data15:わくらばの影 ◆
────,15
三日もしないうちに、あっという間に元に戻った。いろんなことが。
ソーヤは何事もなかったようにオフィスに帰ってきて、最初こそヒナトの仕事の幅が広がったことを喜んでいたが、それはほんとうに最初の数時間だけだった。
結局有能であったのはワタリが作成したソフトであって、ヒナト自身が成長したわけではなかったからである。
むしろ慣れない業務が増えたヒナトはドジとミスをここぞとばかりに連発した。
ついでになにやらソーヤがヒナトの仕事ぶりを判断する目が厳しくなったような気もする。
……気のせいだと思いたい。
しかし前までなら苦笑いで済まされていたような些細なうっかりまで、このごろはくどくどと小言を放られている。
未だかつてないほど活き活きと仕事をしていたはずのヒナトはもはやいない。
いや、わかっちゃいるのだ。ヒナト自身。
ソーヤが不在の間、何も失敗がなかったわけではない。
いちいちワタリがそれらに苦言を呈したり、細かいことまで突っ込んでこなかったから目立たなかっただけ。
そしてそれをヒナトとしても「まあいいか」とか「これくらいなら大丈夫かも」のような言葉で自分を誤魔化していた。
要するに今現在のこの有様は、単に見ないふりをしていたボロが出てきただけなのである。
──はあ。
どーしてあたしはこうなんだろ。
ヒナトは重いものを飲み込みながら改めて自分のダメさ加減にがっかりしていた。
「……とりあえずこれは一旦置いて、茶淹れてこい」
最後にそう言って、ソーヤは彼の席に戻った。
その言葉には、ちょっと頭を冷やしてこい、あるいは息抜きをして気分を切り替えろという意味もあるのだろう。
ヒナトがお茶汲みを逃避の手段にしていることくらい彼にも見抜かれているのだ。
そしてそれを咎められたことはなかった。
仕事上の失敗にしても、それ自体を叱られても「やるな」と取り上げるようなことはしない。
ソーヤはそういう人なのだ。
厳しいけれどヒナトを見捨てたりはしない。
何度も繰り返される失敗を、そのたび呆れて叱りながら、それが膨大な時間をかけてほんの少しずつにでも改善されるのを、辛抱強く見守っている。
それがわかるからヒナトも頑張れる。
挫けそうになっても、どうにかまた立ち上がれる。
……立ち上がれるけど、でも少し、ちょっと休憩がほしい。
それが人情ってものである。
言われたとおり、ヒナトは素直に給湯室に向かって歩いていた。
肩はがっくり溜息はつきっぱなし、落ち込んでいるのを少しも隠さずとぼとぼのろのろしていたので、ちょうど廊下に出てきたアツキには見事に心配された。
アツキが言うにはまたソーヤが倒れたのかと思ったくらいの顔色の悪さだったらしい。
とりあえず道すがらアツキに半べそで状況を報告した、というかほぼ愚痴と泣き言を漏らした。
こういうとき親身になって話を聞いてくれる相手というのはありがたいものだ。
ふと先日のタニラを思い出す。
たぶん彼女にはぶちまける相手がいなかったのだろう。
長年ずっと溜め込んできて、その反動だったから嫌っていたはずのヒナトにあんなにたくさん話してくれた。
ついでになんか宣戦布告っぽいことも言われたけど。
あ、そういえばその宣戦布告? のことをアツキとサイネには話していなかった。
「アツキちゃん、今日ってサイネちゃんと三人でお昼食べれるよね?」
「うん、うちは特に何か変わった予定はないし、サイちゃんも会議じゃなかったはずだよー。
でも今の話はサイちゃんに話してもあんまり慰めてはくれないと思うなあ」
「あ、違うんだ。別件でちょっと相談が……」
今ここで話してしまってもいいのだが、ソーヤの身体にも関わる話だ。
アマランス疾患自体はそもそもサイネたちがいわゆる「探検」で拾ってきた情報だったようなことをタニラも言っていたし、今後ともぜひ情報収集をしてほしいので、改めてヒナトからも話したい。
直接サイネに、ヒナトの言葉でだ。
それにはやっぱり昼食の時間というのが所要時間としても環境的にもちょうどよいと思う。
べつに午後、仕事を上がってからの自由時間でもいいのだが、なぜかそこでサイネに会えたためしがない。
