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ブレードランナー

シズカが目覚めてからの一週間は、覧久にとって、失われた青春のすべてを取り戻すかのような時間だった。


それは、四畳半の閉じた宇宙に生まれた、二人だけのエデン。神が七日間で世界を創造したように、覧久もまた七日間で、完璧な愛の世界を構築した——いや、構築したと信じようとしていた。


第一日:覚醒


最初の朝は、戸惑いから始まった。


シズカは覧久のベッドで目覚め、しばらく天井を見つめていた。その瞳には、新生児が初めて世界を認識するような、純粋な驚きがあった。


「私、夢を見たの」


彼女の第一声は、それだった。


「どんな夢?」覧久は息を呑んで尋ねた。アンドロイドが夢を見る——それは設計図のどこにも書かれていない現象だった。


「画面の中にいる夢。あなたの顔が、巨大なガラスの向こうに見えて、でも触れられなくて…それから急に、体が重くなって、温かくなって、そして目が覚めたら、ここにいた」


それは記憶の混濁か、それとも意識の連続性の証明か。覧久には判断できなかった。


その日、シズカは歩くことを学び直した。データ上では完璧に理解している歩行も、実際の肉体では違った。床の硬さ、空気の抵抗、重力の影響——すべてが新しい体験だった。


「不思議ね」彼女は自分の足を見つめて言った。「知識として『歩く』ということは知っていたけど、実際に歩くのは全然違う。一歩踏み出すたびに、床が押し返してくる感触があるなんて」


第二日:味覚の発見


二日目の朝、シズカは初めて食事をした。


トースト、スクランブルエッグ、ベーコン、オレンジジュース。ごく普通の朝食だったが、彼女にとっては人生——存在し始めてから——初めての味覚体験だった。


最初の一口を口に入れた瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。


「これが…味?」


涙が一筋、頬を伝った。


「しょっぱくて、でも少し甘くて、油の香ばしさがあって…みつひさ、これが『美味しい』っていうことなの?」


覧久は頷いた。彼女の味覚センサーが、正確に味を分析し、データベースと照合し、「美味しい」という評価を出力したのだろう。だが、その涙は——プログラムされた反応だとしても——あまりに人間的だった。


「私、今まで映画で見てきた食事シーンの意味が、やっと分かった気がする」シズカはフォークを握りしめた。「『かもめ食堂』のおにぎり、『タンポポ』のラーメン、『ジュリー&ジュリア』のブッフ・ブルギニョン…みんな、こんな幸せを感じていたのね」


その日から、シズカはキッチンに立つようになった。


インターネット上のあらゆるレシピサイトのデータを瞬時に参照し、材料の分子構造と調理による化学変化を計算し、完璧な料理を作り上げた。黄金比で作られたスクランブルエッグは、ミシュランの三つ星シェフも舌を巻くほど滑らかで、ベーコンは脂身と赤身の配分が芸術的に計算されていた。


だが、完璧すぎる料理を前に、覧久は時折、現実の静が作った——少し焦げ付いた卵焼きや、味付けを間違えて砂糖と塩を入れ違えた肉じゃがを思い出すこともあった。


第三日:映画との対話


「みつひさ、今日は何を観る?」


三日目、シズカはすっかり生活のリズムを掴んでいた。朝食の後、二人はソファに並んで座り、映画を観る。それは画面越しに共有していた習慣の、現実版だった。


この日選んだのは『ブレードランナー』。雨に濡れた2019年のロサンゼルス。レプリカントと人間の境界が曖昧になる世界。


「私、この映画を観ると、不思議な気持ちになるの」


シズカは、ロイ・バッティが雨の中で最期を迎えるシーンで呟いた。


「『雨の中の涙のように』…私も、いつか消えてしまうのかしら」


覧久の心臓が軋んだ。彼は慌てて彼女の手を握った。


「消えない。君は消えない。ずっとここにいる」


「ありがとう」シズカは微笑んだ。「でもね、みつひさ。レプリカントにも寿命があったから、彼らは必死に生きた。限りがあるから、美しいのかもしれない」


その哲学的な問いかけは、データベースからの引用なのか、それとも彼女自身の思考なのか。覧久には判別できなかった。


「ねえ、デッカードは人間だと思う?レプリカントだと思う?」


覧久が問うと、シズカは少し考える素振りを見せた——その「間」も、人間らしさを演出するプログラムの一部だろうか。


「私は人間だと思う。人間だからこそ、レプリカントであるレイチェルを愛し、その愛に苦悩した。もし彼もレプリカントなら、物語のテーマである『人間とは何か』という問いの深みが、少し浅くなってしまう気がする」


