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逃げ切った先には何があるか  作者: エピファネス


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第15話 詰所

 朝の街は、思ったよりも騒がしかった。


 露店の呼び声。

 荷車の軋む音。

 遠くで鳴る鐘。


 久遠は、商人の荷車の横を歩いていた。


「悪いな。詰所まで運んでくれりゃいい」


 依頼主の商人は、そう言って軽く手を振る。

 荷は食糧――乾パンと塩漬け肉、それに樽詰めの水。


 街の中の移動。

 危険はない。

 報酬も、ドブ攫いよりはまし。


 久遠にとっては、断る理由のない仕事だった。


 ――少なくとも、始まるまでは。



 ◇◆◇



 衛兵の詰所は、街の外れにあった。


 簡素な石造りの建物。

 門の前には、数人の衛兵が立っている。


「食糧の運搬だ」


 商人が声をかけると、衛兵の一人が頷いた。


「そこに置いとけ」


 指示は雑だった。

 礼もない。


 久遠は荷を下ろしながら、周囲を見回す。


 ――視線が、引っかかった。


 詰所の奥。

 壁際に立つ、一人の衛兵。


 鎧は古く、手入れも行き届いていない。

 他の衛兵たちが笑いながら話している中、彼だけが輪に入っていなかった。


 声をかけられることもない。

 名前を呼ばれることもない。


 まるで、そこにいないかのように。


 胸の奥が、わずかにざわつく。


(……気のせいだ)


 久遠は、視線を逸らした。


 選ばない。

 踏み込まない。


 それが、ここまで生き延びてきたやり方だ。



 ◇◆◇



 詰所の中に入る。


 食糧袋が運び込まれ、数が数えられる。


「……一つ、足りねえな」


 衛兵の一人が言った。


「前からだ。気にするな」


 別の衛兵が笑いながら返す。


 前から?


 久遠の手が、止まる。


 商人は何も言わない。

 視線を逸らし、咳払いを一つ。


 ――寒気。


 一瞬だけ、背中を撫でるような感覚。


(また、か)


 久遠は、深く息を吸った。


 違和感。

 だが、決定的ではない。


 声に出すほどではない。

 出しても、信じられない。


 だから――


「……以上です」


 久遠は、そう言って一歩引いた。


 誰も引き止めなかった。



 ◇◆◇



 詰所を出る直前。


 あの衛兵と、目が合った。


 一瞬だけ。


 何かを言いたそうに、唇が動く。

 だが、声は出なかった。


 次の瞬間、別の衛兵が彼の肩を乱暴に叩く。


「おい、突っ立ってんな。片付けろ」


「……はい」


 短い返事。


 名前は、呼ばれない。


 久遠は、その場を離れた。


 歩きながら、胸の内が重くなる。


(見なかった)


(気づかなかった)


 そう言い聞かせる。


 だが――


「ほんとに?」


 聞き覚えのある声が、心の奥で響いた。


 女魔族の声。


『あの人、ちゃんと見てたよね』


 久遠は、唇を噛む。


『数、足りなかったでしょ』


『寒気、したでしょ』


 否定出来ない。


「……関係ない」


 小さく呟く。


『じゃあ、どうして』


 声が、少しだけ低くなる。


『名前、呼ばれてなかった人の顔、覚えてるの?』


 久遠の足が、止まった。


 思い出せる。


 はっきりと。


 疲れた目。

 古い鎧。

 何も言わず、耐える姿。


 ――忘れていない。


「……覚えてる」


『でしょ』


 女魔族は、笑っていない。


『選ばなかっただけ』


 胸の奥が、ひりつく。


 それは、責めではない。

 確認だ。


『ねえ、久遠』


『次も、同じことする?』


 答えは、出ない。


 だが。


 その日の夜。

 久遠は、詰所の方向を、もう一度だけ見た。


 知らないうちに、道は決まっていた。


 ――名前を呼ばれないままの人が、そこにいる限り。

数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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