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data36:動悸息切れ眩暈立ちくらみ

 ────,36



 せっかくの楽しい外出が、最後にとんだことになってしまった。


 帰りの車中ではアツキもサイネも黙り込んでいた。

 百貨店で談笑していたのが遥か昔のように思えてくるほど空気が沈み切っている。

 ヒナトはちらちらふたりのようすを窺いつつも、とてもじゃないが話しかけることはできなかった。


 何を言えばいいのかわからなかったし、怖かったのだ。

 別人のように冷たい態度を見せたアツキもそうだし、何を考えているのかわからないサイネに対しても、ヒナトは少しぞっとするものを感じていた。


 その悪寒はあの場にいたときより、今のほうが強くなっている。

 なぜなら頬杖をついて窓の外を眺めている彼女の、いつも物言いがきつい小さな口許が、今はかすかに笑んでいるからだ。

 その心境がまったく想像がつかなくて、それでなんだか怖かった。


 アツキのほうがまだわかる。

 同じ班の仲間としてニノリを大事にしているから、彼が知らない外の人に触られそうになって、それも嫌そうにしていたから止めずにはいられなかったのだろう。


 それにしては対応が強すぎる気もしたが、彼女もソアだ。

 ソアという人種が変わり者ぞろいなことはもうヒナトも嫌というほど理解しているので、こういうこともあるのだろう、と思えはする。

 ……怖かったけど、というか今もまだ怖いけど。


 とにかくサイネの気持ちがわからない。

 彼女とユウラは恋人同士らしいようなことを前にアツキが言っていたのに、どうして少し楽しそうなのだろう。


 そりゃあ普段の彼らの態度からすると、そういう意味で親密な間柄だとは到底思えないわけだが、それにしてもだ。

 他の女の人と一緒にいるところを見て、嫌な気分にならないものなんだろうか?

