data14:地面の下の話Ⅱ‐芽‐
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タニラの話を聞きながら、医務室にいるソーヤのことを考えていた。
彼自身は自分の病気のことをどれくらい知っているのだろう。
もしかしたら研究所側からはあまり説明がなされていないのかもしれない。
それに……それにヒナトもよくわからないから、彼の秘書として有事に対処するべく、もっとアマランス疾患についての知識が必要だと思う。
しかしソア側に公表されてもいない問題について、どうやって調べればよいのだろうか。
サイネたちが調べてくれた、とタニラは言ったが、それは一体どんな手段を用いてのことなのだろう。
もしかして、いやもしかせずとも例のハッキング紛いのことだろうけれども。
ヒナトのそっくりさん問題についてもソア側に一切の情報が入らないから似たようなものだ。
なんだか最近、花園に対しての信用というか何かそういうものが、ヒナトとしても疑わしく思えてくる事件が立て続けに起きている気がする。
どうして花園はそういう重大なことをソアには教えてくれないのだろう。
しかもソーヤについては命に関わることなのに。
「タニラさん、このことは他に誰が知ってるんですか?」
「……サイネちゃんとユウラくんが、他の人たちにも話したかどうかは知らない。私はあなたが初めてよ」
「じゃあラボの人たちには、何かこう……相談したりとか……」
「できると思う? ルールを破って未公開エリアに侵入したことを認めることになるのよ。
まあ……ラボにも上の代のソアがいないわけじゃないし、私たちが知ってることを感づいているらしい人がいるのは確かだわ」
タニラはそこで深く息を吐いた。ラボに対してはあまり希望が持てない、というような顔をしていた。
「もちろんラボだって何もしてないわけじゃないでしょう。彼らにとって私たちは『研究成果』だもの。
それでも、ソアを製造し始めてもう何十年も経ってるのに、未だにアマランス疾患の確立された治療方法は見つかってないの。
そしてだからこそ、私たちは私たち自身を研究している……前にサイネちゃんがそう言ってた」
「え、ちょっ、ちょっと待って、どういう意味ですかそれ」
「ラボの人間はほとんどが"ふつうの人間"だからよ。ソアのほうがずっと脳の活動野が広い、だからラボの人よりも早く解決策を見出せるかもしれない、ってこと」
「あ、いやそっちじゃなくて、……何十年もやってるんですか、ここの研究所って」
「そうよ? 正確には今年で八十九年目だったと思うわ」
「その間ソアを作り続けてるのに、ラボには殆どいないって、なんか変じゃないですか? 外には出られないのに……」
他にどんな行き先があるというのだろう。
ヒナトはなんとなく、このままソアとしてオフィスで暮らしたあと、次の世代に押し出されてラボに進むのが当たり前の未来だと思っていた。
というか、それ以外の将来の可能性を他にひとつも知らなかった。
何せソアは花園で徹底した滅菌環境での暮らしを生まれながらに享受していて、外界では長く生きられないとされている。
当然外で他の一般人と混ざって生活することは不可能だ。
だが、九十年近くアマランス技術の研究をしているというなら、ここに何人のソアがいることになるだろう。
一年に一人でも年数分になるのに、毎年ざっと十人は造られている。
少なくともソーヤやタニラの代は、ふたりの他にまだ眠り続けているという「エイワくん」、サイネとユウラ、アツキの六人がいるのだ。
まさか。
ヒナトの脳裏にとても嫌な可能性が浮かんだ。
これ以上考えたくもないことだったが、目の前でまた涙を滲ませたタニラを見て、ヒナトは悟ってしまう。
その考えは正しかったのだと。
そして次のタニラの言葉が、哀しくもヒナトの発想を肯定してしまった。
「……みんな、死んじゃったんですって」
言葉が返せなかった。もうなんと言っていいのかわからなかった。
ただ呆然とタニラを見て、その白い手に握り締められたヒナトのハンカチを見て、息を吐くしかなかった。
少しだけラボの考えがわかったような気もした。
何百人というソアがアマランス疾患で死んでしまったというのなら、病気の存在そのものを伏せているのも、無理からぬことだと思ったからだ。
もし予めそれを知らされていたらどんな心地がしただろう。
あなたたちは早死にします。そういう病気の因子を先天的に持っています。
治療方法は自分で見つけてください。
……寒気がする。頭が痛くなる。
ソーヤという例が目の前にあるからこそ、ヒナトにとっては逆に、彼への心配が募るから、まだ今は他人事として捉えられている部分がある。
これはまず第一にソーヤの問題だ、と処理するヒナトがいる。
でももしそうではなかったら。
まだ誰も不調を訴えていない状況で、先に情報だけを渡されたら。
そして一部のソアは、なんというか感情の起伏が激しいというか、情緒不安定な人もいる。
さっきまで号泣していたタニラもそうだ。