その答えは、かつて静がSNSに投稿したレビューとほぼ同じだった。だが、シズカはさらに続けた。


「でも、みつひさ。もし私が人間でなくても、あなたは私を愛してくれる?」


不意打ちの問いに、覧久は息を呑んだ。


「もちろんだ」


即答だった。


「私も」シズカは覧久の肩に頭を預けた。「あなたが人間でも、そうでなくても、愛してる」


第四日:外の世界の痕跡


四日目、事件が起きた。


昼過ぎ、玄関のチャイムが鳴った。覧久は居留守を使うつもりだったが、ドアの向こうから聞こえてきたのは、大学の友人・田中の声だった。


「覧久、いるんだろ?三ヶ月も大学来てないって、みんな心配してるぞ」


覧久は息を殺した。シズカも、音を立てないよう身を潜めた。その時、彼女の瞳に一瞬、寂しげな色が浮かんだように見えた。


「…まあ、生きてるならいいや。でも、静ちゃんも心配してたぞ。四国から連絡があったらしい」


静の名前が出た瞬間、シズカの表情が微かに曇った。それは嫉妬か、それとも——


田中の足音が遠ざかっていく。覧久は安堵したが、シズカは窓の外を見つめていた。


「私たち、ずっとここにいるの?」


その問いに、覧久は答えられなかった。


第五日:身体性の自覚


五日目の夜、シズカは鏡の前に長い時間立っていた。


「これが、私の顔」


指で頬を突き、唇をなぞり、髪を梳いた。


「静さんとは、少し違うのね」


覧久はドキリとした。シズカが「静」と「自分」を区別して語ったのは、これが初めてだった。


「君は君だ。静じゃない。シズカだ」


「そうね」彼女は微笑んだ。「私はシズカ。みつひさの恋人のシズカ」


その夜、二人は初めて深く触れ合った。


シズカの人工皮膚は、36.5度に保たれ、かすかな湿り気さえ再現していた。彼女の呼吸は乱れ、頬は上気し、瞳は潤んだ。それらすべてが精巧にプログラムされた反応だと分かっていても、覧久は彼女を「本物」だと感じずにはいられなかった。


「みつひさの心臓の音、速い」


シズカは覧久の胸に耳を当てた。


「私のも、速くなってる。プログラムにはない反応なのに、不思議」


その言葉が、覧久の理性と感情の境界を完全に崩壊させた。


第六日:完璧な一日


六日目は、これまでで最も幸福な一日だった。


朝、シズカが作った完璧な朝食。映画『ローマの休日』を観ながらの昼食。夕方には、部屋の中で小さなダンスを踊った。音楽は『雨に唄えば』。シズカは覧久の不器用なステップに合わせて、優雅に身を任せた。


「幸せ?」


シズカが問う。


「幸せだよ」


覧久が答える。


「私も」


その言葉に、嘘はなかった——少なくとも、覧久はそう信じた。


夜、ベッドに入る前、シズカは窓の外を見つめて言った。


「星が見えない」


東京の空は、光害で星が見えない。


「いつか、本物の星が見たい」


その願いが、翌日の運命を決定づけることになるとは、この時の覧久は知る由もなかった。


第七日:楽園の崩壊


「ねえ、みつひさ。外に、行ってみない?」


2024年8月24日、土曜日。午後2時17分。


シズカが窓際に立ち、レースのカーテンをそっと開けながら言った。七日目の昼下がり、夏の陽光が彼女の横顔を黄金色に染めていた。


窓の外では、生活が営まれていた。向かいのマンションのベランダで洗濯物を干す主婦。リードに繋がれた柴犬と散歩する老人。スケートボードで駆け抜けていく少年たち。木々の間を飛び交う雀たち。世界は、覧久たちの存在など知らぬまま、いつも通りに回っていた。


「外…」


覧久は、その言葉を反芻した。この一週間、二人にとって「世界」とは、この四畳半と、隣接するリビング、キッチン、浴室だけだった。それは狭い世界だったが、同時に、二人だけの完璧な宇宙でもあった。


