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data46:ゆがんだ鏡、ひずんだ記憶

 ────,46



 ヒナトの苦難の日々が始まろうとしていた。

 恐れていたミチルの襲撃がついに実現してしまったのもそうだが、その方法というのがヒナトの予想をはるかに超えていたからだ。


 端的に言えば、ミチルがヒナトと似ているのは外見だけだった。

 つまり彼女は物覚えがよく、教えられた操作や与えられた作業をすんなりこなし、しかも動きに無駄がなくてきぱきとしている。

 当然つまらないミスや班員の笑いを誘うようなドジなどもしない、有能な人材だったのである。


 いつに間にかヒナトの仕事は彼女にすっかり奪われていた。

 もともと大したことはしてなかったとはいえ、彼女の肩書きはあくまで『書記』とかいう聞いたことのないものなのに、なぜかミチルは当たり前のような顔をしてお茶汲みを宣言している。


 もう敵うところが何一つないことを感じ取っていたヒナトは呆然としてそれを見ていたが、そこで誰かが喝を入れるように背中を軽く叩いた。


「ぼさっとしてねーでヒナもついてってやれ。さすがに一発じゃできねえだろ」


 ソーヤだった。

 紅の瞳がじっとこちらを見つめていて、何か言いたげな眼差しに少しどきりとしながら、ヒナトは黙ったまま頷く。

 正直ミチルとふたりきりになるのは嫌だったけれど、ソーヤがそう言うなら仕方がない。


 彼と眼を合わせるのをやたら久しぶりのように感じるのは、さっきまでずっと間にミチルがいたからだろう。

 じつのところ彼女が怖くてヒナトはそちらを見ることすらできなかったのだ。


「必要ないです。ひとりでできます」

「そういうわけにはいかないよ。第一班(うち)には第一班(うち)の味があるんだ、それを覚えてもらうにはヒナトちゃんに習わないとね」


 にっこり笑ってそう言ったのはワタリで、対するミチルは彼をじろりと睨むような目つきで見たが、何も言い返さなかった。


 というわけで、ヒナトとミチルは連れ立ってオフィスを出る。

 当たり前だが廊下には誰もおらず、開幕一秒目からもう逃げ出したいような威圧感がすぐ横から発せられているのを、ヒナトはくちびるを噛み締めて耐えた。


 幸か不幸かミチルはずっと黙っていた。

 沈黙は気まずいものの、それでも不用意に口撃されるよりは何倍もマシであろう。

 まだ何も言われていないしされてもいないが、すでにヒナトの胃はしくしくと痛み始めていたので、このうえ何かあったら本気で逃げ出しかねなかった。


 無言のそっくりさんズは連れ立って階段を下り、給湯室に向かう。

 いつもと同じ道順なのに今日はなぜだか遠く感じた。


 そしてようやく着いたはいいが、扉を開いた瞬間ヒナトの心臓は止まりかけた。


 なぜならそこに先日からひそかに避けている相手、つまりはタニラがいたからである。

 前方のタニラ、後方のミチル──まさに前門の虎後門の狼といった風情──もはやヒナトの胃も完全に終わってしまうかもしれない。

 もう捩じ切れそう。


 泣き出していないのが奇跡なくらいだったが、タニラのほうもかなり驚いていた。

 もちろんミチルのことを知らなかったからである。


「え、す……すごい……そっくり……」

「しょ、紹介します、あの……今日からうちの、第一班の……書記っていうのになった……」

「ミチルです。よろしく」


 対するミチルは堂々とした態度でヒナトを押しのけ、タニラと握手を交わす。


「あなたは第二班の秘書ですね。名前はたしかタニラさん、でしたっけ?」

「え、ええ。あの……あなたもソアなの?」

「そうです。そこのポンコツとは違うから安心してください」

「ぽん……」


 初めて言われた言葉だな、とヒナトは思った。

 意味は知らなかったが間抜けな響きとミチルの口調からして、貶されているのだということはわかる。


「そうだタニラさん、よかったらお茶の淹れかたを教えてもらえませんか?」

「え? でも」

「だってこの人に習うとかありえないじゃないですか。

 あたし、一応少しは練習してきたんですけど、やっぱり他人が飲むものだし、独学だけじゃ不安で。

 でも教わるならちゃんとした人がいいんです」


 もう、言いたい放題である。

