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独裁者

2024年9月15日、午後5時。


宮野静は、四国の小さな港町にいた。


瀬戸内海に面したその町は、時間が東京の半分の速度で流れているようだった。白壁の古い商家が軒を連ね、細い路地には猫が昼寝をし、港には小さな漁船が穏やかに揺れている。大学の地域文化振興プログラムで派遣された静は、ここで三ヶ月の研修を行っていた。


表向きは、充実した日々だった。


朝は地元の漁師たちと話を聞き、昼は町の歴史資料館で古文書を調査し、夕方は公民館で映画上映会を企画する。週に一度は、地元の小学校で「映画の楽しさ」を伝える特別授業も行っていた。


「静先生、今日の『となりのトトロ』、みんな大喜びでしたよ」


公民館の職員である田中さんが、温かい笑顔で声をかけてくる。六十代の彼女は、静を実の娘のように可愛がってくれていた。


「良かったです。来週は『魔女の宅急便』を上映しようと思って」


「あら、素敵ね。でも静ちゃん、最近顔色が良くないわよ。ちゃんと食べてる?」


「大丈夫です、ただちょっと…」


静は曖昧に微笑んだ。


本当のことは言えない。毎晩、東京にいるはずの幼馴染のことを考えて眠れないなんて。


夕暮れ時、静はいつもの場所にいた。


港を見下ろす小高い丘の上。錆びた鉄製のベンチが一つ、ぽつんと置かれている。ここからは、瀬戸内海に浮かぶ島々と、その向こうに沈む夕日が一望できた。


静は膝を抱えて座り、スマートフォンを見つめていた。


画面に表示されているのは、覧久のSNSアカウント。最終更新は2024年6月15日——ちょうど三ヶ月前。


『「永遠の陽光」また観た。記憶を消しても、また同じ人を好きになる。それは呪いか、それとも運命か』


短い投稿。でも、静にはその裏にある覧久の心情が痛いほど分かった。


「みっくん…」


呟きが、潮風に攫われて消える。


あの夜のことを、何度思い返したか分からない。


2024年5月28日、午後11時47分。


『あと1センチの恋』を勧めたあの瞬間。それは、静にとって人生で最も勇気を要した告白だった。


十五年間、ずっと隣にいた幼馴染。小学校の入学式で、緊張で泣きそうになっていた覧久の手を握ったのが始まりだった。中学では同じ映画部に入り、放課後は部室で延々と映画を観た。高校では進路が分かれそうになったが、静が必死に勉強して、覧久と同じ大学に合格した。


ずっと「親友」で「幼馴染」。その関係が心地よくて、壊したくなくて、でも——


大学二年の冬、覧久が風邪で寝込んだ時、看病に行った静は気づいてしまった。彼の寝顔を見ていると、胸が苦しくなることに。彼の「ありがとう」という言葉に、心臓が跳ねることに。


