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data61:どうか扉は開けないでいて

 ────,61



 なんかとんでもない現場に居合わせてしまった、とヒナトは思った。


 お昼休みを終えてオフィスに戻ってきたはいいが扉を開けない。

 開閉スイッチに手を置こうとして、中から誰かの凄まじい泣き声がするのに気付いてしまったのだ。

 ここが第一班の事務室で声の主が女の子ということは、もう答えは明白である。


 ここで中に踏み入るべきでないことはヒナトにもわかる。

 ミチルはヒナトに泣き顔を見せたくはないだろうし、余計な地雷を踏んで彼女からの嫌われポイントを大量追加得点するわけにはいかない。


 ドアを開ける前でよかったと胸を撫で下ろしつつ、さてどうするべきかと考える。


 時間はもうない。

 すぐ中に入らなければヒナトは遅刻してしまう。

 ソーヤの厳しい教育の賜物として、わざわざ自らの勤怠記録に新しい罰印を増やしたくはないヒナトではあったが、今日は仕方がないだろう。


 問題は、遅刻するとしてもその理由をどうでっち上げるか、そしてどこでどれくらい時間を潰せばいいかである。

 ワタリは細かく追及してこないだろうが、適当な口実ではミチルはきっと怪しむだろう。


 ヒナトはちょっと考えて、それから回れ右をした。



 ・・・・・+



「ちょっと電話貸してください!」


 元気よくそう声をかけつつ、ヒナトは壁に設置された電話から白い受話器を取り外した。

 そして職員の返事を待つことなく内線番号を押す。


 しばしコール音が続き、やがて誰かが応答した──もしもし?

 穏やかなその声にほっとしながら続ける。


「あ、ヒナトです。お疲れさまです」

『ああ、お疲れさま……って、どうしたの? もう時間過ぎてるけど』

「じつはちょっとソーヤさんに呼ばれたんで医務部に。えっと、たぶん十五分くらいしたら戻りますね?」

『……わかった。あ、そういうときは先に僕にも連絡してって、ソーヤに言っといて』

「了解ですー」


 ワタリの返事には、なんとなくこちらの意図を察した気配があった気がする。

 ともかく受話器を置くと、廊下の少し先に立っていたリクウが苦い顔をしているのが見えた。


「ずいぶん堂々と嘘吐いたな、俺の目の前で……」

「緊急事態なんで許してくださいっ。……ってわけで、ソーヤさんのお見舞いしてもいいですか?」

「……まあいいか」


 嘘というのはもちろん呼ばれた云々のことである。

 もしほんとうにソーヤがヒナトを呼びつけたのなら、医務部に勤務するソアであり、GHと医務部の連絡役でもあるリクウが知らないはずはないのだから。


 彼の後をついて歩き、ヒナトはのほほんとしながら廊下を歩いてソーヤのところへ。

 しかし、リクウがノックをしてからドアノブに手をかけたところではっとなり、思わずその手を掴んで止めてしまった。

 怪訝そうな顔の先輩に見下ろされながら、ヒナトは急に歯切れ悪くもごもごと口を動かす。


「あの、えっと、その、ちょ、ちょっと待って、ください……」

「何だよ? ソーヤに会いに来たんだろ」

「それはそうなんですけどそれが目当てってわけでもなくてえ……えっと……そのぉ……」


 そうなのである。

 事務室に戻らない体のいい口実としてソーヤを思いついたが、ヒナトはついさっきまでうっかり忘れていた。

 というか、思い出してしまった。


 給湯室でのなんていうかファンタスティックな事故のことだ。

 あのとき感じた意外と柔らかな感触が唐突に蘇り、それだけで赤面してしまう。


 逆によく今の今まで忘れていたもんだと思う。

 まがりなりにもあれがヒナトのファーストキス体験なのですが。事故をカウントしていいならの話だけども。


 むろんリクウはこちらの事情など知らないわけで、急にもじもじし始めたヒナトに妙なものを見る眼を向けている。

 いや、それにしても冷めすぎなように思う。


「……おまえらまさか」

「え……っち、ちが、違いますよ!? なんにもしてません! あ、あ、あれは事故ッですっ!」

「……。そうだな、なんか違うっぽいな。ならいい」


 なんか呆れたような顔をされたのにはもやっとしたが、ヒナトはそれに構っている場合ではなかった。

 ドアが開いたのである。


 一瞬リクウがやったかと思ったのだが、そうでないことにすぐ気づいた。

 扉の向こうからソーヤが顔を覗かせたからだ。

 どうやらあまり体調か機嫌のどちらか、あるいは両方がよろしくないようであり、ヒナトたちを見るなりなんなんだよと小さく悪態を吐いたのが聞こえた。


 ノックしたのになかなかドアを開けないので、たぶんソーヤのほうでも不審に思ったのだろう。


「あ、……そ、ソーヤ、さん……」

「がたがたやってないで中に入れよ。……あ、あんたは外で。気になるならドアの前にでもいてくれ」

「いや俺も忙しいんだよ。なんかあったら緊急連絡装置(ヘルプコール)を押せ」


 とまあ、リクウはさっさと持ち場に戻ってしまうし、ヒナトは中に引き入れられたうえにドアを閉められるしで、なんだかんだでいわゆるふたりっきりのシチュエーションというやつになってしまった。


