data28:花落ちて雨降るる ◆
────,28
実習期間は残り一日半に迫っていたが、まだフーシャは復帰していない。
二班にもあれから連絡がないらしく、サイネもはっきりした状況はわからないらしいが、業務後にようすを見てきたタニラからあまり経過がよくないらしいとだけ聞いた、とのことだった。
そんな事情もあって今日のランチミーティングは盛り下がっている。
ヒナト自身、フーシャのことが気になってラボへの聞き込みが捗っていなかった。
厳密にはフーシャのことをもっとも心配しているのはコータであるが、彼がそのためにあまり実習に身が入らないようすだったので、ソーヤが多少苛立っていて、そのとばっちりが少々こちらに来たりしていた。
「うちもあとで会いに行こうかなあ。フーちゃん寂しがり屋さんだし」
「……そうか、アッキーはもともと面識あったんだっけ」
「うん、ガーデンはちょくちょく覗いてたから」
最近は行ってなかったけど、と呟くアツキの声も心なしか小さい。
「けど行っても会えないかも。タニラが昨日は面会を断られたって言ってたから」
「コータくんもそれで朝からすっごく落ち込んでて……」
「……そっか」
「結局こういうとき、私たちは蚊帳の外なんだから」
サイネの声には怒りが滲んでいた。
それは医務部、ひいてはラボから何の連絡もないことに対する不満らしかった。
それぞれがやりきれない感情を抱えたまま、それを無理やり飲み込むようにして食事を摂る。
お陰でほとんど味がわからなかった。
生ぬるくなったお茶を啜りながら、ヒナトはふと思い出す。
「あ、……そういえばあたし、リクウさんに会ったんだ。ほら、フーシャちゃんが倒れたときに、コータくんも診てもらえっていうから、その付き添いで医務部に行ったときに」
「ああ、うん。それで?」
「やっぱりその、……フーシャちゃんはアマランス疾患だって言ってた。なんとかの末期だって……えっと、なんだっけ……ステージがどうとか」
「……もしかして、第二ステージ?」
「あ、たぶんそう」
ヒナトが頷くと、アツキが怖がるような顔でサイネを見た。
そしてサイネはというと、もともと穏やかではない顔をさらに険しくさせて、しかしすぐには口を開かなかった。
しかし、聞かなくてもわかる。その顔を見れば。
何かものすごく良くないことだというのは、サイネの表情がすべて語っている。
だからアツキもヒナトも、それ以上何も言えずに、一緒に押し黙るしかできなかった。
「……じゃあ、もう……」
かすかにサイネのくちびるが震え、そんな音が漏れる。
そのときだった。
三人のテーブルに近づいてきた人があった。
トレーに落ちた影を辿って見上げると、そこにはいつもの白衣姿を少しくたびれさせたリクウが立っていた。
普段の気安い気配はどこにもなく、人形のような無機質な表情を隠すように下がってきた前髪もそのままに、彼は静かに口を開く。
その声にもまた、何の感情も籠ってはいなかった。
「フーシャの実習は打ち切りになった。二班は通常業務に戻っていいそうだ」
「……、わかった」
「ちょ……ちょっと待ってください!」
要件だけ告げて背を向けようとしたリクウを、ヒナトは白衣の袖を掴んで止めた。
サイネやアツキが声を上げないのが不思議でならなかった。
そんな簡素な言葉だけで済まされて、結局何がどうなったのかわからないままでいいはずがない。
ヒナトの他には誰も立ち上がっていない。
ただアツキが震えた声でヒナトの名前を──どこか咎めるように呼び、サイネが小さく息を吐いた。
心臓が波打つ。
どくん。
「──業務後にラボに来い。医務部じゃなくて、五階の奥にある処置室……そこでフーシャに会わせてやるから」
「コータくんも連れて行っていいですか?」
「……ああ、もちろん」
「うちも行っていい? ガーデンでよくお話したから……」
「いいよ。他に、フーシャに会いたいってやつは誰でも連れてきていい」
そこでやっとリクウは薄く微笑んだ。
けれどその顔は、なぜだかひどく悲しそうでもあった。
・・・・・+
業務終了後、言われたとおりに五階に足を運んだのはヒナトとコータの他に、二班の面々とアツキ、そして意外なことにソーヤだった。
しかもタニラに何か言われて、というわけではないらしい。少なくともこの件を彼に伝えたのはヒナトだった。
