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data42:夢から醒めても恋は冷めない、たぶん

 ────,42



 翌朝、無事に寝坊してオフィスにも遅刻したヒナトは、ソーヤにがっつり怒られた。


 あのあとタニラが諦めて部屋に戻るまで数十分は階段に潜まねばならず、ようやく自室に戻ってからもしばらく悪い意味で胸がドキドキして眠れなかったのだ。

 天体観測の楽しい思い出がぜんぶぶち壊しになるくらいの壮絶な経験になった。


 それからいつの間にか気絶するように眠っていたのはいいが、爆睡しすぎて目覚ましの音が聞こえなかったため起きられず。

 何度目かのスヌーズ音でようやく目覚めたころには朝食の時間も終わりがけで、跳ね起きて寝癖頭のまま食堂に駆け込み、まともに味わうこともできずにシリアルをかっ込むのが精いっぱいだった。

 それでオフィスまで突っ走ってきたものの、間に合うはずもない。


 そんなヒナトの事情などソーヤには知る由もないとはいえ、そもそも夜に部屋から連れ出した張本人なのに、こんなにちくちく叱ることないんじゃないか。

 なんてつい思ってしまって、ヒナトは溜息を吐いた。


「……おいちゃんと聞いてるか?」

「あ、ごめんなさい……でもお説教は聞いてますっ」


 ソーヤはふんと鼻を鳴らし、とにかく次から気をつけろよ、と言ってひとまずお小言は終いになった。


 昨日はあんなに優しかったのに別人のようだ。

 それともやっぱりあれはヒナトの夢だったのかと思ったが、それなら今朝寝坊してしまった理由がわからなくなる。


 タニラの異常な姿をはっきりと覚えているし、正直どんな悪夢よりも怖かった。

 だからある意味寝坊してよかったとすら思っている。

 もしも朝食の席で彼女と顔を合わせていたらどうなっていたか、考えただけでもぞっとする。


 とりあえず、ほとぼりが冷めるまではタニラに合わないように気をつけ──


「──ところでヒナトちゃん、これ二班に持っていってくれるかな」


 よう、と思った直後にワタリがこんなことを言ってきたので、ヒナトはついつい剣呑な顔で彼のほうを見てしまった。

 ワタリは手にファイルを持ったまま、ヒナトの穏やかでない顔にちょっと驚いたふうである。


「なんですかそれ」

「何って回覧用の業務記録だよ。僕が毎月書いてるやつ……前にも頼んだよね?」

「そ、……そうでしたね」


 そうなのである。

 班長は会議、秘書は雑用で副官がもっぱらオフィスの業務を回しているというのがGHの基本形態なのだが、副官はさらに何か書類を書かされているのである。

 いや書類自体は副官に限った話ではないのだが、副官のこれに関してはなぜかラボに提出する前に他の班にも見せなくてはならないらしい。


 で、一班の次の回覧先はもちろん二班なのだった。

 つまりは今ヒナトがもっとも恐れているあのタニラがいるオフィスにまさかのおつかいを頼まれてしまったのである。


 断れるわけがない。

 正直に事情を言えばわかってくれるかもしれないが、それにはまずソーヤと夜間屋上に行ったことから話さなくてはならないだろう。


 つまりは就寝時間を守らず自室を抜けだしたことを認めるわけで、しかもヒナトだけでなくソーヤまでも規則を破ったことをバラしてしまうし、もしそれをワタリがラボに密告してしまったらと思うと気が引ける。

