data17:過去からの来訪者
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例によってあれからソーヤが体調不良を申し出ることなく日々がすぎた。
だからといって何ひとつ安心できない。
黙っている可能性を知ってしまった以上、ヒナトはちらちら彼のようすを伺ったり、それで気が散って何かやらかしたりと、良くも悪くも相変わらずだ。
しかもそのつど後始末に時間をとられてしまい、ラボの聞き込みも進んでいなかった。
そんなわけで、今日もヒナトがもやもやした気分を噛み締めながら拙い作業をしていると、第一班オフィスにノックの音が響いた。
来客対応は秘書の仕事だ。
ヒナトは立ち上がりながら、ラボの職員だったらソーヤの体調のことを密告してやろうと思い、ちらりと班長を横目に伺った。
彼はヒナトにも客にも関心がないようで、一瞥もくれずにマウスをかちかちやっている。
顔色は、問題なさそうに見えた。外見でどれくらい判断していいのかはわからないけれど。
ともかく返事をしつつ扉の前まで行ったのだが、ヒナトがドアノブに手を伸ばすよりも先にそれがくるりと回った。
開いたドアの陰からひょっこりと見知った顔が覗く。
まず、先頭にアツキとタニラ。この時点で珍しい組み合わせだ。
よその班の秘書たちが揃っていったい何の用なのか、不思議に思うヒナトの瞳に、その背後に佇むもうひとつの人影が映り込む。
「お、この子がソーヤの秘書?」
服装はGH所属のソアの制服であるようだったが、顔や声に覚えはない。
くせのついた暗すぎない茶髪に、くりっとした紫紺の瞳が人懐こい印象のある、ヒナトより少し歳上らしい男の子だった。
これといって目立つ特徴はないが、しいていうなら笑顔がとても爽やかだ。
ごく自然に握手を求められ、ヒナトも意識すらなく気付けばすんなり握り返していた。
そこで脇に退いていたアツキがいつもと変わらないほんわかした調子で口を開く。
「紹介するね、ヒナちゃん。こないだ話したエイワくんだよ」
「あっ、初めまして」
「よろしく。ソーヤの相手すんのも大変だろ? いつでも相談してくれよ。
逆に俺もGHじゃ後輩だから、何かあったら頼らせてもらうからさ」
「……ああーえっと……あはは……」
そんな返答に困るようなことを初対面でぶっこまないでほしい。
苦笑いしかできないヒナトを見て、フォローしかねたらしいアツキも曖昧に笑っている。
そんな女子たちをどう捉えたのかエイワはからから笑い、それからオフィスの奥へと視線を走らせる。
「で、……おいソーヤ、久しぶり! あとワタリも!」
彼はとびぬけて明るい声で一班の男子たちにそう声をかけた。
けれどもヒナトの眼には、その隣でタニラがひどく困った表情でおろおろと双方を見やっているのがはっきりと見て取れた。
そのようすから、どうやらソーヤの記憶障害については結局誰も教えなかったらしい、それでもってそのためにタニラがついてきたのだろう、と察する。
しかしヒナトが思うにタニラの同伴はむしろ不安だ。
この前あんなふうに号泣しているのを見ているし、タニラが落ち着いて説明やフォローができるとはちょっと考えにくい。
立ち上がったものの固まっているソーヤを横目に、ワタリが座ったまま口を開いた。
「やあ、ほんとに久しぶりだね。お寝坊さん」
「言うなよー、まさか俺だけ倍も寝ちまうなんて俺がいちばんショックだっつの!