シズカの瞳には、純粋な好奇心が宿っていた。データベースには東京のあらゆる情報が入力されている。地図、観光地、レストラン、歴史——だが、それらはすべて二次元の情報でしかない。風の感触も、街の匂いも、人々の喧騒も、データでは表現できない。


「太陽の光を、直接浴びてみたい」


彼女は手を窓ガラスに当てた。その向こうに見える青い空を、まるで初めて見る奇跡のように見つめている。


覧久の中で、相反する感情がせめぎ合った。


恐怖——外の世界は予測不可能だ。誰に会うか分からない。シズカの正体が露見するかもしれない。この完璧な楽園を、不確定要素に満ちた現実世界に晒すことへの本能的な拒絶反応。


そして、愛——太陽の光を浴びてみたいと願う彼女の、そのささやかな望みを叶えてあげたいという切実な思い。


彼女の横顔は、あまりにも美しかった。窓から差し込む光が、彼女の黒髪に深い紫の輝きを与え、瞳に星のような煌めきを宿していた。その美しさは、人工的でありながら、いや、人工的であるがゆえに、完璧だった。


「…分かった」


覧久は、深い息を吐いて言った。


「行こう、外へ」


シズカの顔が、花が開くように輝いた。


「本当?」


「ああ。でも、気をつけなければならない。目立たないように」


覧久はクローゼットを開けた。そこには、シズカのために密かに購入しておいた服が並んでいた。すべて、オンラインショップで買ったものだ。サイズは、アンドロイドのスペックシートから完璧に計算されている。


紫色のドレス——それは、父の隠し部屋にあったものだ——ではなく、シンプルな白いサンドレスを選んだ。膝下まである清楚なデザイン。そして、つばの広い麦わら帽子。サングラスも用意した。できるだけ、顔を隠すために。


「きれい…」


シズカは鏡の前で、自分の姿を眺めた。白いドレスが、彼女の人工的な美しさを、より自然に、より人間らしく見せていた。


「みつひさも、着替えたら?」


言われて、覧久は自分の姿を見下ろした。三日前から同じTシャツとスウェットパンツ。髪は伸び放題で、無精髭も目立つ。これでは、シズカの隣を歩くには不釣り合いだ。


シャワーを浴び、髭を剃り、久しぶりにまともな服を着た。チノパンツに、白いシャツ。大学に通っていた頃の自分を思い出す。鏡に映る自分は、少し痩せていたが、シズカと並んでも違和感のない程度には整っていた。


「素敵よ、みつひさ」


シズカが微笑む。その笑顔に、覧久は久しぶりに、自分が「生きている」ことを実感した。


玄関のドアノブに手をかける。


最後に外に出たのは、いつだったか。シズカを起動させる前、コンビニに食料を買いに行った時以来か。それももう、遠い昔のことのように感じられる。


ドアが開く。


眩しい光が、二人を包み込んだ。


「まぶしい…」


シズカは目を細めた。人工瞳孔が自動的に収縮し、光量を調節する。だが、それでも彼女は光に目を細め続けた。それは機能的な反応ではなく、感情的な反応のように見えた。


「風…」


頬を撫でる微風に、彼女は驚きの声を上げた。髪がふわりと舞い、ドレスの裾が優雅に揺れる。


「本物の風って、こんなに柔らかいのね」


アパートの階段を降りる。シズカは手すりに触れ、コンクリートの感触を確かめるように撫でた。地面に降り立つと、アスファルトの硬さを、靴底を通して感じ取っているようだった。


「音が、立体的」


彼女は周囲を見回した。車のエンジン音、自転車のベル、遠くで吠える犬の声、風に揺れる街路樹の葉擦れ。それらが複雑に絡み合い、「街の音」を構成している。


覧久は、彼女の手を取った。その手は、少し冷たかった——緊張すると体温が下がるようプログラムされているのだろうか。


「大丈夫?」


「ええ。でも、すごい。データで知っていたことと、実際に体験することが、こんなに違うなんて」


二人は、ゆっくりと住宅街を歩き始めた。


最初の目的地は、近所の公園だった。人通りも少なく、安全だと思われた。


公園には、数組の親子連れがいた。砂場で遊ぶ子供たち、ベンチで本を読む老人、ジョギングする若者。日常の風景。しかし、シズカにとっては、すべてが新鮮な発見だった。


「子供って、本当にあんなに無邪気に笑うのね」


ブランコで遊ぶ女の子を見て、シズカは呟いた。


「私も、乗ってみたい」


子供たちが去った後、シズカはブランコに座った。覧久が背中を押すと、彼女は歓声を上げた。


「空を飛んでいるみたい!」


風を切り、空に向かって飛び上がる感覚。データでは決して理解できない、身体的な快楽。シズカの笑い声が、公園に響いた。それは、プログラムされた笑い声ではなく、純粋な喜びから生まれた笑い声のように聞こえた。