 ヒナトにはそういう相手がいないしろくに恋もしたことがないが、でもふつうに考えたら機嫌を損ねこそすれど、こうして笑ったりなんかできない気がするのだが。


 かといって「なんで楽しそうなの?」と聞けるほどヒナトは呑気ではない。

 というより、繰り返しになるが、怖いという気持ちのほうが疑問よりも強かった。



 もやもやしながら花園に帰りつき、前と同じように持ち物をすべて預ける。

 クリーニングルームで全身をくまなく洗浄されると、もやもやはますます悪化してしまい、全身にこびりつきそうな洗浄液の匂いに頭がくらくらしてくるのだった。


 ココアでも飲むか、と考えて、はたと気付く。

 前の外出時、そうしてココア片手に部屋に戻ったらそっくりさん事件が起きたのではなかったか。

 あれからもうひと月以上経っているが、あのときの衝撃はまだヒナトに根強く残っている。


 もちろんココアがなんらかの因果を司っていることなどありえないわけだが、そうは思ってもまったく同じ状況を再現するのは良くない気がしてしまい、ヒナトは悩んだ。

 しかしこの気分をどうにかするのにココアの力は必須だ。

 だからつまり、部屋に戻らずに食堂で飲めばいい、という結論に至った。


 というわけでヒナトは食堂に行き、ティーサーバーでアイスココアを淹れることにした。


 好みでミルクを足し、コップになみなみと揺れる薄茶色の液体を見つめていると、背後で扉を開ける音がした。

 振り向くとそこにいたのはソーヤだった。

 なんだか最近はオフィスの外でもよく会う気がするな、とちょっと思った。


 逆にワタリとはまったく会わないのだが、一体彼はどこで何をしているのだろうか。


 ソーヤもヒナトがいることにすぐ気づき、声をかけてくる。

 彼もサーバーでアイスコーヒーを淹れ、そのままヒナトの向かいに腰を下ろした。


「おまえ一人?」


 頷きながら、それはこっちの科白なんだけどなあ、と思う。

 タニラやエイワはどうしたのだろう。

 とくに前者がいないのはもはや奇妙にすら感じてしまい、ヒナトはそんなことを考える自分に思わず苦笑した。


 ソーヤはそんなヒナトを見て、ちょっと不思議そうな顔をする。


「外、暑かったですね。いっぱい歩いて喉乾いちゃいました」

「そうだな。今日は天気も良かったし。

 夏場は水筒くらい持たせてくれってラボに言ってんだが、今回は間に合わんかったらしい」


 確かにそれはいい提案だ。

 飲食物を買ってはいけないというなら、あらかじめ用意して持っていくしか水分補給の方法がない。

 夏じゃなくても毎回欲しいかもと思いながら相槌を打つ。


 それからしばらく、とりとめもない話をぽろぽろとした。


 ソーヤたちは初外出のエイワのために街を案内していたそうで、主に商店街のほうを回っていたとのことだった。

 まあそれを聞いたところでヒナトも街の地理はわからないのだが、身振り手振りを交えたソーヤの説明からすると、とりあえず百貨店とは別の方向らしい。

 もしかすると前回行ったメンズ服飾店がそっちの方角だったかもしれないが、確証はない。


 こちらはどうだったのかと聞かれ、ヒナトは一瞬回答に詰まる。

 ……いや、最後の騒動に触れなければいいだけの話で、それ以外の部分はちゃんと楽しかった。


「あたしは、百貨店に連れてってもらって……あ、ブローチ買ったんです。今はクリーニング中ですけど、戻ってきたら制服につけようかなって思って……」

「ふーん。どんな?」

「ひまわりの花の形で、キラキラしてるっていうか。そんな高いのじゃないですけど。

 アツキちゃんが、あたしとひまわりが似てるって……自分じゃわかんないけどそうなのかなって思ったんですけど、ソーヤさんは……どう、思います?」


 言いながら、これは笑い飛ばされるか思い切り否定されるか、という想像をした。

 そういう確信があったというよりは、先に悪い予想をすることで実際に言われたときのショックを減らそうというつもりだった。


 似合わないって言われないかな。

 無駄な買い物って呆れられないかな。

 そういうものを制服につけるなって怒られないかな。


 卑屈なつもりはないけれど、今まであんまりにも褒められた経験がなさすぎて、そうそう肯定してもらえる気がしなかったのだ。

 しかし身構えるヒナトの予想とは裏腹に、ソーヤはふっと微笑んで言った。


「たしかに似てるかもな。色とか」


 からん、と氷が音を立てた。

 ヒナトはコップを握りしめたまま、その手が震え始めたのを誤魔化すように、ぐいとミルクココアの残りを一気に煽る。


 心臓が、なぜだかはち切れそうになっていた。

 胸が痛いし喉もひりついて上手く息ができないし頭ががんがんするし、冷たいココアが胃を刺すようだし、もうわけがわからない。

 そんな状態で何も起こらないはずがなく、案の定ヒナトは噎せた。


 えずくヒナトにソーヤが声をかける。──おい、大丈夫か?

 その声を聞くことすら今は辛い。


 突然襲ってきた謎のしんどさの原因すらわからないまま、ヒナトは必死で呼吸をする。


「……ヒナ、おまえ今日、なんかあったのか?」

「なん、ですか、急に」

「いやその、……帰ってきてから、妙に顔が暗いような気がしたんでよ……」


 しかも何やらソーヤに心配されていた上に、ちょっと方向性がズレていた。

 今この状態を気にしてほしいような、むしろそっとしておいてほしいような、というふたつの矛盾した感情がヒナトの内を駆け巡る。


 しかし今日のあの顛末について、どう説明すればソーヤに伝わるのかわからない。

 というか相談するほどのことではないような気もする。

 それに今は話すどころか、息をするのすらやっとなヒナトは、黙って噎せながら首を振るしかなかった。


 しばらくしたら喉は落ち着いてきたものの、心臓はまだまだ痛かった。

 それどころか何気なく顔を上げたらばっちりソーヤと眼が合ってしまい、その瞬間また胸がぎゅんと締め付けられたので、むしろここにいると悪化しかしない気がする。


 ココアも飲み干してしまったので、ヒナトは退散することにした。


「じゃ、じゃあ、あたし部屋に戻りますねっ……」


 逃げるようにして食堂を後にする。

 もともとは、ココアを飲んだらフィットネスルームに行こうかと思っていたのだけれど、もうそんなことは頭から消し飛んでいた。


 なんなんだろうこれは?


 部屋に戻る道すがら、ヒナトはずっと考えていた。

 こういうときに限ってエレベーターのかごが下りてくるのが妙に遅くて、後ろからソーヤが来たらどうしよう、と考えてしまい余計胸が苦しくなる。

 意識して深呼吸をするも、頭がくらくらして視界がちかちかする。


 エレベーターの中でもそのままへたり込んでしまいそうになり、壁に手をついてやっとのことで身体を支えた。

 どう考えてもまともな状態じゃない。


 (まさか、まさかこれって……アマランス疾患の症状だったり、しないよね?)


 そんなことを真剣に考えてしまうくらいおかしかった。


 ようやく自室のあるGH宿舎階に辿り着き、転げそうになりながらエレベーターを降りる。

 とにかく部屋で休みたい。

 できれば今日はもう誰にも会わずに、一人で大人しくしていたい──寂しがり屋のくせにそんなことを考えていた。


 しかしこれまたこういうときに限って廊下に誰かがいる。

 よりにもよってそれは、蛍光灯の明かりを美しいプラチナブロンドに反射させた、あのタニラだったのである。


「あら……どうしたの? 顔がすごく赤いわよ」


 向こうから話しかけてくれた上に、内容がとても優しくて、もういっぱいいっぱいだったヒナトはそれだけで泣きそうになった。

 最近はまともに話せる相手になってくれてほんとうに嬉しい。

 でも、今は正直あまりありがたくない。


「だ、だいじょ、大丈夫です」

「そう? ところで……今お部屋に戻っても、すぐお夕飯の時間よ?」


 何気なく彼女が口にした言葉はつまり、また食堂に戻らなければならないという意味だった。


 ヒナトは今度こそ崩れ落ちそうになりかけた。

 それをなんとかこらえ、震える声で、精一杯笑顔を取り繕って答える。


「ちょ、ちょっと部屋で、休んでから、行きます」


 ああ、もう限界だ。


 ヒナトはそのままタニラを残し、もつれ込むようにして自室に入る。

 ドアを施錠したところで精魂尽き果てて、もはや一歩も進むことができず、その場にずるずるとへたり込んだ。



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