さすがに四年も経つと顔とか変わるよなぁ。みんな最初は誰だかわかんねーもん。ユウラとかでかくなりすぎだろ」
「そうかな? ユウラは昔から背高いほうだったと思うけど」
「でも前は俺とソーヤのがでかかったし。な、ソーヤ! ……どうかしたか?」
ソーヤが沈黙したままであることに気付き、エイワが不思議そうに親友を見る。
つられてヒナトも彼を見た。
そのときのソーヤの表情は、凍り付いているようでもあったし、震えているようでもあった。
覚えていない相手に親しげに話しかけられたうえ、過去の話で同意を求められても答えようがないだろう。
動揺するのも無理もない。
しかもエイワの隣には、もう泣きそうになっているタニラがいるのだ。
このままだと最悪の事態に陥る。
つまりソーヤの病状についてエイワがまったく心の準備をしていないまま知ることになり、ソーヤにしてみればまた誰かを傷つける結果になり、どちらにとっても辛い状況になるだろう。
しかもそれをどちらとも親しいタニラが目の当たりにしてしまう。
どうにか助け船を出したいヒナトではあったが、所詮は人づてに事情を聞いただけで気の利いた台詞など出てくるはずもない。
となればあとは頼れるのはアツキかワタリだけだ。
そのふたりはというと、アツキは気まずそうに眼をそらしてしまっていて、ワタリのみ落ち着いたようすでこの場を見守っているようだった。
「……いや、なんだ、すげぇ久しぶりだから、俺も誰だかわからんかったわ……」
かすかに震えを残した声で、ソーヤがようやく口を開く。
誤魔化すつもりなのか。
そんなことをしたって解決にはならないし、結局いつかは破綻してしまうのに。
というかそんな言葉ででエイワは納得するのだろうかとヒナトは心配した。
事実エイワはしばらくぽかんとしてソーヤを見つめていた。
なんとも居心地の悪い静寂があたりを包み、たぶんこの場の何人かは今すぐ走って逃げたい気持ちだったに違いない。
ややあって、エイワは噴出した。
「んっだよそれ!? ひでーな、俺はそんなに顔変わってねーだろ。背はまあ伸びたけど!」
「悪い。あー、と……いつ起きたんだ?」
「一週間ちょい前。で、ようやく杖なしで歩けるようになったんで今日は見学。
しっかしまぁ、おまえとタニラが別の班になってるとは……でもって俺も再編成にならなきゃ三班だろうし、見事にばらばらになっちまうな。世の中思うようにいかないもんだ」
「……そうだな」
ソーヤの浮かべる笑みがいびつで痛々しいことも、果たしてエイワは気付いているのかいないのか。
少なくともこの日は何も追及することなく、そろそろ検査の時間だとかなんとか言って、エイワは慌ただしく出ていった。
アツキたちも彼とともに去っていったので残ったのは班員だけになり、かといって男子ふたりがすぐに仕事に戻ったわけではないのは、コンソールの音が部屋のどこからも聞こえてこないのだから自明だった。
ヒナトはドアがきちんと閉じたか確認してから室内に向き直る。
そこにいるのは、気分の悪そうな顔で再び椅子に沈み込むソーヤと、それをじっと見つめるワタリの姿。
ソーヤがこんなに小さく見えたことが今まであっただろうか。
アマランス疾患の症状に苦しんでいるときですら、こんなふうにはならなかった。
まるで嘔吐をこらえるように口許を手で覆って、やや俯きがちに彼が見つめているのは、何もない無機質なリノリウムの足元だ。
そこに失くした記憶が転がっているはずもないのに、ソーヤの眼がうろうろと床の上を彷徨っている。
「ソーヤさん」
かける言葉の持ち合わせもないまま、ヒナトはとりあえず彼の名前を呼ぶ。
けれどソーヤは顔を上げない。
傍まで行って、その肩に触れたものかヒナトがさんざんに思案しても、そのことにすら気付いていないふうだった。
「……下手に誤魔化すより、はっきり言ったほうがいいと思うよ」
ワタリは静かにそう言って、それからデスクに向き直った。
彼は知っているのだ。
今のソーヤにあれこれ言ったところでまともに聞き入れはしない、そんな余裕が今のソーヤには欠片もないことを。
だから自分の考えを簡潔に述べるだけに留め、あとはソーヤがもう少し落ち着くまでは、代わりに彼のぶんまで仕事を引き受けて放っておいたほうがいいのだと。
副官の指がいつもの倍近い速さで盤上を走り回るのを、班長は呆然と眺めている。
そして、どうしたって無力な秘書は、ようやく彼に手を伸ばす覚悟を決めた。