 しかもソーヤが自ら見舞い用の折りたたみ椅子を出してくれる始末である。

 もうどちらが患者かわからない。

 ヒナトは委縮しながら椅子に座り、そしてソーヤも寝台に戻った。


 ベッドの上はファイルだらけだ。

 そういえば最近ワタリが持ち出しているのをよく見かけていたが、ここに運ばれていたのか。


「……んで、何かあったのか? もう昼休み終わってんのに」

「あ、いやその、えと……べつにあの……これといって……大した用事とかは……」

「は?」

「ごごごごごめんなさいっ! これには深い事情が、っていうかその、……ちょっとすごーく事務室に入りづらかったっていうか……」

「なんだそりゃ? 正直にきちんと話せコラ。内容によっちゃ叱らんでやるから」


 もはや照れる気持ちはどっかに吹き飛び、ヒナトは恐る恐る口を開く。

 そしてミチルが泣いているのが聞こえたこと、実はまだ彼女との確執が解消されてはいないことも、すべて正直に話した。

 不思議と、話すほどに気持ちは軽くなった。


 ソーヤはそれらを真面目な顔をして聞いて、そうか、と神妙な声で言った。

 何か考えごとをしているような顔だ。


「たぶん、さっき俺に……からか……?」

「はい?」

「なんでもねーよ。まあ事情はわかったし、判断も良しとしてやるか」


 よくわからないがソーヤは納得してくれたらしい。


 叱られなくてホッとしたヒナトだったが、話すことがなくなってしまったため、再び気恥ずかしさが込み上げてきた。

 何かで気を紛らわせなくてはまずい……と思ってもここは病室だ。

 殺風景な部屋にはベッドと点滴の他に何もなく、しいていえばソーヤが恐らくワタリに頼んで持ってこさせたらしいファイルが数冊あるが、そんなのをヒナトが話題の種にできるはずもない。


 とにかく視線を逸らそうとして、わざとらしく顔を背けてしまった。

 さすがにこれは不自然だと気付いてももう遅い。


「どうした?」


 急にきょろきょろもじもじし始めたヒナトを見て、ソーヤが声をかけてきた。

 その声は穏やかなもので、あんなことが起きたあとでどうしてそんなに平然としていられるのかと、ヒナトは心底不思議に思った。


 たとえ初めてじゃなかったとしても、ヒナトのことをなんとも思ってなかったとしても、そしてあくまで事故だったとはいえ、もう少し動揺するもんじゃないのだろうか。


「べ……べつに、どうもしてないです……」

「おまえマジで嘘下手だな」

「う、うう嘘じゃっ」


 ないです、と言おうとしてついソーヤのほうを見てしまった。

 顔を動かしてからこれは罠だと感づいたヒナトだったが、しかしソーヤと眼が合った瞬間、頭が真っ白になる。


 入院してからどことなく青白くなっていたソーヤの頬に、今はかすかに朱が差している。

 ヒナトも顔が熱くなるのがわかる。

 お互いの眼ががっちりとぶつかり合って、けれど何も言えないまま、ただ時間だけが過ぎた。


 いや、そうじゃない。

 何も言わなくても──むしろ言葉がないからこそ、感じる。


 紅い瞳が語っている気がする。

 ソーヤにとってもあれは衝撃的なできごとだったのだと。

 そしてそれは、決して悪い驚きだけではなかったのかもしれないと、その表情を見ているとなんとなく思えるのだ。


 できるなら確信がほしい、ソーヤに聞いてみたい。


 だがついに意を決して口を開いた瞬間、ヒナトの意志を遮って、無情な音がその場に響き渡った。

 誰かが扉をノックしたのだ。

 そして続く聞き慣れた声で、リクウが扉を開きながら言う──もう十五分経ったぞ。


「え、……ええ~……面会時間て決まってましたっけ?」

「いやおまえがワタリに電話で言ったんだろ、十五分したら戻るって。約束は守りなさい」

「そうだった」


 しかしそれはあくまでヒナトが一方的に言ったことだ。

 ならば延長すればいい。

 もしワタリに苦言を呈されたら、そのときはソーヤに引き留められたと言えばいい。


 などと少々自分勝手に考えるヒナトだったが、しかしソーヤが首を振る。


「そもそも就業時間中だしな。よし戻れ、仕事してこい」


 班長さまにはやっぱり逆らえない。

 ヒナトはしぶしぶ頷いて、のろのろと椅子から立ち上がった。



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