data09:ヒナト、大地に立つ ◆
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午前の業務を済ませ、昼食を済ませたのち、ヒナトはいそいそと自室に戻った。
ソアに与えられる部屋はそんなに広くもなければ備品も少ない。
とくにヒナトの場合いままで外に出たことがないだけに、私物と呼べるものが極端に少ないといえる。
だが今日はベッドとテーブルの殺風景な室内に、見慣れない色合いの物体がぶら下がっていて、それを見ただけでもヒナトのテンションはもりもり上がる。
かわいらしいピンクのワンピースはアツキに借りた。
それから気温調節用にとサイネから黒い上着、そしていただいたお小遣いをなくさないようにと職員がちっちゃなポシェットをくれた。
いてもたってもいられない!
まだ外出許可の下りる時間にはまだ早かったが、ヒナトは待ちきれずに制服の上着を脱ぎ捨てる。
ハンガーにかけるのさえもどかしい。
そして胸元のリボンを掴んだところで、誰かの来訪を告げるチャイムの音が鳴った。
壁に埋め込み式のパネルを確認する。職員さんだ。
「は、はい、何でしょう!」
脱ぐ前でよかったなと思いつつ、飛び跳ねるようにして出迎えるヒナトに、職員のお兄さんはちょっと苦笑いしている。
「グリーンハウス所属番号A-1710番さんだね。チェックがあるからまだ着替えないでくれるかい」
「チェック?」
「決まりで、体調が優れない場合は外出を認められないんだ。いつもの健康診断とほとんど同じだから心配は要らないよ。きみ、見た感じすごく元気そうだしね」
「はい、もうっ、元気です!」
ヒナトは一度脱いだ上着を引っつかんで部屋を出た。
そのまま職員さんと一緒にラボの医務部へ向かう。
するとすでに他のソアも集まっていて一列に並んでいた。
その先にはソアの健康状態を調べるための機械があり、確かに毎月の健康診断と同じような雰囲気だなあとヒナトは思った。
あの大きな箱に入ってちょっと待っていれば結果が出るという簡単なものだ。
だが、並んでいるみんなの顔はどことなく硬い。
しかも最後尾はソーヤとタニラであった。
いや本来ならタニラひとりだったのであろうが、彼女はぴったりソーヤの隣をキープしているのでそう見える。
「お疲れさまでーす……」
「おうお疲れ。そっかヒナも出かけんのか」
「はい。サイネちゃんたちと。……ソーヤさんは、タニラさんと、みたいですね」
「まあな」
例によってタニラはまともに返事などくれそうにない状況であったので、とりあえずソーヤに向かって話しかけた。
もう睨んでくる視線ビームは慣れてきたのでどうでもいい。ちょっと痛いけど我慢だ。
「なんか、健康診断とちょこっと雰囲気違います?」
「こっちのが少し判定厳しいからな。俺らも前にタニラがひっかかって外出許可下りなかったし……タニラ、今回もし俺がアウトだったらヒナたちんとこ混ぜてもらえよ」
「……いいわ、ソーヤくん置いてくの嫌だもの。一緒にお留守番する」
わあ。改めてタニラさんあなた、ソーヤさんの前だと甘えん坊さんね!
……とちょっと言いたくなったヒナトであったが、命が惜しいので黙っていた。
いまは外出許可を得ることのほうが重大案件だ。
でもソーヤのまんざらでもない顔はちょっといらつく。
・・・・・+
十数分後、無事に良い判定をもらえたヒナトは、今度こそ高速で着替えを済ませて一階のエントランスホールに駆け込んだ。
早すぎて誰もいなかった。
仕方がないので通りすがりの職員などを捕まえてお喋りしながら待った。
やがて外出時間が近づくと、私服に身を包んだソアたちがひとりまたひとりと現れる。
サイネはTシャツとショートパンツにレギンスを合わせ、彼女のスレンダーな体型がよく映えるスタイルだった。
さすがご自分をよく理解していらっしゃる。
アツキはふんわりした色合いのスカートとカーディガンがかわいらしい感じだ。
他のソアもそれぞれ違った服装で、みんな好みや個性がばらばらなのだなと実感した。
いつもは同じ制服ばかりだからなんだか新鮮だ。
ひそかにちょっと心配だったのはソーヤだが、ややあって小洒落た恰好の男が清楚なロングワンピの美少女を連れて現れたので、……なんかヒナトは損した気分になったのだった。
まあそんなことはどうでもいい。
いざ、初外出!!である。
外出時間は日によって変わるが、今日は二時間程度で帰宅するように言われている。
そしてひとりにつきひとつずつ小さな機械を持たせられた。
ボタンがひとつあるだけのシンプルな端末だ。
これは外出中に具合が悪くなったときなど、非常時に使うものらしい。
前に一度、ソアたちは花園の外では生きられないのだと、お偉いさんたちから説明されたことがあった。
外界にはたくさんのウイルスや雑菌、微生物などが棲息していて、花園生まれ花園育ちのソアたちは、それらへの耐性が弱いのだ。
そんな外界に長時間いたら何が起きても不思議はない。
それでもたまの息抜きとして外に出ることは必要なのだ。
篭りきりでは精神が腐ってしまう。
「それじゃあいっておいで。気をつけてね」
職員のおじさんに笑顔で見送られ、ソアたちは花園を出た。
施設の外に広がっているのはどこまでも続くかと思われるような雑木林だ。
そこから車に乗って街まで行く。
やがて樹の数は減り、アスファルトで舗装された道路が現れると、いよいよヒナトにとっては初めて見る光景だった。
──地面が黒っぽい。
あと車って思ってたよりも揺れるんだな……ちょっと気持ち悪くなりそう。
でも、でも、なんか、すごく楽しい!
