data37:ねじれてからまる線と糸
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ヒナトのようすが変だ。
わりといつも何かしら変ではあるが、またさらに今までとは異なる意味でおかしい。
そして、そんなことを考えてしまうあたり、ソーヤもどこかおかしいのかもしれない、と思っている。
ただの班長と班員の関係であれこれ気にしすぎではないか。
いやしかし、そうはいってもやはり毎日同じ部屋で顔をつき合わせるのには違いないのだし、そのあたりの管理もまた班長の職務に含まれるのではないか。
その線引きをどこですればいいのか、最近のソーヤは見失っている。
とにかくヒナトがずっと落ち込んでいるのは確かなようだ。
少なくともここ最近、ソーヤの眼にはそう見えていた。
解放日の前ごろはその準備で楽しそうにしていたが、やはりまだコータとフーシャのことを引きずっているのだろう。
折に触れて彼らのことを思い出してしまうのかもしれない。
あるいは外出先で、何かふたりを連想するようなものでも目にしたのか。
ぼんやり考えこんでいると、そのうち他のソアが食堂に集まってきた。
もうそんな時間か、と顔を上げたところでタニラとエイワがこちらに向かってくるのが見える。
ちなみにソーヤは結局まだエイワにほんとうのことを話していない。
なんやかんだでGHについての話ばかりしているので、それほど過去に想いを馳せるような場面もなく、あっても適当に相槌を打つ程度で済んでいた。
タニラが気を遣ってくれているのもあって、まだバレそうな気配はない。
だからといってこのまま騙しとおすのは無理だろう。
できればふたりだけで話し合える機会を作りたいのだが、皮肉にもそれを妨害しているのもまたタニラだった。
むろん彼女に悪気はない。
ただソーヤを慮っているだけだ。
「ソーヤくん先に来てたのね」
「それなら一言言ってけよなー、探したんだぞ」
「あ、悪い」
一応軽く謝っておいたが、エイワは怒るどころかむしろ嬉しそうに見えた。
ふたりが席に着くのをよそにソーヤはあたりを見回す。
ラボの職員が何人かいる。
それからサイネ、アツキ、ユウラ、ニノリと、ひとり少し遅れてきたワタリ……はいいとして、肝心のヒナトの姿が見当たらない。
配膳が始まり、それを受け取るための列ができてもその中に彼女はいない。
夕食は人数分用意されているので多少遅れても食べ損ねることはないが、時間は決まっているのだから、あまり遅くなると食べる時間がなくなってしまう。
どうにも気になったのでドアを睨んだ。
しかしいつまでたってもそこが開く気配はない。
そのうちドアと時計を交互に見やり、何分経ったら迎えに行こうかと考えているソーヤがいた。
「……ヤくん、ねえ、ソーヤくんっ」
「うん……あ、なんだ?」
「どしたの? さっきからずっとぼーっとしてて、ぜんぜん食べてないけど……」
さすがにタニラに見咎められる。
それもそうかと苦笑いしてスプーンを手に取るが、掬ったハヤシライスを口に運ぼうとして、またソーヤの眼はドアへと流れていた。
固く閉じられたままのそれを見て、どうにも解せない気持ちになる。
知らずスプーンが傾き、ハヤシライスは再び皿の上に戻った。
ぼたりと嫌な音を立てて滴り落ちたそれを見てエイワが怪訝そうな顔をする。
「おいソーヤ大丈夫か? 腹でも痛いのかよ」
「いや……」
タニラがぎょっとした表情でこちらを見たのすら気付かずに、ソーヤはなんともなしに言った。
「ヒナが来ねえなと思ってよ。……どうしたんだあいつ」
「え? あ、……確かにいないけど、ソーヤくんがそんな気にしなくても」
「むしろ夕飯の前まではいたんだよ。ここに。でも部屋戻るっつって……そんときなんかおかしかったんだよな。
あーもーダメだ、やっぱようす見てくるわ。おまえらは食ってろ」
タニラもエイワも驚いているようだったが、それには構わず立ち上がる。
というか他にどうしようもない。
このままでは気になって食事にならないのだから。
もしかするとまた何かのスイッチが入って一人で号泣しているのかもしれない。
そうでなくともようすがおかしかったのは事実で、メンタルではなく体調のほうの不良だとしたら、それはまた別の問題に繋がってくる。
なにせ外出直後だ。
何時間もかけ、嫌というほど外界の雑菌まみれの空気を浴びてきたのだから、何があってもおかしくはない。
いくら体表と呼吸器を洗浄したといってもそれで完全に菌を落とせるわけではないだろう。
ソーヤは食堂を出てエレベーターに向かいながら、考えうる非常事態とその対処のパターンを脳内で列挙し始めていた。
・・・・・*
食堂に残されたふたりはしばらくぽかんとしていた。
いや、呑気に構えていたのはエイワだけで、タニラはそうではなかったのだが、このときエイワはそこまで気付けなかった。
タニラは必ずソーヤの向かいに座る。
彼の顔を見たいからだ。
そして自分はソーヤの隣に座ることが多く、今日もそうだったので、タニラを斜め向かいに拝むことができた。
昔から彼女は同期の中でもとびぬけてかわいかったが、今なおその地位は健在だ。
それどころかなお一層美しく成長した。