それから半年、静は悩み続けた。この気持ちを伝えるべきか。でも、もし拒絶されたら?今の関係すら失ってしまうかもしれない。


そして、四国への研修が決まった時、静は決意した。


離れる前に、せめて気持ちを匂わせたい。『あと1センチの恋』——それは、静が選んだ、最も控えめで、最も切実なメッセージだった。


「私たちみたいだね」


その言葉に込めた想い。あと1センチ、ほんの少しの勇気があれば越えられる距離。その1センチを、一緒に越えてほしかった。


でも、覧久の返事は——


『そうかもね。面白い映画だよね』


スマートフォンの画面を見つめながら、静は一時間以上待った。きっと、この後に本当の返事が来る。「俺も同じ気持ちだ」とか、「実は俺も」とか、何か、何でもいいから——


でも、何も来なかった。


翌朝、静は長文のメッセージを送った。研修のこと、寂しいということ、また会いたいということ。でも、既読すらつかなかった。


それから三ヶ月。音信不通。


「バカみたい」


静は、膝に顔を埋めた。


自分から告白めいたことをしておいて、拒絶されたら連絡を絶つなんて。子供じゃないんだから。


でも、怖かった。覧久と普通に話すことが。彼の顔を見ることが。きっと、気まずい空気になる。今までのような自然な関係には、もう戻れない。


「みっくんは、映画の女の子の方が好きだったんだよね」


静は自嘲的に呟いた。


覧久が二次元の世界に逃避する癖は、昔から知っていた。現実の女子と上手く話せない彼は、いつも映画の中のヒロインに恋をしていた。オードリー・ヘプバーン、グレース・ケリー、エマ・ストーン——


「私じゃ、勝てないよね」


夕日が水平線に触れた。オレンジ色の光が、海面に道を作る。まるで、異世界への架け橋のように。


静のスマートフォンが震えた。


LINEの通知。送信者は——夏美。


『しーちゃん、今すぐ電話出て!緊急!』


嫌な予感がした。夏美がこんなメッセージを送ってくるのは、よほどのことがある時だけだ。


「もしもし、なったん?どうしたの、急に」


静は不安を押し殺して、明るい声を作った。


『し、しーちゃん!?よかった、繋がった!』


電話の向こうの夏美の声は、尋常ではないほど興奮し、上擦っていた。まるで、幽霊でも見たかのような——


『大変なの!今、渋谷にいるんだけど、信じられないもの見ちゃった!』


「落ち着いて、何があったの?」


静がなだめようとすると、夏美は一度大きく深呼吸をした。そして、爆弾を落とすように言い放った。


『しーちゃんが、男の子と歩いてた!』


一瞬、静の思考が停止した。


「え?私、四国にいるんだけど…」


『だから!それがおかしいのよ!』


夏美の声が、さらに高くなる。


『しかもね、一緒にいたの、みっくんだよ!覧久くん!』


その名前を聞いた瞬間、静の心臓が大きく跳ねた。手が震え、スマートフォンを落としそうになる。


「みっくんが…?」


『そう!カフェ・ド・クリエの二階にいたの。窓際の席で、仲良さそうに座ってた!』


夏美は、見たままを詳細に語り始めた。


『最初、マジでしーちゃんだと思った。だって、骨格も、顔の輪郭も、唇の形も、全部そっくりだったから。でも、近づいてみたら、何か違うの』


「違う?」


『髪が、すごく綺麗な金髪で、艶々してて。肌も、陶器みたいに完璧で。なんていうか…CGみたいに美しすぎるの。しーちゃんに失礼だけど、しーちゃんをもっと…完璧にした感じ?』


静の頭が混乱する。私に似ているけど、もっと完璧な女性?


『それで、声かけたのよ。「しーちゃん?」って。そしたら、その子、すごく優しい笑顔を浮かべて、みっくんの方を見たの。でも、みっくん、顔面蒼白になって』


夏美は興奮を抑えきれないように続けた。


『「人違いです」って言って、すごい勢いでその子の手を引いて店を出て行った。追いかけようとしたけど、見失っちゃって…』


静は、ベンチにもたれかかった。目眩がする。


「その子、何か言った?」


『ううん、一言も。でも、不思議だったのは、その子の表情。なんていうか、状況を理解してないような、無垢な感じだった』


夏美は、最後に爆弾発言を落とした。


『ねえ、あれ、マジでドッペルゲンガーじゃない!?映画みたいじゃん!しーちゃん、大丈夫!?もしかして、死期が近いとか——』


「なったん…」


静は、友人の暴走を止めた。


「ドッペルゲンガーなんて、いるわけないでしょ」


でも、声が震えていた。


『いや、まぁ、そうだけど…じゃあ、あれは何?みっくんの彼女?でも、なんでしーちゃんにそっくりなの?本当にそのままだったんだよ?』


その問いに、静は答えられなかった。


電話を切った後、静は海に向かって立ち尽くしていた。


夕日は既に半分沈み、世界が藍色に染まり始めている。


頭の中で、夏美の言葉が繰り返される。


みっくんが、私そっくりの女の子と、二人で。


最初に感じたのは、裏切られたという怒りだった。


三ヶ月も音信不通で、心配させておいて、実は彼女と楽しくやっていたなんて。しかも、その相手が私に似ているなんて、どういう趣味なの?