 ヒナトは口を挟む気にもならなかったので、どうしようかという視線を送ってきたタニラに対し、静かに頷くことにした。

 下手にトラブルになってソーヤたちに迷惑がかかっても嫌だし、それならヒナトが我慢するしかないだろう。


 ヒナトが止めないのを悟ったタニラは、まだ少し戸惑っているようすながらも、ミチルにひととおりのお茶汲みを指導してくれた。

 やはりなんだかんだで親切な人なのだ。


 ……先日の夜の恐怖体験さえなければ、もっと彼女を好きになれそうなのだが。


 あれはいったい何だったのだろう。

 今はふつうに見えるけれど、だからこそあのときとの差が激しすぎて怖い。

 とてもじゃないが尋ねられる気がしないし、向こうはヒナトがいたことに気付いていなかったようなので、今後もこの件については黙っていようと思う。


「ふむふむ、なるほど……。ありがとうございました」

「いえいえ。ところで書記って初めて聞く役職だけど、秘書と似たような仕事なのね」

「さあ? 具体的に何をしろとは言われてないんですけどね。この人の仕事に手落ちが多すぎるんで、結果的に尻ぬぐいしてるだけです」

「……そ、そう……。あ、それじゃ私、もう行くね」


 タニラは苦笑を隠さずにそう言って給湯室を出て行った。


 夏前の彼女だったらきっとミチルと一緒になってヒナトの悪口をいっぱい言ったのかもしれない、そう思うと彼女と和解できたのはほんとうによかった、と改めて思うヒナトであった。

 味方、とまでは呼べないかもしれないが、せめて敵は少ないほうがいい。


 一方ミチルは練習がてら淹れていたコーヒーと紅茶をカップに分けて注ぎ、四人分の飲みものを用意していた。

 コーヒーがふたつと紅茶がふたつ、そこにシュガーポットとミルクピッチャーを添えて、少なくとも見た目は完璧に仕上がっている。

 まあタニラに教えられたのだからよっぽど味も問題はないだろう。


 ……いやちょっと待って。


「ミチル、あの、あたしいつもココアも作ってるんだけど……」

「だから?」

「だ、だからって……その、えっと、ココアの作りかたも覚えたほうが……」


 べつにココアが飲みたかったわけではない。

 いやこの悲惨な心境を慰めるためにはぜひともココアが欲しいけれど、そういう意味じゃない。


 ワタリは第一班の味を覚えろと言った。

 コーヒーと紅茶に関してはヒナトもタニラに習ったのでこれで問題ないが、ココアだけはもともとヒナトが得意としていた、数少ない『誰にも教わらずに上手にできたこと』なのだ。

 そして毎回必ず三種類とも用意するのが第一班の秘書、すなわちヒナトの流儀である。


「作りかた? 牛乳に適量溶かす以外に何があるわけ?

 だいたいもうコーヒーと紅茶が人数分あるのに、このうえココアなんか要らない。

 その程度の判断もできないとか、あんたの存在ごと必要ないんじゃない?」


 ぴしゃりと言い捨てて、ミチルは出て行った。


 そこでヒナトが給湯室に残ったのは、決して自分のためにココアを作るためでもなく、そしてミチルと距離を置きたかったからでもない。

 ただただ驚いていた。

 まさかココアに絡めて存在否定までされるとは思っていなかったものだから、突然の暴言に、傷つくよりも先にびっくりしてしまって呑み込むのに時間がかかったのだ。


 とにかくミチルの向けてくる感情が刺々しくて、一体何をすればここまで嫌われるのかと不思議にすら思う。

 だいいち彼女に何もした覚えがないのに──そこまで考えてふと、今さらなことを思い出す。


 覚えがないもなにも、そもそもヒナトは眠りの前の記憶をなくしているのだった。


(もしかしてガーデン時代にあの子に会ってる? 知り合いだった?)


 可能性はある、というか、むしろそれ以外に考えられない。

 見たところ同じくらいの歳なのだし、たぶん彼女とヒナトはガーデンで一緒に育ったのだろう。

 そこで何かひどい喧嘩をしたまま別れてしまったのかもしれない。


 そこまで考えて、ヒナトは給湯室を飛び出した。

 もう頭を動かすよりも先に身体のほうが走り出してしまったのだ、廊下を走ってはいけないことは知っているが、ミチルがオフィスに着く前に追いつきたかった。



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