data67:給湯室で聞いたこと
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給湯室の扉を見た瞬間、なぜかぎくりとした。
理由はわからない。
班長であるソーヤがここを訪れる機会は少なく、よって悪い思い出などあろうはずもないのに、なぜか全身が強張る感覚がした。
どうも胸がざわついて気持ちが悪いが、エイワに呼ばれて拒絶するわけにもいかず足を踏み入れる。
見たことのある光景。背もたれのない丸い椅子と、テーブル、その奥には茶葉などが並ぶ棚。
エイワはソーヤに椅子を勧め、自分はコンロの前に立って作業を始めた。
その背中を眺めながら考える。
なぜソーヤは今、こんな場所にいるのかと。
答えはひとつ出ている。
他ならぬエイワが、少し話がしたいから付き合ってほしいと言い、ソーヤはそれを了承した。
給湯室は時間帯によっては他に訪れる人間もおらず、いたとしてタニラかミチルとわかりきっているので、ソアが人目を盗んで長話をするのにはちょうどいい場所らしい。
問題はエイワが何を言い出したいのか見当がつかないこと。
あるいは心当たりがあって、それがソーヤとしては都合が悪いものだということ。
……だからこの妙な居心地の悪さはきっと、そのせいだ。
「おまえが寝てる間に、聞いた。病気のこととか。それと」
やかんを火にかけながら、エイワは呟くようにそう言った。
ソーヤは顔を上げて彼のほうを見たが、彼は振り向いておらず、そこにあるのは妙に広い背中だけだ。
「……記憶喪失のことも」
そしてやはり、こちらを見ずに告げられた言葉は、まさしくソーヤがいちばん恐れていたものだった。
休眠の前の記憶の一切を失い、共有するはずだった思い出を何一つ覚えていないことを──それに関する懺悔と償いさえしなかったことを。
結局言わずに誤魔化し続けてきた己のことを、彼がどう罵り責めたとしても仕方がない。
ソーヤは何も言い返さなかった。
両手を膝の上で潰れそうなほどに握り締めながら、彼の下す審判を待つだけだった。
もう顔も上げていられなくて、再び俯いて床を見下ろす。
しかしそんなソーヤのことを、なぜかエイワは拍子抜けするくらい明るい声で、励ますような口調でこう続けたのだ。
「ま、わかってたけどな!」
驚いて思わずエイワのほうを見ると、彼はこちらを向いていて、しかし顔はさすがに声ほど元気なようすではなかった。
けれども責めるでも喚くでもなく、ただ困ったような笑みを浮かべている。
「なんで……」
「いやすぐわかるわ、おまえの返事しょっちゅうズレてっから。俺もだてに十七年近くおまえのダチやってねーんだよ。
……まぁ四年は爆睡してたし厳密に言うと十二年ちょいだけどさ」
「そうじゃねえ、……なんつうかその……もっと怒るとかあんだろ……」
「あのなぁ」
エイワはつかつかと歩いてきて、ソーヤの肩にぽんと手を置いた。
「もっかい言うか? 俺、十二年おまえと兄弟みたいに育ってんの。だからおまえの性格はよーくわかってるし、記憶がなくてもそこんとこは大して変わっちゃいないみたいだしさ。
……だからわかってたよ、言うに言えなくて一人で詰まってんだろーなってことは」
「それは……そのとおりだ。悪い……」
「おまえが諦めて白状するのを待つか、でなきゃタイミングみてカマかけようかと思ってた。そしたら……こういうことになったんで、結局タニラたちから聞かざるをえなかったってわけだ」
その瞬間。
具体的には、彼がタニラの名前を出した直後。
ソーヤの肩の上に軽く置かれていただけだったエイワの手が急に強張り、そのまま掌の下にあった肩の肉を、ジャケット越しにも痛みを感じるほど強く掴んだ。
それはエイワが初めて見せた攻撃性で、つまり、やはり彼は、怒っている。
言葉にはしないだけで、内に堪えた感情が穏やかなものでは決してないことを、痛みがソーヤに教えている。
それに見上げた顔はもう笑んではいない。
困ってもいない。
虚無の上に、一筋だけどす黒い色を引いて、いつも星空のように小さな光をいくつも溜めていた温色の双眸が、今は闇夜のようにべったりと暗かった。
「……わかってたよ。俺は、わかってたから、それはいい……」
ぞっとしながらも、ソーヤは眼を逸らさなかった。