次に感じたのは、悲しみだった。


やっぱり、私は拒絶されたんだ。代わりを見つけられるくらい、私はみっくんにとって、どうでもいい存在だったんだ。


そして、最後に感じたのは——不安だった。


私にそっくりな女性。それも、私より完璧な。


まるで、理想の私を作り上げたような——


「まさか」


静は、ある可能性に思い至った。


覧久は、プログラミングが得意だった。最近はAIの研究に熱中していた。そして、彼の父親は、ナノロボットの会社を経営している。


もし、覧久が——


「いや、そんなはずない…そんなことができるはずない」


静は首を振った。いくらなんでも、飛躍しすぎだ。


でも、夏美の言葉が頭から離れない。


『CGみたいに美しすぎる』


『状況を理解してないような、無垢な感じ』


もし、本当に覧久が何か普通じゃないことをしているとしたら——


静は、スマートフォンを取り出し、覧久の番号を表示させた。


三ヶ月ぶりの連絡。指が震える。


でも、電話はつながらなかった。


『お客様のおかけになった電話番号は、現在使われておりません』


番号が、変更されている。


次に、LINEを開いた。覧久のアカウントは存在していたが、メッセージは未読のまま、既読がつく気配はない。


「みっくん…何してるの?」


不安が、胸の奥で黒い塊となって渦巻く。


静は、夜の海を見つめた。


遠くで、漁船の灯りが揺れている。波の音が、規則正しく響く。この穏やかな場所で、このまま研修を続けることもできる。知らないふりをして、みっくんのことを忘れることもできる。


