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data01:彼女の名前はダメ秘書ヒナト

 ざわざわと身体が疼く。

 彼女が何か言いたいらしい。


 男はソファに埋めていた身体を大儀そうに上体だけ起こした。

 脊髄を甘い痺れが走る。これでは眠れないではないか。


 考えている間も身体は不可解なざわめきに支配されたままだった。


 まったく困った娘だ。


「おいおい、一睡もしないつもりか? 俺は仮眠くらいさせてほしいんだが」


 呼びかけても返答はない。


 鏡とか用意したほうがよかったかな、と考えたが、あの手紙のことを思い出して悲しくなった。


 彼女の希望に応えるのが嫌なわけではないのだ。

 ただ、彼女の現状を受け入れてしまう自分自身が、どうしようもなく気持ち悪かった。


 もう手に入らない。すべては遅すぎた。

 こんなふうに手に入れたいなんて、思っていなかったのに。


 彼女が欲しい。

 この腕の中に彼女が欲しい。

 叶わないと思えば思うほど欲望が膨らんでゆく。


 男の感情を察したようにざわめきは強くなった。


 体中で細胞が暴れていた。

 男はそれを押さえようともせず、もう一度ソファにぐったりと横たわる。


 両の瞳を閉じて、ほかの如何なる外部刺激を遮断して、ただ全身を這いまわるものに意識を集中する。

 彼女が何か言いたそうにしている。


 ──もったいぶらずに早く言ってくれ。


 彼女の言いたいことなどほんとうは訊かなくたってわかっているのに、男はわざと反応を待つ。


 どうしてかいじめたくなるのだ。彼女は可愛いから。

 涙目でこちらを睨む姿を想像してふっと浅ましい笑みが口許に浮かんだ。

 途端に身体のなかがざあっと波立った。


 彼女が、欲しい。

 この手が届くくらい離れた場所に。


 からかっていじめてから抱き締めたい。


 それくらいでちょうどいいはずなのに、どうして、どうしてそれすら許されないのだろう?