サイネが先頭に立って処置室の扉に触れる。
指紋を読み取ったドアから機械的な音が鳴って、しばらくすると鍵の外れる音とともに、扉の向こうからリクウが顔を出す。
その奥には他に一名、同じく白衣姿のラボの職員がいた。
「……こんなに来てくれて、フーシャも喜ぶだろうなあ」
職員がそう呟いたのを、ヒナトは聞いた。
七人のソアたちは一列になって処置室に入る。
袖を引かれ、ここは何をする部屋なのかとコータに尋ねられたが、ヒナトにもわからなかった。
入るのもこれが初めてだし、そもそもこの部屋の存在自体を今日知ったぐらいだ。
他のラボと同じく白塗りの壁に囲われた、ひんやりした空間に、意外なほど強い空調の音がこだましている。
その中にかすかに嗅ぎ慣れない臭いがあった。鼻の奥がつんとする。
この刺激を弱くするためにたくさん換気しているのだろうことは、ヒナトにもわかった。
部屋の中央には大きな机のような、しかしベッドにも浴槽にも見える奇妙な機械が設置されている。
全体は金属でできているようだが上面だけはガラス張りになっていて、しかしその表面が電灯を反射しているので、中身が見えそうで見えない。
それが何であるかを知るために、ヒナトとコータは一歩近づいた。
そして、見た。
透明な液体に浸されている、ミルクのように白い肌をした、小さな少女の裸体を。
それは紛れもなくフーシャだったが、しかし別人のように痩せている。
少女は眠っているように見えた。しかしそうではないことは、装置内の液のどこにも気泡が浮いていないことが証明していた。
「……フーちゃ……」
コータがよろよろと機械に近寄る。
少年の手はガラスに触れ、その硬さにはっとしたように一瞬動きを止めた。
「今朝の十時二十二分に死亡を確認した。このあと地下に搬入する」
「しぼう……?」
「死んだってことだ。墓地に入れたらもう会えないから、今のうちにお別れを言ってやれ」
死亡。墓地。お別れ。
聞き慣れない言葉が次々にリクウの口から出てくるのを、ヒナトは呆然として聞いていた。
何が起きているのか理解できない。理解、したくない。
硬直するヒナトの横を誰かがすり抜ける。
コータに歩み寄ったアツキが、少年の細い肩を抱きしめながら、涙混じりの声で言った。
「フーシャちゃんに、バイバイって、言わなくちゃ……」
「……ど、して?」
「もうフーシャちゃんは起きないの。ずーっとずっと、眠るのよ」
それが、死んじゃうってことなんだよ──アツキの声が、なぜか遠くから聞こえる。
アツキとは反対側にタニラが来て、さようなら、と言いながら棺を撫でた。
彼女の隣にソーヤが立ち、黙って俯く。
サイネとユウラはその傍には行かず、少し離れたところにふたり並んで、祈るように目を閉じていた。
どうして、ともう一度少年が言った。
さっきより大きな声だった。
「どうしてもう起きないの? まだ『眠り』に入る日じゃないのに。あと一日あるのに。
なんでこんなに、こんな、……なんでフーちゃん……なんで……ッ!」
ガラスに縋りつくようにして、少年は吠えるように泣いた。
ダメだと何度も叫んでは、時折震えた拳が振り上げられるのを、ソーヤが掴んで止める。
他のソアや職員は、それを黙って見ているしかできなかった。
「なんでだよぉッ! 嫌だ……嫌だよ、フーちゃんじゃなきゃダメだ……!
フーちゃんしか描けないのに、こんなのダメだ、嫌だ、ッ……また絵、描いてって、言ってたじゃないかよぉぉッ……!」
コータの慟哭が室内にこだまする。
ヒナトはアツキとともに、泣きじゃくる少年を抱きしめた。
他にどうすればいいかわからない。
自分の眼から溢れてくる涙すら止められないのに、コータの悲痛を受け止めてやるなんて、できるはずがない。
どれくらいそうしていただろう。
永遠のように長く感じた。
少年が泣き疲れて声を枯らすまで、リクウと職員は待ってくれていた。
もはや気力の尽き果てたコータはなおも棺から離れようとしなかったが、それをやんわりと引きはがし、職員たちはフーシャの遺体を納めた部分を取り外す。
底面に車輪がついていて、そのままエレベーターで地下まで運ぶという。
長い廊下の隅にあるエレベーターホールは、いつもより暗かった。
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