように振る舞えなくても、誰に文句を言われる筋合いもない。
だが、それならどうして空しいのだろう。
必死で無理難題に取り組んで泣いたり笑ったりしているソアたちを見て、どうしてバカらしいと一蹴できないのだろう。
これに似た状況は以前もあった。
ソーヤが倒れたとき、ざまあみろ、とは思えなかった。
彼らが苦しむことを何より望んでいたはずなのに、実際に目にするとちっとも楽しくはない。
それをワタリは、ミチルがほんとうは優しいからだなどと抜かしたような気がするが、それは彼の勝手な言い分であって、ミチル自身はそうは思わない。
きっと足りないからだ。
もっと苦しんで、そしてそれが己の罪に対する罰だと自覚して、ミチルに対して詫びなければ意味がない。
でも――その理屈は、今の感情を説明しきれていない。
「低温生物学の学術書たったこれだけかよ。……まあいい、肝心なのは中身だ」
「保管温度からすると長期休眠より冷凍保存の観点で探したほうがよさそう。内部資料の精査はこっちでやっとくけど、あと必要な情報は?」
「過去のマウス実験の記録も見たいかな。頼める?」
「伝えとく。……ちょっと手あたり次第すぎる気もするけど」
「何が手掛かりになるかわかんねー状況だからな。あ、タニラ、ついでにエイワに伝言頼む」
「うん」
「私は先に戻ってるから」
宣言のあと、GHのソアはほんとうに一丸となって活動していた。
これまで就業時間中には大して交流などなかったのに、今やこうしてサイネとタニラが資料を抱えて一班を訪問したり、逆にソーヤたちが他班を訪ねてあれこれ議論したりしている。
どの班のどのソアもヒナトのことを考えている、なんとも異様な光景だ。
しかもそれらの活動は、通常業務と平行して行われている。
つまり全員が何かしらの無理を通してでも、ひとつのことをやり遂げようとしているのだ。
そんなことをして何になる。
上手くいくかどうかもわからないし、仮に成功したとしてもヒナトのような凡人が、彼らに何を返せるというのか。
彼女の細胞が治療に使えるのはソーヤだけで、それ以外に存在価値などないのに。
しかし、いくら考えたところで、目の前の現実は変わらない。
ソアたちは自身の利益そっちのけで動いている。
彼らが時間と労力を差し出してもいいと思えるほどに、ヒナトの存在が認められている。
それがミチルには、どうしようもなく耐え難かった。
→