 ──それはもちろん、誰でもない俺のせいだよ。


 頭の冷静な部分がそう切り返してくる。

 そうだよなあと相槌を打って、男は眼を開けた。


 そこに彼女がいるような気がしたからだ。

 彼女が傍らに佇んでいるような気がしたからだ。


 だがそこには薄い闇が拡がっているだけだった。

 当たり前だ、彼女はもうここにはいない。


 身体のざわめきが弱まった。彼女がもう根負けしたらしい。


 仕方がないので男は、自分の周りに誰もいないことを今一度しっかりと確認してから、できうる限り優しい声音で、彼女の名前を呼んだ。


「──」


 どくんと心臓が跳ねあがる。


「──、」


 もう一度呼ぶと、熱いものが体中をうねりながら拡がって、消えた。


「──、──、──」


 何度も何度も呼ぶと、そのたびに身体が震えた。

 ものすごい熱量を持った歓びが胸の内からあふれ出るようだった。


 それが誰のものかもよくわからない。


 叫びたくなった。切なくてたまらなかった。

 なんでもいから叩き壊したかった。感情の激流に押しつぶされそうだった。


 欲しい。


 触れたい。


 声を聞きたい。


 それが叶わないのなら、始まることも終わることもできないではないか。




 ───,1



 ぐごーん、がいーん。


 嫌な音がオフィス内にこだましている。

 それを聞いて言葉にならない悲鳴をあげたのは、まだ身長も胸囲も技量も経験も足りない万物破壊魔の秘書であった。


 きょろきょろとよく動く瞳はうぐいす色。

 肩にかかる程度の茶髪は色が明るいため、蛍光灯の下では金髪に近く感じられる。

 毛先はまっすぐだが、途中ところどころ跳ねているのが、彼女のそそっかしさと子どもっぽさを表わしているようだ。


 彼女の悲鳴、というよりは断末魔に近い音階だったものを耳にして、それまでは黙々と書類を読んでいた二人の少年が苦笑いに満ちた顔を上げる。


「ヒナ……それ一週間前に直したばっかだよな?」

「ああああああ……あたし、ちゃんとこないだワタリさんに教えてもらったとおりに操作しました……」

「んじゃヒナトちゃんはジェイムズに嫌われてんだねー」


 だとしたら彼女はあらゆる機器から総スカンを食っていることになるのではなかろうか。


 ヒナトは涙眼になってコピー機(名前はジェイムズ、ヒナト命名)を抱き締め、許してとかなんとか追いすがってみたが、今度はうんともすんとも言わなくなった。

 口をきくのも嫌ということだろうか。

 どうしてそこまで嫌われなくちゃいけないの、とヒナトは思う。


「ソーヤさあああん」

「あーわかったわかった、修理してやっから泣くな」

「ぐすっ……いつもいつもジェイムズがお世話おかけしてますう……」

「いやいや世話かかってんのはおまえだっての。だいたいヒナが壊したことないもんなんか、もはや人間とココアくらいなもんだろ」

「に、人間壊すってどういうことですか?!」

「まあやっちまったら犯罪だな……やりそうじゃん、おまえ」

「しません! ソーヤさんのいじわる!」


 今度は本格的に泣きそうになるヒナトだが、ワタリがよしよしと宥めると少しは落ち着いたらしい。


 それならココア入れてきます、というので、ソーヤはがっちりと彼女の首根っこを押さえた。

 リボンで首を絞められてぐええと呻くヒナト。


「入れんならコーヒーにしろ。あとおまえの仕事は俺の補佐だコラ」


 それは上司命令だったので、ヒナトは逆らうわけにはいかなかった。



・・・・・*



 ここは遺伝子操作を研究している施設だ。

 とくに力を注いでいるのが「不凋花(アマランス)」という名称の遺伝子操作技術に関する研究なので、「花園(アマランタイン)」と呼ばれることもある。

 ただ花といっても植物を研究しているわけではない。むしろ主な研究材料は人間だ。


 アマランスはもともと不妊治療の一環として提案された技術で、発生のある過程の胚に手を加えて丈夫に──平たく言えば障害や先天性疾患を取り除くことができる、というもの。

 すべての夫婦に健康な命を、が当初のコピーだったという。

 ただし残念ながら倫理的な問題が解消できず、実用化には至らなかった。


 ともかく花園ではその技術を応用し、遺伝子操作を施した人間を生みだす研究が行われている。


 そうして創られた子どものことは不凋花の芽、「Sprout of Amaranth」と呼んでいる。

 略称はSoA(ソア)