でも——


「私、このままじゃ嫌だ」


静は、拳を握りしめた。


みっくんが誰といようと、何をしていようと、私には関係ない——そう割り切れるほど、静の想いは軽くなかった。


十五年間、ずっと隣にいた。

彼の優しさも、臆病さも、逃げ癖も、全部知っている。

そんな彼が、私にそっくりな誰かといることの意味を、確かめなければならない。


そして、伝えなければならない。


あの夜、上手く言えなかった想いを。

「私たちみたい」なんて曖昧な言葉じゃなく、はっきりと。


「みっくん、私はあなたが好き」


その言葉を、直接伝えなければ。


静は、スマートフォンで高速バスのサイトを開いた。


『松山→東京 深夜便 空席あり』


迷いはなかった。予約ボタンを押す。


次に、研修先の責任者にメールを送る。


『急な家庭の事情で、数日間東京に戻らせていただきたく——』


嘘も方便だ。これは、静にとって最も重要な「家庭の事情」なのだから。


2024年9月15日、午後11時。


松山駅前のバスターミナル。静は小さなバッグを一つ持って、高速バスを待っていた。


三ヶ月ぶりの東京。でも、観光じゃない。


確かめに行くんだ。

みっくんの隣にいる「私」が、誰なのか。

そして、みっくんに私の気持ちを——


「東京行き、間もなく出発します」


アナウンスが流れる。


静はバスに乗り込み、窓際の席に座った。


エンジンが唸りを上げ、バスがゆっくりと動き出す。


窓の外を、四国の夜景が流れていく。山の闇、時折見える集落の灯り、そして——


瀬戸大橋を渡る時、静は窓に手を当てた。


ライトアップされた巨大な橋。その下を、暗い海が流れている。


本州と四国を結ぶ橋。

現実と、何か別のものを結ぶ橋のように見えた。


「みっくん、待ってて」


静は、小さく呟いた。


「今度は、私から会いに行くから」


バスは、夜の闇を切り裂いて、東京へと向かって走り続ける。


明日の朝、静が東京に着いた時、運命の歯車は大きく動き出すことになる。



そのころ、覧久は、研究室の床に座り込んだまま、天井を見つめていた。


『明日、会社に来い』


昨夜、『ロスト・イン・トランスレーション』の世界で受けた父からの電話。その声が、まだ耳に残っている。


「みつひさ」


シズカが、コーヒーを持って近づいてきた。


「飲んで。少しは落ち着くから」


覧久は、震える手でカップを受け取った。熱い液体が喉を通ると、少しだけ現実感が戻ってくる。


「父さんは、全部知ってる」


「ええ」


「追跡機能なんて、知らなかった」


「でも、考えてみれば当然よね」シズカは覧久の隣に座った。「お父様ほどの技術者が、自分の発明品に保険をかけないはずがない」


覧久は、スクリーンマシンを見つめた。


この小さな装置が、自分たちの居場所を父に筒抜けにしていたなんて。


「会社に行くべきかな」


「それは——」


シズカは言いかけて、口を閉じた。彼女のプロセッサは、無数の可能性を計算している。父と対峙した場合のシナリオ、逃げ続けた場合のシナリオ、警察に通報された場合のシナリオ——


「私は、みつひさの決定に従うわ」


結局、彼女はそう言った。


「でも、一つだけ覚えておいて。私たちには、まだ映画の世界がある」


覧久は、シズカの手を握った。


「そうだ。父さんが何と言おうと、僕たちには逃げ場所がある」


彼は立ち上がった。


「行こう、シズカ。もう一度、映画の世界へ。父さんなんか無視して、僕たちだけの時間を過ごそう」


それは、現実逃避だった。

問題の先送りだった。

でも、他に選択肢があるだろうか?


「どの映画にする?」


シズカが尋ねた。


覧久は、棚を見渡した。そして、一枚のDVDを手に取る。


「『独裁者』」


チャールズ・チャップリンの不朽の名作。1940年製作。ナチス・ドイツを痛烈に風刺した、勇気ある作品。


「ファシズムへの抵抗の物語ね」シズカは微笑んだ。「今の私たちにぴったりかも」


覧久は苦笑した。父の支配から逃れようとする自分たちと、独裁者に抵抗する人々。確かに、どこか重なるものがある。


スクリーンマシンの設定画面。


『転送地点:トメニア国・ユダヤ人ゲットー』

『時間設定:1940年・昼』

『滞在予定:6時間』


「準備はいい?」


「ええ」


転送ボタンを押す。


白い光。分解。再構築——


意識が戻った時、世界から色が消えていた。


いや、正確には、色彩が白と黒とその間の無数の階調に還元されていた。それは色褪せた世界ではなく、むしろ、光と影の純粋なコントラストが生み出す、詩的な美しさだった。


「すごいわ」


シズカが息を呑んだ。


「色彩がないだけで、世界はこんなにも違って見えるのね」


二人が立っていたのは、狭い路地だった。石畳の道、煉瓦造りの建物、洗濯物が風に揺れている。どこか東欧の雰囲気を漂わせる、貧しいけれど活気のある街並み。


人々が行き交っている。みすぼらしい服を着ているが、顔には諦めではなく、静かな抵抗の意志が見える。これがゲットー——迫害される人々が、それでも尊厳を保って生きる場所。