 ワタリがそんなことをするとは思えないけれど、勝手に話すわけにもいかないだろう。


 どうしようか悩んでソーヤを見ると、班長は怪訝な顔をした。


「……なんだよ?」

「ゆ、昨夜のこと、なんですけど……」

「ちょっと待て。……戻ってきてから聞いてやるから、とりあえずさっさと行ってこい」


 それじゃ意味がないんですが、と言いたいのはやまやまだったがヒナトは黙った。

 ソーヤの命令には逆らえないのだ。

 自分でもちょっと弱すぎるんじゃないかとたまに思うことがある。


 もしかするとこれが世間がいうところの『惚れた弱み』ってやつなんだろうか。

 ……いや、第一班に配属になった日からずっとこうだったのだから、単にヒナトの意思が弱いだけだろう。


 どうか何もないことを祈りつつ、震える足で廊下を歩く。


 大した距離ではない。ちょっと歩いて階段を下りれば、すぐに第二班のドアが見える。

 すりガラスのせいでドアを閉めたまま中のようすは窺えない。


 恐る恐るノックすると、はい、という落ち着いた声が返ってきたが、それがタニラの声ではなかったことにヒナトはひどく安堵した。


「さ……サイネちゃん。あれ、あの、タニラさんは?」

「ちょうどお茶淹れに行ってるとこだけど。何、あの子に用?」

「ああいやべつにそういうわけじゃない、なくて」


 挙動のおかしいヒナトに、応対したサイネは不審なものを見る眼をしている。

 もともと眼光が鋭いのでちょっと怖いが、それでも今はタニラに会うよりはずっと何倍もましだ。


 腕組みしているサイネの背後では、ユウラがすごい勢いで仕事をしているのが見える。


 ともかく早く帰りたい。

 タニラが戻ってくる前に一刻も早くここを離れたかったヒナトは、半ば押し付けるようにしてサイネにファイルを手渡すと、逃げるように二班オフィスを後にした……かった。

 のだが、ちょっと待って、という無慈悲な言葉がヒナトの肩を掴む。


 ぐぎぎという歪な効果音が聞こえそうなほど、あからさまにぎこちない動作で振り向いた。

 そんなヒナトを見てどこか呆れたような調子でサイネが言う。


「私ら今日は午前業務にするから、ソーヤに伝えといて」

「あ、うん、わかった。……いや、()()ってどういうこと?」

「そのままの意味。やることさえ終われば早めに切り上げられる。もちろんラボには言わないけど」


 だからほら、とサイネが示したのはユウラの姿。

 真剣な表情でコンピュータに向かい、淀みない動きでキーボードを叩く彼に、こちらの会話はまったく聞こえていなさそうだった。


「じゃあそういうことだから、よろしく」


 ヒナトから受け取ったファイルをラックに入れ、サイネも席に着いた。

 そして一秒後にはユウラと同じく超高速で業務の処理を始めたので、その切り替えの早さと作業スピードにヒナトはしばし唖然として彼らを眺めてしまう。


 前にワタリが一日で二人分の作業を請け負ったときと同じか、それよりすごいかもしれない。

 これがソアの本気かと圧倒されてしまう。

 それと同時に、ほんとうにヒナトも彼らと同じ人種なのかという疑問が改めて浮かび、もう擁護の言葉も思考もすべて消し飛んでしまった。


 もしかしたら軽く一分くらい立ち尽くしていたかもしれないが、サイネもユウラもそんなヒナトにまったく構う気配はなかった。


 そしてヒナトも我に返り、こうしている場合ではないと思い出す。

 タニラが帰ってくる前にここを去らなければいけないのだ。

 今度こそ二班オフィスから逃げるように出たヒナトを誰も引き留めなかったので、そのまま大急ぎで四階に戻った。




 ・・・・・*




 最後のキーを押した相棒が、深く長い息を吐いた。

 そうして空になった肺をもう一度膨らませるのを横目で見、コーヒーの残りを飲み干して、サイネも最後の一行を書き上げる。


 反対側では朝からいやに静かな秘書が、まともな速度で地道にこつこつと作業を進めていた。


「……最短記録が出たんじゃないか」

「かもね。ご苦労さま」

「ラボにデータがあれば比較できるが……いや、しなくていいか」


 珍しくユウラが自分の発言に自分でツッコミなんて入れている。

 これは相当疲れているなと判断し、サイネは彼がまったく手をつけていない紅茶のカップをその目の前に差し出してやった。

 出かける前に少し休憩させてやらなければ。


 ヒナトにも言ったとおり、本来なら今日は終日オフィスに詰めて作業しなければならないことになっている。

 それを無理やり半日で規定量を終わらせて、空いた時間を『幻の十一階』の捜索に充てるために、ユウラと自分とで午前中からいつもの倍速で作業したのだ。


 さすがにサイネも疲れたので、身体を伸ばして脳を休ませることにする。


「タニラ、わかってると思うけど、私らの分は適当に時間ズラして送っといて」

「わかった」

「……そういえば顔色悪いみたいだけど大丈夫?」

「昨日なかなか寝つけなくて……私もちょっとだけ、仮眠しちゃおうかな」

「そうね、たまにはいいんじゃない」


 ユウラが紅茶を飲み終えたのを確認し、サイネは立ち上がった。



 まずはオフィス棟十階のガサ入れである。


 二班オフィスがあるのは同棟の三階なので七階分の距離があるが、道中ラボの職員に見つかっては困るので、一度連絡通路を使って生活棟に移動する。

 連絡通路は八階にもあり、生活棟側はラボの宿舎となっているため日中はほとんど人がいない。

 夜勤の職員もこの時間ならまだ寝ているだろう。


 生活棟のエレベーターで八階まで上がってから、ふたたびオフィス棟に戻り、職員たちの眼を盗みつつ階段で十階に上がる。

 予め近辺の警備システムは調べてあるが、どうやらこの部屋にセンサーの類はないらしい。


 名目上は物置なのだから必要がないといえば当然だ。

 同時にまるで、そこに潜む何者かの痕跡を残したくないのでないか、という邪推をサイネにさせる。


 しかし期待とは裏腹に、十階はやはり物置にすぎなかった。


 雑然と置かれた古い機材やらデスクやらには分厚い埃が積もっていて、最近ここに誰の出入りもなかったのは一目瞭然だ。

 もしここに十一階への入り口が隠されていて、なおかつそこにヒナトのクローンが潜んでいたとしたら、足跡なりなんなりが必ず残る。

 それが見当たらないということは、答えはノー、何もなし。


 機材の類も電源がなければただの鉄の塊で、そこから情報を引き出すことはできない。

 多少は紙媒体の資料もあったものの、他ののものと同じく埃にまみれて薄汚れたその中身は、昔のソアの製造データなどこれといって目ぼしいものではなかった。

 アマランス疾患についての記載も見当たらない。


「ダメか。なんにも収穫なしはちょっとつまんないな」

「何もない、はある意味収穫ではあるだろう。つまりここには何もなかったわけだから」

「回りくどい言いかた」


 言いながら天井を見上げる。

 ほんとうにそこにもうひとつ部屋があるのなら、どうやって入ればいい。


 階段は完全に途切れており、封鎖した跡はない。

 もし完全に塗りこめてしまったのなら開けるのには壁を壊す必要があり、それには相応の道具と時間が必要になるので、こっそり調べるというわけにはいかないだろう。

 さすがに確証もなくそこまでの行動はサイネもしようと思わない。


「……どうする? まだ時間はあるが」

「とりあえず出ましょ。埃が多すぎて肺の病気になりそう」



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