data26:静寂の終わり、雑音の始まり
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朝から号泣していたという実習生は、今は落ち着いて簡単な作業を進めている。
したがって今日も第二班オフィスはつつがなく静寂に包まれていた。
キーボードを打つ音だけが室内に満ちていると、いっそのこと実習生の存在すら忘れそうになる。
それではよくないという者もあろうが、正直なところ気が楽だと思ってしまうのも事実で、それくらいサイネにとって少女の存在は異質だった。
これも一種の人見知りだろうかと、ひそかに自嘲してもいる。
決してフーシャは問題児ではない。
彼女の世話はタニラに一任しているが、当然投げっぱなしにはせず、サイネも班長として目を光らせている。
実習生に適切な量と内容の課題が与えられているか。
そして監督者──この場合は秘書が、実習生の扱いに困ってはいないか。
同時に、そちらにはノータッチである副官が滞りなく通常業務をこなしているか。
この部屋で起きうるすべては管理者たるサイネの責任になるのだ。
事前に防げるトラブルなら起こさせないよう努め、それができずとも事態が大きくなる前に処分するに越したことはない。
ちらりと横目でタニラたちを窺う。
フーシャがこちらには聞き取れないほど小さな声で何かを尋ね、タニラも同じく小声でそれに答えている。
彼女らがこちらに気を遣っているのは明らかで、別にそこまで静かにしなくてもいいんだけど、とサイネに先ほどまでとは矛盾した感情が去来した。
なんにせよ問題は起きていない。ならば今のうちに他の仕事を進めよう。
暗号化された情報に素早く眼を通し、手順通りの回答を送る。
こうした作業の内容自体にはほとんど意味がない。
ラボの人間が求めているのは閲覧から処理までの時間と回答傾向、ないし対応したソアが誰であるか──その微細なデータの蓄積だ。
ガーデン時代にも、形は違えど能力値を測っているらしい検査は幾度も受けた。
基本的にはその結果を元に現在の立場が与えられている。
もっとも、ラボは当初ユウラを班長にする予定だった。
それに対して彼がいかに人員管理業務に不向きであるかをサイネが熱弁し、同時にユウラが辞退したい旨を強く表明して、ふたりの立場が逆転することとなったのである。
そのときすでにラボへの不信感はあったが、それをさらに強めることになった一件だった。
ユウラの性格を考えれば彼が絶対に班長など務まらないのは明白だ。
仮に無理やりやらせたところで、誰かが肩代わりすることになるのもまた自明の理。
別にその代役がサイネである必要はないのだが、他に適当な者がいなかったため──でなければ三班の長をニノリにすることもなかったろう──こうして班長の座に就いている。
サイネとて誰かの下で動くのは性に合わないから、構わないが。
それにユウラの体質を考えるとこれが最適解だったのではないかとさえ思う。
そして、今にして思えば、ラボに試されていたのかもしれない。
サイネやユウラがどれくらい指示に従うか、あるいはどう抵抗し反論するかを見られていたのではないか。
などと頭の片隅で考えながらも、サイネは休むことなくキーボードに指を躍らせる。
自らに課した午前分のノルマのペース配分を考えると、あまり考えごとをしてもいられない……そう思った矢先のことだった。
突然混じってきた雑音が思考を停滞させる──不穏な気配と、焦りの滲んだタニラの声。
「どうしたの? 大丈夫……?」
すぐさま声のしたほうを見る。
俯き加減になった少女と、その子を包むように肩を抱いている秘書の姿が目に飛び込んでくる。
「……きもちわるい……」
「戻しそう?」
「ん……」
「ちょっと待ってね、洗面器か何か……」
取ってくるからそれまで我慢して、とタニラは言いかけたのだろうが、彼女と一緒にフーシャは立ち上がった。
震える足で恐らくはトイレを目指そうとしたのだろう。
だが数歩もいかないうちに、少女の小さな身体はずるずると冷たい床に崩れ落ちる。
びちゃりと嫌な音がして、それからすぐに、つんと酸っぱい臭いが鼻腔を刺す。
「……ふぇ……ごめ、っ、なさい……ッ」
「ああっ……だ、大丈夫だからね。えっと、ティッシュと、雑巾……」
「それより早く医務部に連れていきなさい」
サイネは声を上げ、隣のユウラの肩を叩く。
「歩かせないほうがよさそうだし、運んであげて。
タニラは付き添い。掃除とか連絡なんかは私がやっておくから、その子を優先して」
「わかった」
「うん。……お口だけ拭こうね、こっちむいて」
幸か不幸か、ブラウスはさほど汚さずに済んだ。着替えるのは医務部に着いてからでもいいだろう。
三人は視線を交わし、そして迅速に対処した。
ユウラがフーシャを抱きかかえる。相手は子どもとはいえ、こういうときは男手がありがたい。
その状態でタニラが少女の口許を手早く拭う。
できるだけ揺らさないようにと副官に言いおいて、サイネは壁の受話器を取った。
まず医務部に急患の連絡をしなければならない。
ユウラたちが出ていくのを横目で見つつ、電話口の相手にできるだけ端的に事情を説明する。
それから一班にも一報入れる必要があるだろう。
感染症の可能性は低いから、床の掃除はそのあとでもいい。
一旦受話器を置いて内線を切り替える。
誰に伝えるのがいちばん面倒がないかと密かに心配したサイネだったが、意外にも応対したのはワタリだった。
ふつう秘書が出るものだが、ヒナトは不在なのか転倒でもしたか。
「単刀直入に言うけど実習生が吐いた」
『おや。それは大変だね』
「呑気に構えないでくれる?
