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data62:やさしいココアの作りかた

 ────,62



 出ていく直前、ヒナトが急に立ち止まった。

 どうしたとソーヤやリクウが尋ねても彼女は何も言わなかったが、数秒ほど固まったあとで、突然ふり返って言った。


「ソーヤさん! あたし、がんばります!」


 なんのこっちゃ。


 ソーヤはぽかんとしたし、リクウも間の抜けた顔でヒナトを見ている。

 その場の誰も彼女が言わんとしていることはわからなかったが、本人はさっきまでの不服そうな態度とは打って変わって、何やら大変満足そうに微笑んでいる。


 よくわからないけれどやる気があるのはいいことだろう。

 それに、気まずいのを知りながらもここに逃げてくるほど入りづらかったオフィスに戻ろうとしているのだから、ヒナトなりに己に喝を入れようとしているのかもしれない。

 ソーヤがついて行ってやることはできないので、班長はひらりと手を振ることにした。


「……ああ、がんばれ。なんかあったらまた来いよ。今度は就業時間外にな」

「はいっ!」


 扉が閉まる。

 ソーヤとヒナトは分断され、彼女の姿が見えなくなる。


 それは辛いことのはずだったが、不思議とソーヤの胸に、小さな光が灯っているような心地がした。

 鮮やかな黄色の、ひまわりの形をした光が。

 静かに熱を持ったそれを手のひらにきゅっと抱いて、ソーヤはそのまま寝台に身を沈める。


 ヒナトの声を聞くと身体が軽くなる。

 笑顔を見ると心が温かくなる。


 どんな薬も効かないこの身体には、彼女の存在だけが唯一の癒しだ。


「……いっそ毎日来いよな」


 思わずそんな呟きが漏れる。

 そんな自分にソーヤ自身も少し驚いたが、しかし顔は、うっすら笑っていた。




 ・・・・・*




 気分よくオフィスに戻ったヒナトは、できるだけ何も知らない体を保つべくいつもの調子でミチルに絡んだ。

 すると心なしか、その日はあまり拒絶されなかった感じがした。


 気のせいかもしれないし、あとはヒナト自身の機嫌がいいので、だからなんでも良いように捉えてしまっているだけかもしれない。

 でもそれって悪いことだろうか?