ついでにどこで何をしているのか聞いてみようかと思う。
とはいっても基本的には、自室でおとなしくしているか、フィットネスルームで身体を動かすくらいしかないんじゃないかと思うのだが。
ちなみにヒナトは後者である。
頭を使ったあとは身体を動かさないとなんかもうダメなのだ、もし運動禁止とか言われたら部屋で暴れるかもしれない。
「そういえばアツキちゃんは仕事終わってからどこにいるの? 部屋?」
「日にもよるけど、ガーデンのほう覗いたりしてるよ。
あ、ヒナちゃんもおいでよ、普段来ない人が来るとみんな喜ぶから」
「へー……それも楽しそうでいいかも。でもあたし、ちっちゃい子の相手は自信ないなあ」
「大丈夫だよぉ、だいたい絵本読んだりとか、そんなのだから。ちびちゃんに囲まれると癒されるよ~」
さすがGHのお母さんと呼ばれる女に恥じない発言であった。
その絵本を読むというくだりもヒナトには難しそうに聞こえるのだが、たしかにアツキは上手そうだ。
元から喋るのがゆっくり気味だから聞き取りやすそうだし。
しかしガーデンとは思いつかなかった。まあサイネの行き先はたぶん違うだろうが。
他にも案外覗いてみると面白い場所があるかもしれない。
なんだか興味が出てきたので、他のソアにも空いた時間の過ごしかたをリサーチしてみようかと考えた。
やっぱり難しいことや悲しいことばかり考えてくよくよしているのは性に合わない。
また外にも遊びに行きたいし、今度はソーヤやワタリの起きた日を調べて何か日頃のお礼をしたい。
ふたりともびっくりするんじゃなかろうか。
想像するとなんだか楽しい。
給湯室の扉を開きながら、ヒナトとアツキの雑談はまだまだ続く。
「あ、でもそういえば昨日はガーデンじゃなくて医務部に行ったの。そこで聞いたんだけど……」
「……えっ、あ……アツキちゃんどこか悪いの!?」
そこでアツキから出てきた思わぬ単語に、一気にほのぼの気分が吹き飛んだヒナトは、慌ててアツキの両肩をがっちりと掴んだ。
アツキは驚いて目を白黒させている。だがヒナトは冷静ではいられない。
医務部。
この言葉を聞いた日は、大概ろくでもない事実に直面させられる。
もう身体が反射的に拒否してしまうのだ。
「ち、違うよお……ほら、例のそっくりヒナちゃん事件の、調査……」
「わあああんなんだそっちかああ」
「あーびっくりした、ふう。
ヒナちゃんも大変だよねえ、なんかここ最近、ほんと色んなことばっかり起きてるもんね」
ソーヤのことが心配で、正直そっくりさんのことなんか忘れかけていたが、そっちも問題なのだった。
あの子は今でもこのオフィス棟か生活棟のどこかに潜んで、ヒナトから秘書の立場を奪うタイミングを虎視眈々と狙っているのだ。
といっても、あれから彼女関連と思しき事件は何も起きていないのだが。
アツキは気を取り直してやかんの準備を始めたので、ヒナトもカップや茶葉類をいそいそとテーブルに並べ始める。
三班のぶんも出そうと思ったが、そういえばふたりは何を飲むんだっけ。
甘党の班長はまず間違いなくコーヒーじゃないだろうけども。
「あそこなら寝泊りするスペースもあるし、人ひとりくらい隠せるかなあと思ったけど、はずれだった。でも代わりに珍しい人に会ったんだ」
「珍しい人?」
「うん、ヒナちゃんも名前は聞いたことあるんじゃないかなあ。ある意味有名人だもん。
でね、ほんとはまだ秘密なんだけど、例によってサイちゃんたちはもう調べちゃってるし、知らないの一班の人だけなんだよねえ」
「ええ……あ、でもタニラさんが知ってるならソーヤさんには伝わってるんじゃ?」
「ないと思う。
ねえ、ヒナちゃん、きっともうサイちゃんかタニちゃんから聞いてるよね。ソーくんが……記憶障害っていう話……」
ヒナトははっとしてアツキを見た。
いつも優しく笑んでいる彼女が、このときばかりは悲しそうに見えた。
少し遅れて湯気を噴出し始めたやかんの音が、どこか遠く聞こえる。
「あのときはみんな大変だったよ。タニちゃんはずっと泣いて泣いて……ユウラくんも、サイちゃんがまだ起きてなかったから、毎日ラボにようすを聞きに行ってた。
そりゃあショックだよねえ、あんなに仲良かったのに、起きたらなんにも覚えてないんだもん……」