 ヒナトたちもまたソアである。


 遺伝子操作によって丈夫かつ優秀に作られているソアたちは、自身も研究対象でありながら研究に携わっている。

 その過程のひとつがヒナトたちだ。

 三人ひと組でオフィスと呼ばれる部屋に詰め、毎日研究所から送られてくるデータを解析し、また独自の研究結果を送信し、考察を重ね、つねに技術の進展を支えている。


 ヒナトの所属するオフィス名は第一班。

 班長はソーヤ。

 彼を補佐する副官がワタリで、ヒナトは秘書という名目で雑用をしている。



・・・・・*



 ココア、いやコーヒーを淹れるべくヒナトは給湯室に向かった。


 給湯室は決められた階にしかなく、残念ながらヒナトたち一班のオフィスのある四階はそこに含まれていないので、階段で三階に降りる。

 エレベーターもあるにはあるが近距離で使うと叱られるのだ。


 三階には給湯室のほかに第二班、第三班のオフィスが入っている。


 当然ほかのオフィスの秘書たちもここで飲み物を調達するので、時間帯によっては順番待ちになったり、その間世間話や噂話に花を咲かせることもある。

 そして今日も先客がいるらしく、何やら甘い香りがヒナトの鼻に届いた。


 ココアだ。


「あ、ヒナちゃん。おつかれさまー」

「お疲れさまでーす……よかった、アツキちゃんか」

「ん? ん? どったの」


 アツキは三班の秘書だ。

 ちなみに三班には副官がいないので、二人班と呼んだりもする。


 ほっとした表情のヒナトを見てアツキは不思議そうな顔をした。

 それもそうだろう。

 ヒナトは三班の班長についてよく知らないが、噂によればとても仲がいいそうだから。


「あたしは今日も元気に叱られてますよーというお話です」

「ははは、ソーヤくん生真面目だからねあれで」

「まあ原因はあたしなんだけど……この状況でもしここにいたのが二班の秘書さんだったら、あたしのメンタルが持たないと思って」

「タニちゃん? そんなきつい子だっけ?」

「やー、彼女はあたし限定で厳しいみたいで」


 そうなのー? とアツキの返答は心もとない。


 そしてココアが冷めてしまうからといって、すぐに給湯室を出ていってしまった。

 ので、ヒナトはひとり四苦八苦しながらコーヒーを淹れるのだった。


 しかもワタリには紅茶にしないといけないし、自分はココアを飲みたいので、余分に手間がかかる。


 問題は苦みも渋みもヒナトにとっては大の苦手であることだった。

 味見ができないのがネックになってなかなか上達しない。


 だから毎度毎度ソーヤにけちょんけちょんに言われてしまうのだ、人間とココア以外は壊してる、と。


 というわけで今日もコーヒー色をした謎の液体Xを、同じく紅茶っぽい何かやココアとともにお盆に載せて階段を上る。


 前に段差に躓いたことやお盆を傾かせてこぼした経験があるヒナトは、今日はそういう粗相がないように……と慎重になった。

 そのせいで、十四段ある階段を上りきってオフィスに辿りつく頃には、飲み物は総じてほんのり温くなってしまっていた。


 震える片手で扉を開けると、さっそく「遅っせーな」の一言。


「こぼさないよーに細心の注意をはらってたんですっ!」

「へーへー。とにかく早くくれ、待ちくたびれて喉がカラカラなんだよ」

「そんなこと言って、ちゃんとジェイムズは直してくれたんですか」

「当たり前だろ俺様を誰だと思ってやがる」


 Xコーヒーを受け取ったソーヤがほれ、と偉そうな仕草で指す先には正常そうな稼働音を鳴らしているジェイムズもといコピー機の姿があった。


 ディスプレイにはきちんと待機中画面が表示されている。

 いつでも印刷してやるぜ! と言わんばかりの頼もしさだ。


 ヒナトは思わず感動の眼差しで振りかえる。

 顔をしかめながらコーヒーのような何かを飲んでいるソーヤと眼が合った。むむっ。


「どうすりゃこんなまずいコーヒーが淹れられるんだよ……とにかく礼だ、礼」

「あ、ありがとうございますう!」

「ところでヒナトちゃーん、僕にもお茶ちょーだーい」


 いっそ感謝よりも強くソーヤへの怒りがつのるヒナトであった。


 それでもここはぐっと堪え……きれてはいないが、ワタリに紅茶もどきの入ったカップを渡す。

 本来ならアールグレイの優しい香りがするはずのそれからは、ほのかに草っぽい臭いがした。


 だがまあワタリはソーヤと違って直接口で文句を言うタイプではない。

 しいていえば一口だけ口をつけて、そのあとはもくもくと仕事に戻っていた。


 ヒナトも自分のデスクに戻る。

 卓上のちっちゃなコンピュータの画面には、何か複雑そうなことをつらつらと書いたものが表示されていた。

 隣にココアを置いて作業に取りかかる。


 この場合ヒナトがすることは、この表示されている文面をソーヤとワタリどちらに送るべきか判断する、たったそれだけなのだった。


 ちらりと隣に眼を遣る。


 一班オフィスの席順は入り口に近い側からヒナト、ソーヤ、ワタリとなっている。

 だから最初に眼に入るのはソーヤの仕事風景なのだが、さっきまでコーヒーがまずいだなんだと悪態をついていた彼も、今は真剣な表情をしてデスクトップに向かっているので、もはやちょっとした別人だ。


 まっすぐの黒髪は少し長めで、前髪がワイン色の眼にかかってしまっている。

 本人が言うにはそれで「男前が引き立つ」らしいのだが、実際わりと整った顔立ちなのがなんだか嫌味であり、ある意味で彼らしいとも言える。


 その奥にいるワタリは色みの薄い髪を肩の横で束ねた優男だ。

 瞳はきれいな孔雀色をしているが、残念ながら右目は眼帯をしている。

 なんでも視力がほとんどないらしい。


 こうして見ているだけだと、ふたりともちょっと恰好いい……かもしれない。


「おい、俺に見とれてないで仕事しろ」

「見とれてません。その自信はどっからきてんですか?」

「顔」


 ……前言撤回。班長さまの性格は最悪である。


 ヒナトは気を取り直して、さっさと仕事に戻ることにした。


 一瞬でも恰好いいかもなどと考えた自分が馬鹿だった。やっぱりソーヤはソーヤなのだ。

 とにかく腹が立つから早く忘れてしまおう。


 だが、ものの数分もしないうちに悲劇は起こってしまった。


「あ」


 がーがー、と今度はヒナトのコンピュータ(名前はキャロライン、ヒナト命名)が悲痛な声で泣き始めた。



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