今日外に出てみてわかったが、外界にも彼女を超える美貌の持ち主はいない。
その滑らかな白い肌や麗しいプラチナブロンドに触れたらどんな心地がするのだろうか。
秋の晴れ渡った空のような瞳に己を映されたらどんな気分になるのだろうか。
想像するだけでも夢を見ているようで、それらをこの世で唯一許されているソーヤという男が天狗になってしまうのも無理はないとさえ思える。
まあ、当のソーヤにその気はないようだけれど。
タニラを見ているだけで心がとろけそうになる。
願わくば、この眼球が腐り堕ちるまで見つめていたい。
けれども今日は、誰より目映く輝いているはずのタニラの顔が、嵐の前のように曇っていた。
「……ソーヤくん……」
かたちのいいくちびるが動き、去っていった男の名前を紡ぐ。
その声は朝空に響く小鳥のさえずりに似て心地よいが、今はどこか泣きそうに聞こえる。
「タニラ?」
「さっき……それじゃ……」
「おい、タニラ、大丈夫か? なあ」
心ここに在らずといったようすで何かうわごとのように呟くタニラに、エイワはそっと手を伸ばした。
ほんとうならこれほど気軽に触れていい相手ではないと思いつつも、この機をみすみす逃すほど、エイワはお人好しでも間抜けでもない。
エイワの手はスプーンを手にしたままのタニラの右手に触れた。
その瞬間タニラの肩が大げさなほどびくついて──それを見てエイワはどうしようもない罪悪感にかられた──零れ落ちた銀色の匙は、皿の上で耳障りな音を立てる。
雑音はしかし、周囲のざわめきにかき消されて思ったほどは響かない。
その瞬間、広い食堂で他のソアたちもいるというのに、なぜか隔絶された小さな空間にいるような気がした。
エイワとタニラのふたりだけ、見えない壁に包まれて周りから遠ざけられているようだった。
「……ごめん、俺」
「う、ううん大丈夫。私ったら、少しぼうっとしちゃってたのね」
気まずそうに微笑みながらスプーンを拾いなおす、タニラの白魚のようなしなやかな指。
それを眼に焼き付けながら、エイワは机の下にやった左手を強く握った。
ソーヤが戻ってくる気配はない。
ふたりはそれから、静かに食事を再開した。
いくら周りから仲が良いと言われていても、中心にいるべき男がいなければ、そこにあまり会話が弾むこともない。
あくまでソーヤが繋げた関係で、ソーヤがいなければ成り立たない。
それをよく理解しているエイワはだから、彼女の声を聞くためだけに、親友をダシにする。
「あのさ、俺が寝てる間ってソーヤのわがまま、ぜんぶタニラが聞いてやってたの?」
「わがままって……ふふっ、もう、ソーヤくんに言いつけちゃうよ?」
「それは勘弁してくれー」
やっと少し笑ってくれる。
枯野にようやく一輪の花を見つけられた蝶のように、エイワはふらふらとそれに縋る。
「でも間違っちゃないだろ。あいつ昔っから神経質っつーか、なんでも細かいし人のことにも首突っ込みたがるし、仕切りたがりなとこが……」
「それがソーヤくんのいいところだよ」
「そう真正面から褒めてやれるのはタニラだけだよ。
なんてったっけ、ヒナ? ソーヤんとこの秘書。あの子もけっこう大変そうだしさ」
ソーヤは王様みたいなやつだ、と評したエイワに笑いながら同意してくれた少女のことを思い浮かべ、なんとなしにそう言った。
言ってしまった。
それが間違いだったのだと、気づいたのもすぐだった。
その名前を聞いた瞬間にタニラの顔がこわばる。
口許にまで持ち上げていた手を下ろし、スプーンが軽く皿を叩いたのは、その肩がかすかに震えていたせいだろう。
「……どうして……私じゃダメなの……?」
零れた言葉が、白いテーブルに黒々とした影を落とす。
蒼い瞳には涙が滲んでいた。
タニラのただならぬようすに気付いたエイワは立ち上がり、そっと彼女の隣の席に移動して、一生懸命に言葉を探す。
「……ソーヤと何かあったのか? 俺でよければ話、聞くよ」
「何もないわ」
「でも」
泣きそうになってるのに、と言いそうになるエイワを遮るようにタニラは首を振った。
「……何も、ないのよ。私とソーヤくんとの間には、何も、ないの……」
そのときタニラはたぶん、笑おうとしたのだと思う。
けれど白い頬に無理やり浮かべたそれはあまりにもぎこちなくひきつっていて、エイワは生まれて初めて彼女の顔に、美しくないという感情を抱いた。
そしてそれ以上、彼女は何も語らない。
結局しばらくしてソーヤが戻ってきたときは、何ごともなかったかのように明るく振る舞い、その時点ではもういつもの美少女に戻っていた。
けれどエイワにはわかってしまった。
その美しい笑顔の下に、歪な感情が秘められていること。
彼女がそれをどんなに必死でソーヤから隠しているのかということも。
タニラが幸せそうに美しく微笑めば微笑むほどに、その裏で彼女の内側がねじれてしわくちゃになっていくことも──。
もうここに、エイワが愛した友人たちはいなかった。
いるのは糸に繰られながら、笑顔の仮面を被った人形と、何も知らない観客だけ。
エイワはそれを、知ってしまった。
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