恐る恐る差し出された指先が一瞬ジャケットに触れた瞬間、ソーヤはびくりと肩を跳ねさせてヒナトを見る。
緋色のきれいな眼のふちがかすかに滲んでいるのを、ヒナトは極力見まいとした。
「ヒナ、……おまえ、誰から聞いた?」
ソーヤはヒナトの首を締め上げるような声でそう問うた。
言外に、なぜ知っているのかと責めているのだとヒナトにもわかった。
咄嗟には返事ができない。
言えば彼女まで責められはしないかと思ってしまったから。
いや、それよりむしろ、自分だけが責められる可能性のほうがもっとずっとヒナトには恐ろしかった。
「……医務部、で……」
「嘘つくな。誰だ? タニラか? サイネか? それともそこのワタリか?」
「……さ、最初はタニラさん、です。そのあと個人的にサイネちゃんたちにも相談しました」
「たち?」
「お昼だったんで、アツキちゃんも一緒だったんです……」
ヒナトは初めてソーヤの前から逃げたいと感じた。
それくらい、このときのソーヤの声は棘に満ちて冷たいものだった。
けれどヒナトが動かなかったのは、ソーヤがヒナトの手を痛いくらいの力で掴んでいたからでは、決してない。
もし振りほどけたとしても逆に握り返したいとさえ思う。
なぜなら今、怖くて辛いのはヒナトだけではないからだ。
いちばん苦しんでいるのは、泣きそうな眼をしているソーヤに違いない。
「……余計な真似、すんじゃねえ」
ソーヤはそう言ってヒナトを突っ張ねた。
そう言いながらも手を放す気配は少しもないのが、その矛盾がまさしく今の彼の混乱と苦悩を表しているようだった。
手が痛い。
心も痛い。
たぶんそれは、ソーヤも同じ。
「これは俺の問題で……、おまえには、関係、ねえんだよ」
「なくないです。だって、だってあたしはソーヤさんの秘書ですよ? スケジュールだけじゃなくって体調管理も仕事のうちだって、タニラさんが言って──」
「あいつの名前を出すな!」
「いッ……!」
掴まれた手が一段と強い力で捻られて、ヒナトは思わず呻いた。
それを見てハッとしたソーヤはようやく手を放し、その腕を、今度は横から伸びてきたワタリの手が掴み取る。
「そこまで。……しんどいからってヒナトちゃんに当たってどうするんだよ、バカ。
ヒナトちゃん、手は大丈夫?」
「あ、はい、なんともないです……」
「ならよかった。で、ソーヤ、なにか言うことは?」
「……悪い」
「言う相手が違うだろ。やり直し」
ワタリは手を離すと改めてソーヤをヒナトに向き直る形で立ち上がらせ、背中を軽くぽんと叩いた。
ばつが悪そうなソーヤの眼差しは、まずヒナトの手に注がれて、ほんとうに怪我などしていないかを確かめようとしていた。
実際もう痛くはないし腫れてもいない。声に反応してすぐに離してくれたのが幸いだった。
一方のヒナトはソーヤの瞳を覗き込んだ。
もうそこが泣きそうな色をしていないのをどうしても確かめたかったが、それにはもう少し時間が必要らしい。
わずかな時間ではあったが、こうして無言で向き合っているのもおかしな感じがした。
今までヒナトがこうして対面でソーヤの顔を見上げているというのは、大概なにかで失敗して、お小言やお叱りを受けているときだったから。
だから眼を逸らそうとするのはいつもはヒナトのほうで、ソーヤではなかった。
「……悪かった」
「あたしも、聞いてたこととか、黙っててすいません」
「いや、……落ち着いて考えたら、タニラがおまえに話してる時点で相当切羽詰まってたってことだし……そうなった原因も、まあ、俺だよな」
「……前にソーヤさんが倒れたときですね」
「やっぱそうか」
ソーヤは深く息を吐いて、もう一度腰を下ろす。
そのとき少し困ったように笑んでいたのが印象的だった。
やっぱり彼にとってタニラという少女は特別な存在なのだと、改めてヒナトは理解する。
わかっていたことなのに胸の奥が冷たい。
どうして、というかこの、先日からたびたびせり上がってくる感情はなんなのだろうか。
──あたしだって、ここにいるのに。
ソーヤとタニラのことを考えるたびに内心で誰かがそんなことを呟くのだ。
それが誰で、何の意味があるのかはヒナトにはわからない。
わからないけれど、その声が日を経るごとに大きくなっているのは、気のせいではなかった。
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