こういうタイプのソアは、下手をすると人生を悲観して最悪の手段を取りかねないと思う。
そしてたぶん、自分たちで見つけ出した文字情報として触れたほうが、冷静に受け取れる。
そういうことなんだと、思う。
「私たちの呼称が『アマランスの芽』なのは、大人にはなれないからじゃないかって……これもサイネちゃんの言ってたことだけど、なんだかほんとうに、そんな気がしてくるわ」
「……そんなの、悲しいです」
「そうね。
……それに、私はもしもソーヤくんに何かあったら、そのときは私だけ無事に大人になろうなんて思わない。
運よくアマランス疾患にならずに過ごせたとしても、彼がいなくちゃダメなのよ。耐えられない」
タニラはそこで声を震わせる。
そうだろうな、とヒナトも思った。
ソーヤに万一のことがあったら、きっとこの人はその後を追うだろう。
依存している、と言うと聞こえが悪いけれど、それだけタニラはソーヤのことを大切に想っているのだ。
そしてこのとき、ヒナトは初めてそれを羨ましいと思った。
ヒナトだって第一班の一員として、ソーヤとワタリのことが大切だ。
でもタニラのこの情熱にはとても敵わない。
どこからそんなエネルギーが出てくるのかはわからないが、たとえばこのままソーヤが復帰できなかったとして──あ、その想像はちょっと現実味がありすぎてさすがに辛いからやっぱりワタリが危なくなったとして──きっとすごくショックだし悲しいし泣いてしまうだろうけれど、そのあともどうにかして一班の秘書を続けるだろう。
新しい副官を迎えるなり、なんなりして。
だいたい第一班には誰かひとりでも欠けたらもう無理! というような結束力というか絆というかそういうものはないのだ。
たぶん班長がソーヤならそれは第一班の体を為すし、班長が変わってもワタリはいつもどおり仕事人であり続けるだろう。
ヒナトはどこであろうとダメ系秘書に変わりないのは先日の二班のお手伝いで実感している。
そしてその緩さというか、良く言えば余裕のあるところが第一班らしさでもあるのだ、と思う。
……ああ、でも。
ふと顔を上げたとき、棚に並んだカップやソーサーが目に入った。ここは給湯室なのだから当たり前だ。
そもそもヒナトはここにワタリのために紅茶を淹れにきていたのだった、もう随分待たせてしまっている。
今日は、コーヒーを淹れる必要はない。不味いと言ってくれる人がいないから。
そうだった。
それって、すごく寂しいことだった。
前にもそれで心が折れそうになったじゃないか。
あのときの火傷の痛みを、ヒナトはまだ忘れてはいない。
ヒナトはずっとコーヒーを淹れる練習をしたかった。
美味しく淹れられるようになりたかった。
自分で飲むためじゃなくて、どこかの俺様班長様を呻らせたかったからだ。
褒めてほしいからだ。
おまえを秘書にしといてよかったぜ、みたいな台詞を、彼の口から一度でいいから聞いてみたかった。
そしてたぶん、他の人が班長になったとしたら、それを言ってほしいとは思えなくなる。
それだけはなぜだかヒナトの中で確信があった。
ヒナトを褒めるのはソーヤでなくてはならないのだ。他の誰でもなく。
「……なんか、ちょっと、タニラさんの気持ちがわかるかもしれない」
気づいたらそう呟いていた。
反応したタニラがじっとこっちを見つめてきたので、その先の言葉は上手く続かない。
美人の目線は何かと心臓に悪い。
「その、あの、……ソーヤさんにしかできないことって、ある、と思うんです。
たぶんワタリさんにも、ワタリさんしかできないことがあるんだけど、でも、えっと……あたしが、してほしい、ことっていうか……ソーヤさんにしてほしいことを、ワタリさんがしてくれたら、それはもちろん嬉しいけど、ソーヤさんにされたときと同じくらい嬉しくはない……と思う」
「……そう」
「あ、あの、わかります?」
「要は相手によって求めてることが違うって話でしょ」
「そ……そうそう、そんな感じで」
「それなんだけど、たぶん私とあなたで、ソーヤくんに求めてることって、同じだと思うわ」
だから、と言って、タニラはヒナトの手を取った。
思わぬ柔らかな感触にヒナトは驚いたが、そのあとのタニラの発言のほうがもっと驚愕だった。
──あなたをライバルとして認めるわ。情報の共有もしてあげる。
でも、いい、これはソーヤくんのためよ。
アマランス疾患に対する治療法を見つけて彼を助けるためなら、私は何だってする覚悟でいる。
あなたも彼の秘書として、私のライバルとして今まで以上に邁進しなさい。もし少しでも気が抜けていたら今度こそ真剣に立場を譲ってもらうわ。
「そして最後にどっちに勝敗がついてもお互い恨まないことにしましょう。その代わり容赦もしないから」
「え、……は、はいッ」
凄まじい目力に気圧されて思わず返事をしてしまった。
果たしてこれは事態の好転なのか、それとも新たなる波乱の幕開けなのか。
そして何を以て勝敗がついたとするのだろうか。
というか今まではライバルだとすら思われていなかったことがややショックなヒナトだった。
そのうえ格下でいる間は容赦されていたのか。
……どのあたりが?