「……」
「それでね、だからきっとまた、同じことになっちゃう」
「同じこと?」
「エイワくんがね──ああ、珍しい人ってエイワくんのことなんだけど──ガーデンにいたころはソーくんとすっごく仲良かったの。もう親友って感じでね。
もちろん彼は今でもソーくんのことをちゃんと覚えてるし、会うのをほんとに楽しみにしてるんだ。
……言えなかった。
ソーくんはぜんぶ忘れちゃってる、エイワくんのことも、タニちゃんのことも……うちやサイちゃんやユウラくんのこともわからなくなってた、なんて……」
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エイワくん。
先日タニラの話に出てきた、もう四年近く眠っているという最後のソーヤ世代のソア。
その彼がついに目覚めたらしい。
だから近いうちにGHにも姿を見せるはずだ。
そして決まりどおり、恐らくは席の空いている第三班に配属されることになるだろう。
ソーヤともタニラとも違う班ではあるが、だからといって顔を合わせる機会がないわけではない。
親友だったなら尚更、復帰したらまず最初に会いにくるだろう。
そこでソーヤの現状を知ったら間違いなく大きなショックを受ける。
そして、彼が余分に二年近く眠っていた間に、他のソアたちはなんとかソーヤとの溝を埋めなおした。
もしかしたらまだどこかにぎこちない部分が残っているかもしれないが、少なくとも以前のみんなのようすを知らないヒナトからすれば、ソーヤは充分まわりと馴染んでいるように見える。
記憶障害などと言われるまでまったく気づかなかった程度には。
だからもしかするとエイワには、自分だけがソーヤから忘れ去られたように感じてしまうのではないか。
他のみんなとはふつうに会話するソーヤが、自分にだけは初対面のように接する、そんなふうに。
そんなのって、寂しすぎる。
「でもやっぱり言えばよかったかなあ。どのみち辛いことには変わりないけど、本人に会って初めて知るより……」
アツキはぶつぶつ呟いている。
何が正しい選択なのかはヒナトにもわからない。
どうやったってエイワと再会するまでにソーヤの記憶を取り戻すことなんてできないのだ、解決策などあろうはずもない。
ソーヤだって突然現れた新しいソアが自分のことをよく知っていたら驚くだろうし、辛いはずだ。
それとも彼はタニラからエイワのことを何か聞いているのだろうか。
かつての自分に親友がいたということを。
今さらながらソーヤがやたらとタニラに優しい理由をようやくヒナトは理解できた。
記憶をなくし、それでひどく悲しませてしまったことを、ソーヤ自身も深く悔やんでいるのだろう。
だから彼はタニラに甘いのだ、もうこれ以上彼女を傷つけないために。
わかって、しまった。
今となっては、ソーヤの心情が、よくわかるようになってしまった。
ずっとこの件ではもやもやしていた。
思い起こせば二班の手伝いをした際に給湯室でタニラに話を聞いたときから、ずっと違和感がヒナトの中にあった。
外出のときにもそれを感じて、日に日に大きくなっていた。
色んな事件が起きて忘れた瞬間もあったけれど、根っこが同じだから決して消えない。
──あたしにも、ない。
眠る前のこと。
それまで一緒に遊んだ友達の顔や名前……そうした同期のソアが何人いるのか。
それを今までおかしいとすら思っていなかった。
眠りでリセットされるのが当たり前なのだと思っていた。
すべてを真っ白にしてまた生まれなおすから、起きた日をお祝いするのだと、そう捉えて満足していた。
でも、それなら、みんなの悲しみは何だというのだ?
タニラの涙は? このアツキの悲しい顔は?
ラボの奥にヒナトのことをよく知っている誰かが眠っていて、ある日突然現れたら?
そのときヒナトはどうすればいい。
顔を見たら思い出せる? 今さらそんな都合のいいことが起きるとは思えない。
そして、そしてつまり、何も思い出せないということは。
──あたしも、ソーヤさんと同じ病気……?
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