十数分ほどして車を降りると、ぷわっと嗅ぎなれない臭いがした。
あたりは車が何台も走っていてごうごうとうるさい。
ほんものの信号機がある。
そこへ続く道は白い線がひいてあって、褪せて青黒いアスファルトとの対比が川と橋のように見えた。
そして、知らない顔をした人間が、あっちにも、こっちにも。
「いい、昨夜打ち合わせしたとおりのルートで散策するから、時間はきっちり守るように」
「あとヒナちゃんははしゃいで事故ったりしないようにね~」
「アツキちゃんほのぼのと怖いこと言わないでよ。大丈夫、交通ルールはちゃーんと勉強したから!
……うわああすごいあれ何ぶっふ」
興奮のあまり叫びだしそうなヒナトの口をさっとサイネの手が塞ぐ。
時間が勿体ないとでも言いそうな顔でそのままヒナトを引きずっていく女王様を、にこにことお母さんが追従している、すごく変な絵面だった。
「最初はこの店に寄るからそこの信号で左に曲がる。ヒナト、はぐれそうならアツキと手でも繋いでなさい」
「そこは何のお店なの?」
「ん~とね、男の子の服とか、鞄とか」
「……われわれはそこにいったいなんの用事が?」
「用があるのはアツキだけでしょ」
「うん。付き合ってもらっちゃってごめんね。でもせっかくだからふたりも何か探してみたら?」
「何かって?」
「起きた日のプレゼント。私はね、ニノりんが来月の三日に起きた記念日だから……ユウラくんはいつだったっけ?」
「来月の十八日。……ちょうど私の一ヶ月前だから覚えてただけ、言っとくけど。ヒナトはソーヤとかワタリがいつ起きたか知ってるの?」
サイネの問いにヒナトは首を振った。
起きた日というのは、ソアにとっては誕生日の代わりみたいなものだろう。
下の段階"ガーデン"の子どもたちは、第二次性徴を迎える少し前に、特別な『眠り』に入る。
短い人でも二年以上かかるその休眠期から醒めると、彼らはグリーンハウスに移るのだ。
基本的にラボの擬似母体で生まれるソアには誕生日がないから、代わりに『起きた日』を記念日として祝う、のだが中には自分の起きた日さえ知らないソアもいる。
ヒナトもそうだ。
ソーヤたちの以前に、自分の起きた日を知らない。
その日のことはむしろよく覚えているのだが、当時のヒナトにカレンダーを見るような習慣がなく(現在もあまり真剣には見ていない)、日付という概念そのものに疎かったような気もする。
ヒナトが『起きた』日、いまGHにいるソアのほとんどは既に目覚めたあとで、ほぼ現状と同じ役職についていた。
第一班はまったく別の人たちで構成されていたらしいが、ヒナトの目覚めとともに再編され、今の三人──ソーヤ班長、ワタリ副官、ヒナト秘書という組み合わせで再出発して今に至る。
前のメンバーは上の階層『ラボ』に移り、たぶん今もそこで研究を続けている。
起床日プレゼントを贈りあうのはそれだけ親しい間柄である証だが、同じオフィスの仲間なら充分問題ないだろう。
ヒナトとしても普段ご迷惑をおかけしちゃっているお詫びというか、なんというか、とりあえずお小遣いの許す範囲内で何かお土産を買ってもいいかなあ、と思う。
けど、肝心の日付がわからなければ、ふたりの好みもよく知らない。
……ソーヤはさっき見た私服姿から傾向を想像するにしても、ワタリはどうやら出かけないようで今日は見かけなかった。
「ヒナトは今日は下見だけにしときなさい。自由日初日は何かと慌てて無駄な買いものしがちだから」
「え、えっ、そんなご無体な!」
「大丈夫よぉヒナちゃん。他のお店も回るから今すぐ決めなくていいよって意味だから、サイちゃんのこれは」
なんだそりゃ。
と思ったが、よくよく考えれば使えるお小遣いの額は限られている。
ヒナト自身の欲しいものだってきっとたくさん見つかるのだ、購入できるのはそのうちの幾つかだけなのだから、かなり厳選していかねばならないということだろう。
そうこうしているうちにひとつ目の店舗に入る。
