data50:砕け散った鏡の破片
────,50
ミチルはずっと暗闇で暮らしていた。
もちろんそれは比喩であって、文字どおりの意味ではない。
だが、ある意味では字面どおりに捉えても間違いではないのかもしれない。
なぜなら十一階には窓がなくて、自然の光は差し込まないからだ。
オフィス棟の最上階が封印されたのはそもそもミチルが生まれるずっと前で、昔はそこで、今の花園では考えられないような残酷な実験をしていたという。
詳細は知らないが、知りたくもない。
とにかく何代も前の所長によって方針が大きく変わり、それで忌まわしい記憶と過去が、部屋ごと塗りこめられたそうだ。
しかし封印は完全なものではなく、出入りする方法はわずかに残されていた。
そして上層部の極一部だけがその権限を手にし、秘密の番人として、長いことそこを守り続けていたらしい。
そして秘密の部屋が、数年前に再び開かれた。
ヒナトが目覚め、彼女が表舞台に出てしまったことにより、代わりにミチルが闇の中に押し込められたのだ。
まるで初めからミチルが存在しなかったかのように、ミチルがいるはずだった場所や肩書きはすべて彼女に奪われた。
どうしてそんなことが行われたのかミチルには理解できなかった。
声を荒げて尋ねるたび、花園はいつもこう答えた──安定するまでもうしばらく待ってほしい、と。
何が?
誰が?
それはいつ?
詳しいことはほとんど教えてもらえなかった。
あるいは説明されたところでミチルには到底理解できないものだった。
だから、わかるのはふたりの人間が関わっているらしいということだけ。
ソーヤと、ヒナト。
それがミチルの地獄の門を封じている看守たちの名前だった。
「なんであたしが……あたしだけ、こんな目に遭うの……?」
ここは暗くて、じめじめして埃っぽいうえに、かすかに血の臭いが残っている。
灯りを消せばいるはずのない何者かの気配が蠢いているような気がしてならなかったし、時には耳元で囁かれる声も聞いた。
それが超常現象の類だったのか、それとも精神的に追い詰められた結果得た幻覚だったかはわからない。
もし生まれてからずっとここにいたのなら諦めもついただろうか。
でも、ミチルはガーデンの温かな明るさを知って育ってしまったから、冷たい暗闇を恐れてしまう。
ミチルはふつうのソアだった。
他の子と同じように暮らしていただけだった。
こんな罰を受けなければならないような失態はしていないはずなのに、どうして閉じ込められてしまったのだろう。
悪いことなんて何もしていない。
では、もしミチルが悪くないのなら、いったいこれは誰の罰?
「それならどうしてあたしなの。……誰がやったの」
尋ねる相手もいないまま呟いた言葉に、思わぬ返答がある。
「……僕のせいだよ」
顔を上げると、そこには見知らぬ人が立っていた。
片方の眼を四角い布で覆っているのが印象的で、逆に言えばそれ以外にあまり特徴のない、穏やかな風貌の少年だった。
申し訳なさそうな声音でそう言った彼は、のろのろとミチルの前に歩いてくる。
「誰?」
「検体番号1699番。……名前はワタリ」
「せんろっぴゃく……つまり上の代のソアってこと? なんでソアがここに入れるの?」
「権限があるわけじゃない。扉の開けかたを調べただけだ」
ワタリはそのまま腰を下ろした。
たったひとつしかない空色の眼が、じっとミチルを見つめるので、ミチルは少し戸惑った。
空なんてもうしばらく見ていない。
この部屋には、窓がないから。
今日の天気さえ知らないし、それどころか何月何日なのか、季節が夏か冬かもわからない。
「ごめんね」
ワタリはそう、泣きそうな声で告げて、頭を下げる。
「ぜんぶ僕が悪いんだ。きみがこんなことになったのも、ソーヤがああなったのも、ヒナトのこともぜんぶ、原因を作ったのはこの僕だ」
「原因って」
「そもそも僕が生まれたのが間違いなんだ」
少年はそうしてわけのわからないことをあれこれ喚きながら、ミチルに謝罪した──しているつもりらしかった。
ミチルはそもそも彼の言うことがほとんど理解できなかったので、許すとか許さないとかの感情以前に、まず彼が何を言いたくてここに来たのかをきちんと知りたかった。
幸か不幸か、彼が落ち着くまで職員たちは来なかった。
後から思えば権限もなしにこの秘密の部屋に侵入を試みたくらいなのだから、ワタリは事前にセンサーの類をすべて遮断していたのだろう。
ようやく静かになったワタリから、ミチルはいろんな話を聞いた。
今の花園のこと。
ソーヤとヒナトがGHにいること、そこで彼らが第一班の班長と秘書として暮らしていること。
職員たちが言っていた『安定するまで』の意味もそれでようやくわかった。
きっかけは植木鉢の不具合で、ソーヤの長期休眠が中途半端なところで阻害されたことだ。
それが原因で記憶障害を発症した彼は、他のソアとの関係を一から再構築しなければならなくなり、その精神的ストレスによりアマランス疾患が同期に比べて早く進行してしまった。