そんなことはできなかった。してはいけない状況だったし、不可能だった。
「でも……タニラにあんな顔をさせるのはやめろよな……おまえは覚えてないらしいけど、タニラは昔は、あんな顔じゃあなかったよ……もっと真っ白で純粋で、なんていうか──」
彼の怨嗟を遮るようにして、やかんが音高く噴き上げる。
それで、邪魔が入ったことでエイワも我に返ったようになり、いそいそと火を止めに戻っていった。
ソーヤは一言も発さず、まだ痛む肩をそっと押さえながらエイワのようすを眺める。
下ろしたやかんを鍋敷きらしい厚手の布の上に置いて、テーブルにシュガーポットやカップを並べながら、エイワはもう一度口を開いた。
今度はもう、いつものような穏やかな声に戻っていた。
「俺さ、タニラのことになるとダメなんだよな。昔っからずっと。
で、タニラはタニラで、おまえのことになると俺よりもっとダメだった。俺なんか眼中にないって……知ってたけど、それでもよかった。
だってタニラがいちばんいい顔すんの、おまえを見てるときなんだ」
話しながら、エイワは少し冷ました熱湯を透明なサーバーに注ぎ、コーヒーを作っている。
「それが今じゃなんだよ。泣いてばっかで、おまえの前だと作り笑いでさ……。
でも……あー。しょうがないよな、こんな話したってさ、なんかごめん。悪かった」
「……悪い、俺、何て言えばいいんだかわかんねえ……」
「いいって、聞き流せよ」
「でもよ、……そもそもの原因は俺が何も覚えてないことで……」
「だからそりゃ、おまえのせいじゃないし、どうしようもないんだろ? まあ、しいていえば、恰好つけずに初めっから俺に正直に言ってくれてりゃ、タニラもあれこれ悩まずに済んだかもだけど。
……それだってもう今さら言ってもしょうがないじゃん」
それだけじゃない、と言おうとして、口を噤む。
エイワが起きるより前からタニラを何度も泣かせてきたのだから、彼女が苦しんだ原因は、何もソーヤとエイワの関係だけではない。
昔の約束や思い出を忘れてしまったことでも傷つけてきた。
でもたぶん、それをわざわざ言わなくてもエイワにだってわかるだろう。彼もタニラと同じ立場なのだから。
そのうえで敢えてこれ以上は責めないというのだから、なんというか達観しすぎている。
不思議に思って、だから尋ねた。
「……なんでおまえ、そんな諦めが早いんだよ」
「いや言いかたひどくね?」
「あ、悪い……」
「諦めっつーか、あんま抵抗しねーだけかな。しても無駄っぽいときは。つーかガーデン時代のソーヤと十二年つるめばこうもなるわ」
「……どんだけ横暴だったんだよ俺」
「うんまあ、ガキだったし。……それを思えば今はすっかり丸くなっちまってよー。あ、でもオフィスじゃ今でも暴君かもな? 前にそんな話……」
途中まで少し笑っていたエイワが、そこでふいに言葉を途切れさせたかと思うと、また顔を曇らせた。
けれども先ほどまでのような怒りというわけでもない。
どちらかというと、何かを悲しんでいるような顔つきで、……それを見て、ソーヤははっとした。
重なったのだ。ワタリの顔と。
ふたりの面立ちはまったく似ていないが、浮かべる感情が同じ色だ。
「……っと、あーできたできた! じゃあ俺もう行くわ。ニノリが温いやつ嫌いでさー、あいつ早く持ってかないと機嫌悪くなるから、そーなるとあとが面倒なんだよ」
妙に明るい声でそう言って、エイワはお盆を手に慌ただしく立ち上がった。
どう見たって何かを誤魔化している。
声音と表情が合っていないし、喋っている内容だって、なんというか唐突で不自然だ。
「おい、さっき──」
「ああこれソーヤのぶんな、ゆっくり飲んでけよ。じゃーまた明日なー」
しかし引き留めようとしたソーヤの目の前に、こちらの言葉を遮るようにしてカップがひとつ突き出される。
勢いに押されて思わず受け取ってしまった。
カップの中身はコーヒーらしい、見なくても鼻先に芳しい香りが上ってくる。
そしてエイワはあっという間に出て行ってしまったので、ソーヤはカップとともに取り残された。
唖然として手許を見下ろす。
湯気が立つ黒い水面に、困惑する己の顔が映り込んでいた。
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