アツキはあらかじめ買うものとその売り場を決めていたようで、サイネとともに迷うことなく店内を歩いていく。
手を繋いでいたヒナトも道連れだ。
初めて来た見たこともない未知の空間にきょろきょろふらふら、挙動不審きわまるヒナトであったが、アツキはそれに構わず進む。
やがてふたりは木製の洒落たテーブルにずらりと並ぶ、きらきらと美しい謎の金属片の大群を迎えることになった。
なんだか素敵な装飾品のように見えるが、ここは男性向け服飾品専門店だし、男の人が使うしろものなのだろうか。
「アツキちゃん、これって何?」
「ネクタイピンっていうの。ネクタイをシャツに止める道具ね。ニノりんに似合いそうなのずっと探してたんだ~」
「で、どれにするか決めてあるの? あんまり高いのはやめときなさいよ」
「ほんと高いよねえ……まあソアが礼装する機会はないからちゃんとしたのじゃなくていいし、かわいければいいぞってことで、これでーす」
と言いながらアツキが選んだのは、猫の形をした銀色の一品だった。
前足と背中を伸ばし、お尻を後ろに突き出したような独特のポーズで、くるりと巻いた尻尾が愛らしい。
「ニノりんって動物に例えると猫ちゃんだと思うんだ~。人見知り激しいところが」
だそうである。
あらゆる意味で詳しくないヒナトは黙って見ているしかないが、まあアツキがよければそれでいいんじゃなかろうか。
アツキはさっそく購入のためレジへと向かったが、どうやらプレゼント用の特別な包装をサービスしてもらえるらしい。
バッグから取り出した赤い財布がいかにもアツキらしくてかわいいなあ、と呑気に眺めるヒナトの視界の隅を、そっと隠れるように動いた人影があった。
見ればサイネがそのへんの商品を眺めている……のだが、にしては妙にじっくり改めている。
値札を。
そこへアツキが早々に戻ってきた。
包装に少し時間がかかるんだって、と言いながら、彼女の視線と意識は間もなくサイネのほうへと流れていった。
窺ったその横顔は好奇心とその他諸々の面白おかしい感情に満ちた笑みである。
「ユウラくんには何あげるの~?」
「あっ、べつに見てただけで、だいたいまだ渡すかどうかも決め……って何でユウラよ」
「照れちゃってかわいいなーもぉ~」
へっへっへー、とからかうように笑うアツキに女王様はご機嫌を損ねたらしく、つんとそっぽを向かれてしまった。
そのまますたすたと入り口近くまで歩いていく。
もしやこのまま喧嘩にならないでしょうね? と不安になるヒナトだが、アツキはからから笑ったままサイネを放っていた。
しかもすぐレジでプレゼントを包んでいた店員さんに呼ばれたので、サイネのことを気にしている暇はなかった。
せっかくの外出、嫌な思い出を作りたくないヒナトはこっそりとアツキに尋ねる。
「アツキちゃん、サイネちゃんあれ怒ってるんじゃない? 大丈夫?」
するとアツキはいつものお母さんみたいな優しい顔に戻って答えた。
「けっこう恥ずかしがりなんだよねえサイちゃんて……これくらいならいつものことだから。
むしろ、たまーに焚きつけてあげるくらいでちょうどいいんじゃないかな~あの夫婦は」
「ふ、夫婦って」
「サイちゃんとユウラくんね。あーヒナちゃんは知らないだろうけど、ふたりはねえ、もうガーデン時代には愛を誓い合ってるから。
もちろんこれ職員さんには言っちゃだめよ」
「そそそっ、そうなの? とてもそーゆー雰囲気には見えないけど……」
あ、愛を誓い合う、って。
正直そういう甘い響きの言葉とは限りなく対極にあるようなふたりだと思っているヒナトには一ミリも想像がつかない。
むしろその前に研究関係の話を語り合ってそうじゃないか。
なんだかもやもやとした感情に包まれながらも、サイネとアツキに連れられて次の店へ向かった。
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