第16話 名前を呼ばれない人
酒場は、いつもより騒がしかった。
夕刻を過ぎ、仕事を終えた冒険者や職人が流れ込み、木の床は靴音と笑い声で満ちている。
油の匂いと酒の甘い香りが混じり、空気は重い。
久遠は壁際の席に腰を下ろし、簡素な煮込みを口に運んでいた。
水で薄めた酒。
それ以上は頼まない。
隣の卓では、誰かが勝った負けたと騒いでいる。
反対側では、肩を組んだ男たちが大声で歌っていた。
久遠は、そこに混ざらない。
――混ざれない、ではない。
混ざらない、だ。
「……あんたさぁ」
不意に、声をかけられた。
低く、舌が回っていない声。
久遠が顔を上げると、向かいの席に男が立っていた。
衛兵服。
詰所で何度か見かけた顔。
だが、名前は知らない。
「聞いてる? なあ」
男は酒杯を片手に、ふらつきながら久遠の卓に寄りかかる。
「……何でしょう」
「冷てえなぁ」
男は笑い、勝手に椅子を引いて座り込んだ。
「今日さ、飲まなきゃやってらんねえ日でさぁ」
言葉は軽い。
だが、目は笑っていない。
久遠は、何も言わずに煮込みを食べ続ける。
「お前さ」
男は久遠の皿を指さした。
「前に、詰所に来てたよな」
「……依頼で」
「あー、だよな。護衛だっけ?」
違う。
だが、訂正するほどでもない。
「最近、よく見る顔だと思ってよ」
男は酒を煽る。
「俺さ、名前呼ばれねえんだ」
突然の言葉だった。
久遠は、箸を止めた。
「詰所でも、酒場でも」
男は笑う。
「『おい』とか『お前』とか、それだけ」
笑い声は、少しだけ掠れていた。
「別にいいんだけどな」
そう言いながら、男は杯を置く。
「どうせ、俺なんか――」
言葉が、続かなかった。
久遠は視線を落とす。
名前を呼ばれない人。
心の中で、そう呼んだ。
「明日さ」
男が、ふいに言った。
「食糧の運びがあるんだ」
「……そうですか」
「量がな、妙に多い」
男は肩をすくめる。
「余るんだよ、いつも」
笑う。
だが、やはり目は笑っていない。
「まあ、上が決めたことだからな」
上。
誰のことかは、言わない。
久遠は、何も聞かなかった。
問い詰めることもしない。
正義を語ることもしない。
ただ、静かに水を飲む。
「お前さ」
男は、久遠を見た。
「変だよ」
「……そうですか」
「普通、こういう話、嫌がるか説教するかだろ」
男は、ふっと息を吐く。
「なのに、何も言わねえ」
久遠は答えない。
答えを出すつもりもなかった。
しばらくして、男は立ち上がった。
「悪いな、絡んで」
それだけ言って、去っていく。
最後まで、名乗らなかった。
久遠も、名を聞かなかった。
勘定を済ませ、酒場を出る。
夜風が、酔いを冷ます。
路地の先に、詰所の灯りが見えた。
久遠は立ち止まる。
(見なかったことは、出来る)
そう思いながら。
翌朝、久遠は再び、あの詰所の前に立っていた。
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