そして傍にいたヒナトが『標的』化したため、彼の心身が安定するまで彼らを引き離すわけにはいかなくなってしまったのだ。
けれども花園はミチルとヒナトのことをソアには公表していない。
同じ顔の人間が急に現れたらソアたちが混乱するだろうし、それでソーヤに続いて第二ステージに上がってしまう者が現れるのを避けるため、ミチルを隔離する策を取ったのだという。
つまり他の複数のソアを優先して、ミチルひとりにすべてのしわ寄せがなされたのだ。
ミチルは愕然とした。
自分は切り捨てられたも同然だったのだ。
ソーヤとその同期たちを守るための、人柱にされたのだ。
しかもそれだけではない。
ヒナトの存在がミチルの人生を狂わせている。
見ず知らずの彼女がどういう存在であるのかをワタリに聞かされて、ミチルは耐えきれずに胃の中身を床にぶちまけた。
信じがたいことにヒナトはもうひとりのミチルだった。
同じ細胞と遺伝子を分かち合い、違いといえばアマランス処理を受けたかどうかだけ、それ以外は同じゲノムを抱えて生まれた生物だというのだ。
それまで名前しか知らなかった相手に、ミチルは言いようのない嫌悪を覚えた。
よりにもよって自分にそんなものを作っていた花園にも。
気持ちが悪い、おぞましい──その怒りにも似た忌避感情は、この部屋が抱えていた不気味で血なまぐさい過去の気配を忘れ去るのに充分なほどだった。
「あたしがもうひとりいるの?」
「いや、厳密には別の人間だ。きみと同じってわけじゃない」
「……どれくらい似てる?」
「見た目はほとんど同じかな……」
ミチルが産声を上げたときは唯一無二の存在だったはずだ。
厳密にはヒナトも存在していたようだが、そしてある意味ではミチルもヒナトの一種と言えるようだけれども、意識を持って生まれたのはこのミチルただひとりだ。
それがあるべき形であって、ヒナトは目覚めるべきではなかった。
自我も感情も記憶も何も持たずに、ヒトの形をした資源として、植木鉢の中で永遠に眠り続けているべきだったのだ。
それが花園の方針であったはずだし、ミチルは今もそう信じている。
そもそもヒナトが造られなければ。
せめてヒナトが目覚めなければ。
ミチルがこんな目に遭うことはなかった。
……そうしたらワタリとこんな出逢いかたをしなくてもよかった。
彼のことが憎くないと言えば決してそんなことはないのに、最初に必死で謝られたからか、その際彼が口走った悲観的な言葉のせいか、ミチルにはワタリをそこまで憎みきれない部分がある。
彼のしでかしたことは許されないが、彼にそうさせたのも花園だ。
「ワタリ、あたしをここから出して」
「……それはできないよ」
「なんで!? 悪いと思ってるなら、まずこの状況をなんとかしてよ!」
「できないよ……」
同時にワタリのことがひどく憎い部分もある。
彼はミチルに謝ったり慰めたりするけれど、手を貸してはくれないのだ。
「今きみが出て行ったら騒ぎになる。それこそ死人だって出かねないだろう。
とてもじゃないけど、僕ひとりじゃ責任をとりきれない」
「……あんた、誰の味方なの」
「誰の味方でもない。僕はただの悪者さ」
たぶん、彼自身が憎まれたがっている。
だからそんな言いかたをする。
わかっているから、腹立たしいと同時に悲しくて、ミチルはそれらの感情を呑み込んだ。
苦くて辛くて、不味かった。
また吐きそうになりながらも喉を押えて、喘ぐように言う。
「ならせめて、またここに来て、下のことをあたしに教えて。他の連中が、あたしのことを知らないで、どんなにのうのうと暮らしてるかを」
「それを聞いて、きみはどうする?」
「恨むの」
恨んで憎んで妬んで嫉んで僻んで、その熱量をもってこの部屋を出るのだ。
ミチルは誓った。
そしてワタリもこの取引を受け入れ、何度かこの部屋を訪れた。
たまには部屋を抜け出せるようにもなった。
そして一度はヒナトに会うこともできた。
あまりにそっくりなのでぞっとしたが、相手のほうがもっと驚いて怯えていたので、どこか滑稽でもあった。
もっと怖がって苦しめばいい。
ミチルはその何倍も辛くて悲しい思いをしているのだから。
「……みんな敵だ」
ミチルを閉じ込めたラボの連中は敵だ。
そして何も知らないで明るい場所で暮らしているソアも全員ミチルの敵だ。
ソーヤはある意味被害者だが、よりによってヒナトに依存したことが罪にあたるのでミチルの敵だ。
あまり助けてくれないワタリも、そもそも大元の原因を作った張本人だから敵だ。
そして何よりヒナト、ミチルの存在ごと脅かすおぞましい存在、あいつこそが最大の敵だ。
ミチルは彼らを憎む。
それでどんなに精神が疲弊したとしても、憎まずにはいられない。
その憎悪を糧に生きている、ある意味これもラボがいうところの『標的』なのかもしれない。
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