そのあとタニラにまともな紅茶の淹れかたを指導してもらい、ひとまずオフィスに戻った。
小一時間経っていたがワタリはまだまだ真剣に画面と睨みあっていて、ソーヤのように遅いとも言ってくれない。
それとも状況が状況だけに、ヒナトがまた給湯室でひと悶着起こしていたとでも思われたのだろうか。
今回に限ってはヒナトが原因ではなかったのだが。
しかしこの人はヒナトや周りの人間をよく見ているのか全然気にしていないのかどっちなんだ。
なんにせよ休んでもらわなくては困るので、どうぞと言って紅茶を差し出す。
今回は自信作ですよワタリさん。
「ありがと。……ヒナトちゃん、これ誰かに淹れかた教わった?」
「あ、わかります?」
「うん」
ワタリはそのあと何も感想らしい言葉を述べなかったけれど、トレーに戻されたカップは空になっていた。
… … … *
──深い海の底から引き上げられるような感覚だった。
もちろん実際にそんな経験をしたことはないのだが、なんとなく、起きぬけのぼんやりした頭でそう思っていた。
だんだん視界が明るくなっていくのを見ていたせいもあるだろう。
足許のあたりで、一定の間隔で緑色のランプが点滅している。
この機械に異常がなく、正常に稼動していることを示しているものだ。
だが、一方で身体はひどく重かった。起き上がるのを躊躇うほどに。
それも仕方のないことだろう。
どれくらい眠っていたのかはわからないが、その間ずっとここに閉じ込められていたのだ。
しばらくはリハビリしなければいけなさそうだった。
なんと言っても、彼女に情けない姿を見せるわけにはいかない。
あいつに笑われるのも癪だ。
ややあってラボの職員がやってくる。
体調について質問されながら、とにかく猛烈に喉が渇いていたので、渡された水筒の中身をあっという間に飲み干してしまった。
喉が潤ったら今度は空腹がきた。訴えたところ軽食を用意してもらえることになった。
身体の中が目まぐるしく動いている。
むろん寝ている間もそうだったはずだが、使っていなかった胃腸に関してはまだ寝惚けている気がしてならない。
こっちも要リハビリだろう。
問診が終わってから、職員の了解を得て、少し立ち上がってみた。
足が震える。変なところに力が入っているのか、機械の縁を掴まらないことにはまっすぐ立ってはいられない。
生まれたての小鹿かよ、と自分でも思いながら、それでも粘って立ち続けた。
早く歩けるようになりたかったからだ。
ずっとやっていたら次第に立つのには慣れてきた。
調子に乗って片足を僅かに上げてみたところ、あえなく転倒した。そういうわけで床で肘を打った。
これはなかなか痛かったが、すなわち自分が生きている。
生きて、……活きている、って感じがして、気分がいい。
彼らもそうなんだろうか。それとも、まだ眠っているのだろうか。
そういえば眠る前、できれば彼女より早く起きて、迎えにいきたいとかどうとか思っていた気がする。
実際これは相当先に起きていないと迎えにはいけないな。何せまともに歩けやしない。
あと、いつもそうだったけど、大抵あいつが先を越すのだ。だからなんとなく今回もそうなんじゃないかと思っている。
悔しいが一度も勝てたことがない。
いや、今後もずっとそれはあんまりなので、どうにか挽回していきたい所存だが。
しかし結局のところ先立つ思いはひとつ。
何よりもまず。
「……早く会いたい」
口に出してしまったところで、急に照れくさくなってしまった。
しかし偽りのない本音だ。
ただ、会いたかった。
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