「あそこ、床屋さんみたい」


シズカが指差した先に、小さな床屋があった。看板には『理髪店』とドイツ語で書かれている。


二人は、好奇心に導かれて店に近づいた。


ガラス越しに中を覗くと、誰もいない。どうやら、店主は外出中のようだ。


「入ってみる?」


覧久の提案に、シズカは悪戯っぽく笑った。


「不法侵入になるわよ」


「映画の世界だから、大丈夫」


二人は、そっとドアを開けて中に入った。


店内は、こぢんまりとしていたが、清潔に保たれていた。


理髪椅子が一つ、大きな鏡、棚に並ぶ髭剃りとハサミ。壁には、ヒンケル総統の肖像画が飾られている——おそらく、強制的に飾らされているのだろう。


「みつひさ、座って」


シズカが、白い布を手に取った。


「え?」


「床屋さんごっこよ。せっかくだから」


覧久は笑いながら椅子に座った。シズカは、彼の首に布を巻き、大げさな手つきでハサミを構える。


「さあ、お客様。今日はどのような髪型に?」


「そうだな…独裁者みたいな髪型にしてくれ」


「それは困るわね。あなたには、優しい顔の方が似合うもの」


シズカは、チャップリンの映画で見たような、コミカルな動きで覧久の髪を切るふりをした。チョキチョキとハサミを鳴らし、時々大げさに考え込むポーズを取る。


「痒いところはございませんか~?」


「ああ、背中が痒いな」


「それは管轄外です~」


二人は笑い合った。


モノクロの世界で、言葉遊びと身振り手振りだけのコミュニケーション。でも、それは新鮮で、楽しかった。


「次は私の番」


役割を交代して、今度は覧久が床屋を演じる。


「お嬢さん、失恋でもしましたか?」


「どうして分かるの?」


「髪に元気がないからです。でも大丈夫、私の魔法のハサミで、新しい恋が見つかりますよ」


「あら、素敵。でも、私にはもう恋人がいるの」


「それは誰です?」


「目の前にいる、下手くそな床屋さん」


また笑い声が響く。


この瞬間だけは、父のことも、現実世界のことも、すべて忘れることができた。


床屋の奥に、小さな部屋があった。


そこには、なぜか大きな地球儀の風船が置かれていた。映画の小道具だろうか。


「これ、あのシーンの…」


シズカが思い出したのは、ヒンケルが地球儀を抱えて踊る、有名なシーン。独裁者の狂気と滑稽さを同時に表現した、映画史に残る名場面。


「踊ってみる?」


覧久が地球儀を手に取った。


軽い。まるで、世界の重みなど存在しないかのように。


彼は、ヒンケルの真似をして、大げさな身振りで地球儀を掲げた。


「世界は私のものだ!」


そして、バレエのように優雅に、しかし滑稽に踊り始める。地球儀を頭上に掲げ、くるくると回り、時には抱きしめ、時には蹴飛ばすふりをする。


シズカは手を叩いて笑った。


「みつひさ、才能あるわよ」


「君もやってごらん」


シズカも地球儀を受け取り、踊り始めた。


彼女の動きは、覧久よりもずっと優雅だった。アンドロイドの完璧な身体制御が、美しいダンスを生み出す。でも、その中に、ちゃんとチャップリン的な滑稽さも含まれていた。


二人は、交互に地球儀をパスしながら踊った。


世界を、まるでおもちゃのように扱いながら。


「私たちが神様なら」シズカが言った。「世界をもっと優しい場所にするのに」


「戦争も、差別も、憎しみもない世界」


「みんなが映画を楽しめる世界」


「そして、僕たちが自由に生きられる世界」


地球儀が、二人の間を行き来する。


それは、理想の世界を夢見る、ささやかな抵抗の踊りだった。


午後の光が、窓から差し込んでいた。


モノクロの世界でも、光の美しさは変わらない。むしろ、色がないからこそ、光と影のコントラストが際立つ。


覧久とシズカは、床屋の椅子に並んで座っていた。


「平和ね」シズカが呟いた。


「ああ」