一応そっちの子も診てもらったほうがいいんじゃない。それと、ついだからあんたんとこの班長も」
『そうだねぇ。まあ、伝えるだけは伝えておくよ。わざわざどうも』
通話を切って受話器を戻しながら、サイネは深く溜息を吐いた。
面倒は少ない相手だったと思えばいいのか、それともむしろ厄介な相手だったと嘆けばいいか、前者で納得しきれないのは胸に残った不信感のせいだろうか。
それより息をするたび感じる吐瀉物の刺激臭のほうがもっと不愉快だ。早く片付けよう。
サイネは頭を切り替えるべく掃除道具の入ったロッカーを開けた。
・ … * … ・
二班からの不穏な連絡内容を聞き、ヒナトは恐れおののいた。
フーシャなら今朝会ったばかりだ。機嫌の良し悪しはさておいても、体調が悪いとは思わなかった。
それとも調子が良くなかったからこそ、コータの絵に過剰なほど反応してしまった部分もあったのだろうか。
なんにせよサイネの警告を受けて、コータを医務部に連れていくことはすぐ決まった。
ちなみにソーヤのほうは、ヒナトとワタリとで協力して批判がましい目線を送ってみたのだが、俺はいいとすげなく固辞されている。
そちらにもっと食い下がりたかったヒナトだったが、コータの顔色が目に見えて青ざめていたので諦めた。
もっともコータも体調を崩しているわけではないらしいが。
ともかくヒナトは少年を連れて医務部へ向かった。
ほんとうにその名前を耳にするときはろくな話を聞かないな、と思いながら。
医務部自体の雰囲気もよくなかった。
室内の空気はどこか淀んでいるようにも思えたし、そうでなくとも職員たちが慌ただしく行き交っているので落ち着かない。
誰かの手が空くまで座って待つよう指示され、とりあえず椅子を確保したが、コータはそわそわと通りすぎる人の顔を眺めていた。
不安を露わにしている大人たちを見て、少年の眼も赤らんでいく。
その隣でヒナトがしてあげられることと言えば、せいぜい小さな画家の手を握ってあげることくらいだった。
「お待たせ。とりあえず具合はどうだ」
しばらくして顔を見せたのはリクウだった。
前にもここで会ったが、この人はここが専任部署なんだろうか。
コータは彼と面識がなかったらしく、緊張したのか委縮した気配があったので、代わりにヒナトが訊いてみる。
「どっか痛いとこある? 気持ち悪いとかは?」
「……なんにも。平気」
「ちょっとおでこ触るよ。……んー、熱もないね。えっと、朝ごはんは食べた?」
「うん。……フーちゃんも食べてたよ。いつもと同じ、マーマレードのパンと、ミルク……」
ヒナトの手の中で、コータのそれが震えていた。
「問題はなさそうだが、一応体内スキャンを撮っておくか。こっちに来てくれ」
リクウが指示した検査に使う機械がある部屋まで、ヒナトはコータの手を引いて歩いた。
そうしないと、少年が道中あちらこちらに眼をやっては、すぐに立ち止まろうとしてしまうからだ。
コータの視線はフーシャを探している。
彼女がどこにいるのか、今どんなようすなのかを知りたいのだろう。
あるいは駆け寄って声をかけたいのかもしれない。
中途半端に仲裁された今朝の喧嘩のことが気になっているのかも、しれない。
けれど見える範囲に少女の姿はなく、何も手がかりが得られないまま少年は大きな箱に押し込められる。
「合図するまでじっとしてるんだぞ」
「……うん」
白く塗られた金属の扉が閉まる。
冷たい機械の中で、コータはどんなに不安だろうか。
表面のディスプレイにスキャンの結果が映され、リクウはそれを横のコンピュータの画面で確認している。
同時に紙のカルテがスキャナに備え付けの印刷機から吐き出される。
黙っているとここは機械の稼働音ばかりに満ちていて、温かみというものがまるでない。
「あの、……リクウさん」
「ん?」
「フーシャちゃんの具合、どうなんですか? その、原因とかって……」
静寂に耐えきれなくなったヒナトがそう尋ねかけると、リクウは静かな声音で返してきた。
「──アマランス疾患。第二ステージ末期だ」
ヒナトはぎょっとしてリクウを見る。
その答えを想像しなかったわけではない。
けれどラボはその病を公表してはいないのだ。
そのラボに所属する人間の口から、そのものずばりの単語が出てくるとは思っていなかった。
対するリクウは落ち着いていた。
そして、そもそも彼はラボの職員である前に、ソアだった。ふたりきりの『前世代の生き残り』の。
「その反応を見るに、意味は知ってるみたいだな」
「い、一応……そういう病気があるってことくらいは……。
あの、そのなんとか末期っていうの、なんか、響きがすごく怖いんですけど」
リクウは答えなかった。
曖昧に笑んでいるのが、今は絶望的に感ぜられてならなかった。
「……まあ、そう悲観的になるなよ。おまえが暗い顔してるとコータにも伝わるから」
そう言うとリクウはスキャナの扉を開けた。
まだ何も知らないコータ少年が、眼を白黒させてふらつきながら出てきたので、ヒナトは慌てて彼を支える。
慣れないうちはスキャンを受けるのも一仕事だ。
もうオフィスに戻っていいと言われ、コータは不安げにリクウを見た。
リクウは少年の無造作に跳ねた髪をくしゃりと撫ぜながら、今度は優しい笑顔で、諭すように言った。
「フーシャは今寝てる。午後の休憩時間にまた来て、起こしてやってくれ」
「……、わかった」
コータは頷き、決意するようにヒナトの手を強く握る。
その力強さにメイカの言葉を思い出した。
フーシャについて、小さくても女なのだと言っていたことを。
少年もまた、身体は小さくとも心はひとりの男なのだと、なんとなくヒナトは思った。
そしてヒナトと少年は手を繋いだまま、ひとまず医務部を後にしたのだった。
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