data53:夏がすぎれば秋がくる
────,53
会議が終わってもソーヤはオフィスに戻ってこなかった。
倒れたわけではないらしい。
ただあまりにも顔色が悪いのをサイネとニノリに見とがめられ、同席していた職員も彼らに同意したものだから、半ば無理やりに医務部に連れていかれたのだ。
そして事実、彼は発熱していた。
ヒナトたちが連絡を受けて駆け付けたころにはもう、ソーヤは病室のベッドの上で意識を失っていたので、何も話すことができなかった。
それどころか病室内に入れてすらもらえない。
飛び込もうとしたヒナトの腕を掴んで止めたのはリクウで、彼はただ静かに首を振った。
「離してください!」
「ダメだ。……今夜一晩は安静にさせなきゃならん」
「でもっ」
ただ傍にいたいだけなのに、リクウは頷いてくれない。
「ソーヤさん……」
戸口から彼の名前を呼んだが、返事はない。身じろぎひとつしない。
意識がないのだから当たり前だけれど、それがヒナトには耐えがたく辛かった。
泣き崩れそうになる身体を誰かが隣で支えてくれている。
ミチルはありえないからワタリだろうが、それを確認することすらできないほど悄然としていたヒナトは、そのまま引きずられるようにして医務部から出された。
そこからどうやって自室に戻ったのか覚えていない。
夕食や風呂の記憶も曖昧だが、たぶん誰かが気を遣ってくれたのだろう、気付けばちゃんと寝間着を着て翌日の朝を迎えていた。
眼を開けた瞬間かすかに痛みを感じるほど目の周りが腫れている。
のろのろと起き出したヒナトは、針金のようにこわばった身体を無理やり制服に通して、冷たい水で顔を洗った。
それから食堂に降りて、砂を詰めたように重たい胃へ事務的に朝食を流し込む。
頭なんてほとんど動いていない。
身体だけ機械的に『いつもどおり』を演じているだけで、ヒナトの眼は何も見ていないし、誰の声も聞いていない。
たぶんそれは無意識のうちに心を守ろうとする行動でもあった──今はどこを見たってソーヤの姿はないし、どれほど耳をそばだててもソーヤの声は聞こえないのだから。
わかっていても、オフィスに彼がいないのは辛い。
始業時間ぎりぎりに部屋に入ってきたヒナトのことを、優しく責めてくれる声がないのは寂しい。
「おはよう」
「……おはようございます」
心なしか、ワタリの表情も暗い気がした。
「ソーヤのことなんだけど、ひとまず熱は下がったらしい。とりあえず今日一日はようすを見るから休みだって」
「あ、……じゃあ意識は戻ったんですか?」
「うん」
「よかった……!」
「……、うん」
どこか噛み締めるように頷いて、ワタリはコンピュータに向き直る。
ヒナトも自分の席に座った。
隣のミチルはすでに作業を始めていて、ソーヤの体調やそれに対するヒナトやワタリの反応については興味などなさそうだ。
どうしてそんなに冷静でいられるんだろうと、ヒナトは不思議に思った。
第一班に配属になってからまだ日が浅いせいかもしれないが、それでも自分だってソアなのだから、アマランス疾患に関しては彼女にだって起こりえることだろうに。
ある意味その冷静さが羨ましくもある。
ヒナトはいちいち色んなことに大げさに驚きすぎてしまうし、ことにソーヤに関しては喜びにしても悲しみにしても感情が大きく揺り動かされるので、自分でもたまに疲れることがあるくらいだ。
喜びが大きいだけならよかったのに。
歯噛みしつつ、コンピュータを操作する。
ヒナトはみんなのように賢く作られたソアではないが、たとえ無能と罵られようと、少しでも業務の手伝いをしなければならない。
なぜなら午後には確実に休憩時間を設けて、ソーヤに会いにいかねばならないからだ。
目標があるとがんばれるような気がする。
闇雲に走ろうとしてもすぐ転んでしまうけれど、その先に大好きな人がいるのなら、立ち上がれる。
(だって、あたしはソーヤさんの秘書だもん)
自分がみんなと違っても、ヒナトの存在意義を定めてくれたのはソーヤなのだ。
彼がヒナトにこの肩書きをくれた。
それだけで充分すぎるから、他には何もなくたっていい。
・・・・・+
満を持して会いに行ったところで、まあ予想はできたが、楽しい結果にはなるはずもなく。
ベッドの上でたいそうご機嫌を損ねているのが明らかな班長様を見て、思わずヒナトは苦笑してしまいそうになる。
とにかく具合はとりあえず持ち直したらしいのでほっとした。
朝からあれこれ検査だらけで大変だったらしい。
あーだこーだと愚痴混じりに今後のことを話してくれるので、ヒナトはせっせとメモをとる。
ちなみに一緒に来たのはワタリだけで、ミチルの姿はここにはない。
「……まあそういうわけだから、明日からも三人でどうにかやれ」
残念な宣告もひとつあった。
ソーヤの疾患が進行してしまっているのは明らかで、今日からしばらく医務部にいなければならなくなってしまったというのだ。
オフィスに出られるのは午後からで、それも体調によっては毎日ではないかもしれない。
「そんなぁ……しばらくって、いつまでなんですか」
「さあな。とりあえず二、三日ってわけじゃねえのは確かだろ。下手すると……いや」
言いかけたその先をソーヤは噤んでしまったけれど、言わなくてもわかる。
わかるから、ヒナトもワタリもそれ以上何も言わなかった。
そう、ヒナトにだって、わかる。
ソーヤが精一杯いつものような調子で話して、まるで大したことではないかのように振る舞っているのだということが。
ほんとうはこれが差し迫った状況で、もう猶予が残り少ないかもしれない、ヒナトがいちばん恐れていることが近づいているのかもしれないと、わかっている。
だけどそれを口にしたら壊れてしまうから、飲み込んでいる。
たぶんヒナトだけでなくワタリもそうだ。
なぜなら彼の手はさっきからずっと、脚の横できつく握られて、静かに震えている。
「引継ぎとか確認したいことがいろいろあるから、またあとで来るよ」
「ああ。
──ヒナも、なんかあったら来いよ」
「はい」
ヒナトは頷く。
心臓の後ろ側がつきりと痛んだのを、ぐっと押し殺しながら。
ほんとうはここから出ていきたくない。
ずっとソーヤの隣にいて、なんでもいいから彼のために何かをしたい、どんな理由でもいいから傍にいたい。
叱られてもいいから彼の声を聞いていたいし、彼の眼を見つめていたい。
心の中では、ヒナトはずっとそう叫んでいた。
でも実際には何一つ口にしないのは、わかっているからだ。
縋りついて泣き叫べば済むのならいくらでも涙を流すけれど、今は泣いても怒っても事態が好転することは絶対にないのだ、ということだけは。
そして、もう、知っている。
彼のためにヒナトができることが何なのかを。
病室を後にしてオフィスに戻る道すがら、ヒナトはワタリに話しかけた。
「あの、あたし、ワタリさんにお願いがあるんです」
「うん?」
そのときふと副官の少年を見て、なんて細い肩だろうと思った。
今日から班長の代理という新しい職務を背負わなくてはならないというのに、いつもならもっと頼りに感じられるはずのワタリの両肩は、今はわずかな責で簡単に折れてしまいそうなほどか弱く見えた。
「ミチルと仲良くするの、手伝ってください」
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