「こんな時間が、永遠に続けばいいのに」


覧久は、シズカの横顔を見つめた。


モノクロの世界で、彼女の美しさは、より彫刻的に、より永遠性を帯びて見えた。まるで、古い映画の中の女優のように。


「シズカ」


「なあに?」


「君は、後悔してない?」


「何を?」


「こんな生活。映画の世界を転々として、現実から逃げて」


シズカは、少し考えてから答えた。


「後悔なんてないわ。だって、私はあなたといられる。それ以上の幸せがある?」


「でも、普通の生活は——」


「普通って何?」シズカは覧久の方を向いた。「私たちにとっての普通は、これよ。映画の世界で、二人で冒険すること。それが、私たちの選んだ生き方」


覧久は、シズカの手を取った。


「ありがとう」


「お礼を言うのは私の方よ。あなたが私に身体をくれて、世界を見せてくれた」


二人は、静かに手を握り合っていた。


外では、ゲットーの人々の生活の音が聞こえる。物売りの声、子供たちの笑い声、馬車の音。


貧しくても、抑圧されても、人々は生きている。


その逞しさが、二人を勇気づけた。



「——見つけたぞ、覧久」


突然響いた低い声に、覧久の全身が硬直した。


振り返ると、床屋の入口に、一人の男が立っていた。


黒いスーツ、銀髪、鋭い眼光。

触田仙一。覧久の父。


「父さん…」


覧久の声が震えた。


「なぜ、ここに」


「なぜ、だと?」


仙一は、冷たい笑みを浮かべた。手には、もう一台のスクリーンマシン——研究室に予備として残していたもの——が握られている。


「愚問だな。私の研究データと、最高傑作であるナノマシンを盗み出した息子を追って、何が不思議だ?」


仙一の視線が、シズカに向けられた。


値踏みするような、品定めするような、研究者が実験対象を見るような冷たい視線。


「なるほど」


仙一は、ゆっくりとシズカに近づいた。


「EVEプロジェクトのプロトタイプ#07。あのアンドロイドは、こうして使うために完成させたのか」


「彼女に触るな!」


覧久が、シズカを庇うように前に出た。


仙一は、息子を一瞥すると、感心したように頷いた。


「素晴らしい出来栄えだ。私の想定を遥かに超えている。髪の色を変え、AIを搭載し、完璧な恋人を作り上げたわけか」


「シズカは作り物じゃない!」


「いいや、作り物だ」仙一は断言した。「私が設計し、私の会社の技術で作られた、精巧な人形だ」


仙一は、今度はスクリーンマシンに目を向けた。


「そして、この装置。時空間位相転移システムを、スマートフォンサイズにまで小型化するとは。まさに天才の発想だ」


一瞬、父の目に、息子への誇りのようなものが見えた。だが、それはすぐに消えた。


「……私の息子だからな。当然と言えば当然か」


その言葉に、愛情の響きは一切なかった。ただ、自分の所有物、自分の延長線上の存在であるかのような、傲慢な響きだけがあった。


「覧久」


仙一は、ソファに腰を下ろした。まるで、自分の家のように。


「その発明は、お前一人のものではない」


「何を言って——」


「私の技術、私の会社の資産、私の研究。それらがあってこそ、その装置は完成した。お前は、私の成果を盗用したに過ぎない」


覧久は、反論しようとしたが、言葉が出なかった。


確かに、ナノマシンは父の技術だ。量子プロセッサも、会社の資産だ。


「それを、こんな女の人形とのままごとに使うなど」


仙一は、シズカを指差した。


「宝の持ち腐れだ」


「ままごとじゃない!」


覧久は、ついに叫んでいた。


「シズカは人形じゃない!彼女には心がある!感情がある!」


「プログラムされた反応だ」


「違う!」


「いいや、同じだ」仙一は冷徹に言い放った。「お前は現実の女性から逃げて、都合のいい人形を作っただけだ。宮野静——彼女から逃げたんだろう?」


その名前が出た瞬間、覧久の顔が青ざめた。