 楽しく生きられるならそれに越したことはないと、ヒナトは思う。


 そうだ。毎日笑って過ごしたいのだ。


「ミチルは結局、コーヒーと紅茶とココア、どれが好き~?」

「……しいていうならココア」

「あっ、あたしと同じだー、やっぱ細胞が似てると気が合うんだなー」

「うざい」


 気付けばいつもの調子を通り越して、いつも以上にべったり絡みまくっていたけれど、ミチルは怒りそうな感じではない。

 居心地は相変わらず悪そうではあったが、声音に棘が少ないような気がするのだ。


「ねえねえ、あたし流のいちばんおいしいココアの淹れかたがあるんだけど」

「……」

「ミチルも覚えようよ。ソーヤさんは嫌がるけどワタリさんは喜ぶから。それにあたしたちも満足して一石二鳥、いや、さん……三鳥? だからさ」

「……」


 あまりのしつこさに辟易としたらしいミチルが、珍しくヒナトに怒るのではなく、訴えるような視線をワタリに投げかける。

 やっぱりミチルはワタリに懐いているんだなとヒナトは思った。

 少し意外ではあるけれど、ワタリは誰にでも温厚に接する人だから、ミチルとしても話しやすいのかもしれない。


 ワタリが何か言う前に、ヒナトはふたりの間にずいっと顔をねじ込んだ。


「ちょっとふたりで給湯室行ってきていいですか?」

「え、ちょっと……」


 この提案に、ミチルがぎょっとしているのがなんだかおかしい。


 少し前まで逆だった。

 彼女はふたりきりでないとヒナトを思う存分口撃できないから、できるだけ他の人がいない状況を作ろうとしてきたのだ。

 なぜなら他に誰かがいると、その人がヒナトを庇うおそれがあるから。


 そしてそれを知っているワタリは、だからこそ今日までヒナトとミチルがなるべく二人きりにはならないよう配慮してくれていた。

 それをヒナトが覆そうというのだから、さすがに彼も驚いてすぐ返事ができないようだ。


 しばしこちらを見つめていたが、ヒナトがじっと見つめ返すと、彼は困ったようにうっすら笑った。

 ヒナトの意志が固いことを感じ取ったのだろう。


「わかった、……でもあんまり時間はかけないようにね」

「はーい。じゃ行こ! さぁほら立って!」


 有無を言わせずミチルを急かして、もう引っ張るくらいの勢いでオフィスから連れ出す。

 ワタリが苦笑いで見送っているのをドアの向こうにちらりと見て、ヒナトは意気揚々と階段に向かって歩き出した。


 うしろをミチルが無言でついてくる。

 嫌そうにしつつも、黙って事務室に戻ろうとしない。

 それにぜんぜん文句を言ってこない。


 三十分ほど前までは盛大に泣いていたわけだから、やっぱりそれで精神的に疲れてしまって、暴言を吐くような気力が今はないのだろうか。

 ヒナトはちょっと考えて、ちょうど給湯室についたところでドアと一緒に口を開いた。


「ミチルって真面目だよね」


 ぽかんとしているミチルの腕を引っ張って中に引き入れつつ、ヒナトは続ける。


「今だってさ、あたしのこと嫌いなのに、ちゃんとここまできてくれたし」

「は……?」

「あとお仕事も毎日がんばってるし、今日は違ったけどサイネちゃんたちと一緒にごはん食べるようになったし。あたしともちょっとは喋ってくれるようになった。

 あたしはぜんぶ嬉しいし、あとミチルえらいって思う」


 ヒナトはすらすらとまくし立てながら、手はしっかりやかんに水を入れていた。

 それを火にかけ、沸騰するまでの間にココアの粉と牛乳と、それから計量カップを用意する。


 それらの準備が終わり、暇になったところで満足して椅子に座ると、ヒナトはとどめとばかりににっこりと笑った。


「……なんなのいきなり。何考えてんの? ぜんっぜんわかんない! 気持ち悪い! なんなの!?」

「え、褒めてるんだから怒んないでほしい」

「だからそれが気持ち悪いっつってんの! っそんなんで……あたしがあんたを許すとでも思ってるんだったら、大間違いだから!」


 火が付いたように喚き散らすミチルに、さすがに笑顔は崩れたものの、ヒナトは怯むことなく言った。


「いいよ」


 ミチルの眼が見開かれる。

 ヒナトのそれと同じ、まんまるのうぐいす色。

 相変わらず、こうして向かい合っていると、鏡が目の前にあるみたいだなと思う。


 でもそれってちょっと失礼な表現なんじゃないかな、とも、最近のヒナトは思えるようになってきた。

 というか、その可能性に気付いたというべきか。


 ──あたしたちは別の人間で、だからどっちがどっちの鏡とか、影とかじゃ、ないよね。


「べつにミチルと仲直りしたいとか、仲良くしたいって思ってるわけじゃないから、許さなくていいよ。嫌いならずっと嫌いなままでいいから。少なくとも、あたしのことは。

 だけど、嫌いでもいいけどそれをみんなの前で出すのはやめようよ。心配されちゃうもん。ミチルもそれは嫌なんじゃないかなぁ?」

「……はぁ、なに、つまり、仲良しごっこってこと?」

「そうかなぁ……うん、そうかも」

「くっだらない。だいたい心配されるってねえ、周りが心配するのはあんただけでしょ。あたしのことなんかどうだっていいんだから!」

「ううん、それは違う」


 やかんがごとごとと軋み始めた。

 お湯が沸き始めている。


「ミチルのことだってみんな心配するよ。少なくともワタリさんは絶対に心配してくれる。

 それに他のみんなだって、今はまだお互いのことをよく知らないからあんまり仲良くはしてないけど、これからもずっと一緒に暮らすんだから」


 心なしか、ワタリの名前を出した瞬間ミチルがかすかに怯んだような気がした。


 しかし彼女はすぐに不敵に笑う。

 いや、というよりはむしろ、嘲るような渇いた笑みだった。


 それはいつか、何も知らなかったヒナトに衝撃の事実を突きつけてきたときとよく似た顔だった。

 あんたはソアじゃない、ただの人間だ、と言われたあの日の。

 あれこそがヒナトの人生をそれまでとまるで違うものに変えてしまった、いわば運命の日。


「ずっと一緒とか。頭お花畑すぎじゃない? どうせみんな早いうちに死ぬんだっての。

 それこそ……たとえばソーヤ。あいつなんか今夜死んでもおかしくない」


 ミチルがけたけたと笑うのを遮るようにして、やかんが高らかに噴き上げた。


 火を止めて計量カップにお湯を必要な量だけ移すと、それを三等分して用意したカップに注ぎ、さらにスプーンでココアの粉を入れていく。

 粉はそのままだと甘くないため砂糖を適宜加えなければならないが、そっちはうっかり失念していたので今から取り出す。

 砂糖と一緒にココアを溶いて少し練ったら、あとは牛乳を入れれば完成だ。


 隠し味にときどきコーヒー用のフレッシュを入れたりメープルシュガーを使ったりもする。

 今日は黒糖を選んでみた。


「……よしっと。

 あのね、ミチル。あたし、もう誰も死んでほしくないから──だから大丈夫だよ」


 ヒナトはそう言って、また、にこりと微笑んだ。



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