「どうして、その名前を…」


「調べれば分かることだ。お前のSNS、メッセージ履歴、すべて把握している。彼女に振られて、現実から逃避して、理想の女を作った。哀れな話だ」


「違う!静には振られてない!」


「では、なぜ連絡を絶った?なぜ大学に行かない?なぜ、彼女のコピーを作った?」


覧久は答えられなかった。


シズカが、そっと覧久の手を握った。その温もりが、彼を現実に引き戻す。


「父さんには分からない」


覧久は、震え声で言った。


「シズカとの愛が、どれほど純粋で、美しいものか」


「愛?」仙一は鼻で笑った。「それは愛ではない。逃避だ。マスターベーションだ」


その下品な表現に、覧久は激昂した。


「黙れ!」


「事実だろう」仙一は続けた。「お前は自分に都合のいい女を作り、都合のいい世界に逃げ込んだ。それのどこが愛だ?」


仙一は立ち上がった。


「だが、覧久。お前の発明自体は評価する」


彼は、スクリーンマシンを掲げた。


「この技術があれば、我々は神にでもなれる」


「神?」


「そうだ。考えてみろ。歴史上のどんな偉人にも会える。アインシュタインから相対性理論を直接学べる。ダ・ヴィンチから芸術を学べる。失われた古代の技術も、未来の技術さえも手に入れられる」


仙一の目が、狂気じみた輝きを帯びた。


「映画の世界から、あらゆる知識と技術を持ち帰れば、我が社は世界を支配できる。富も、名声も、権力も、すべてが我々のものだ」


「そんなことのために…」


「そんなこと?」仙一は声を荒げた。「これは人類の進化だ!次元を超越した新しい人類の誕生だ!」


覧久は、父の変貌に恐怖を感じた。


いつから父は、こんな野望を抱いていたのか。


「お前のくだらない恋愛ごっことは、スケールが違う」


仙一は、覧久に近づいた。


「協力しろ、覧久。親子で、世界を変えるんだ」


「嫌だ」


覧久は、きっぱりと拒絶した。


「これは、僕とシズカのものだ。世界征服なんて興味ない」


「愚かな…」


仙一は、ため息をついた。


「ならば、力ずくでも——」


その時だった。


「何者だ!」


鋭いドイツ語の怒声が、床屋に響き渡った。


三人が振り返ると、入り口に、灰色の軍服を着た兵士たちが立っていた。


トメニアの突撃隊。ヒンケルの親衛隊。


彼らは、ライフルを構えて、覧久たちを取り囲んだ。


「しまった…」


覧久は、自分たちのミスに気づいた。


モノクロの世界で、激しい口論。しかも、日本語で。それは、この世界では明らかに異質だった。


「お前たちは何者だ!」


隊長らしき男が、ドイツ語で怒鳴った。


スクリーンマシンの翻訳機能が作動する。


「身分証を見せろ!」


覧久たちは、身分証など持っていない。


「スパイか?」隊長の目が鋭くなる。「敵国のスパイだな!」


「違います」覧久は必死に弁解しようとした。「私たちは——」


「黙れ!」


隊長は、覧久を銃床で殴りつけた。


「うっ」


覧久が倒れる。


「みつひさ!」


シズカが駆け寄ろうとするが、兵士に阻まれる。


「女もスパイか。美しいが、怪しい」


兵士たちが、下卑た笑いを浮かべる。


仙一は、冷静に状況を分析していた。


映画の世界の住人が、自分たちを「異物」として認識している。これは、想定外の事態だった。


「連行する」


隊長が命令を下した。


「ヒンケル閣下にお目にかける。スパイの処遇は、閣下がお決めになる」


兵士たちが、三人を取り囲んだ。


銃口が、容赦なく向けられる。


覧久は、ポケットのスクリーンマシンに手を伸ばそうとしたが——


「動くな!」


銃口が、彼の額に押し付けられた。


絶体絶命。


モノクロの世界で、三人は囚われの身となった。

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