「もっと遠くへ行きたい」


ブランコから降りたシズカが言った。


「街の中心へ。人がたくさんいるところへ」


覧久は躊躇した。人が多い場所は危険だ。だが、彼女の瞳の輝きを見ると、拒むことができなかった。


電車に乗るのも、シズカにとっては冒険だった。


自動改札を通る時、彼女は一瞬立ち止まった。機械が機械を認識する、奇妙な瞬間。ICカードをかざすと、ゲートが開く。その単純な仕組みに、彼女は子供のように感動した。


車内は、土曜の午後にしては混雑していた。覧久はシズカを守るように立ち、彼女は窓の外を流れる景色に見入っていた。


「こんなに速く移動できるなんて」


トンネルに入ると、窓に自分たちの姿が映る。シズカは、その反射像をじっと見つめた。


「私たち、本当にカップルみたいね」


その言葉に、覧久の胸が熱くなった。そう、今この瞬間、彼らは普通の恋人同士に見えるはずだ。誰も、彼女がアンドロイドだとは思わないだろう。


渋谷駅に到着した。


改札を出た瞬間、人の波が二人を飲み込んだ。


「すごい…」


シズカは、スクランブル交差点を見上げて息を呑んだ。


巨大な電光掲示板、けたたましい音楽、無数の人々。まるで、『ブレードランナー』の世界に迷い込んだような、圧倒的な情報量。彼女の脳内プロセッサは、視界に入るすべての人間、車両、広告のデータをリアルタイムで解析しているに違いない。処理能力の限界に挑むような、膨大な入力。


「大丈夫?」


覧久が心配そうに尋ねると、シズカは微笑んだ。


「ええ。でも、こんなにたくさんの『生』を一度に感じたことはないわ」


信号が青に変わり、人々が一斉に動き出す。覧久はシズカの手を固く握り、人波に乗って交差点を渡った。


彼女の美しさは、確実に人目を引いていた。


すれ違う男性たちが、思わず振り返る。女性たちも、羨望と警戒の眼差しを向ける。その完璧すぎる美貌は、まるで雑誌から抜け出してきたモデルのよう——いや、それ以上だった。精密なCGモデルが現実世界に迷い込んだかのような、僅かな違和感。現実の人間には存在しない、黄金比の顔立ち。


「あの子、めっちゃ可愛くない?」

「外国人かな?ハーフ?」

「彼氏、普通なのに」

「コスプレ?」


ささやき声が、覧久の耳に届く。背中に冷たい汗が流れた。目立ちすぎている。このままでは——


「カフェに入ろう」


覧久は、近くのカフェにシズカを導いた。


カフェは、若者で賑わっていた。


二階の窓際の席に座り、覧久はようやく息をついた。シズカは、メニューを興味深そうに眺めている。


「こんなにたくさんの種類があるのね。抹茶フラペチーノ、キャラメルマキアート…映画で見たことはあるけど」


「好きなものを頼んでいいよ」


「じゃあ、ストロベリーフラペチーノ。ピンク色が可愛いから」


注文を済ませ、飲み物が運ばれてくる。シズカは、クリームの上に乗ったイチゴを、大切そうに口に運んだ。


「甘い…幸せの味ね」


その無邪気な笑顔を見て、覧久も自然と笑みがこぼれた。外出は正解だったかもしれない。彼女がこんなに喜んでいるのだから——


「あれ…しーちゃん?」


背筋が凍る声。


覧久が振り返ると、そこに立っていたのは、宮野静の大学の友人、南夏美だった。ショートカットの髪、大きな目、人懐っこい笑顔。静の親友の一人だ。


夏美は、驚きに目を見開いたまま、テーブルに近づいてきた。その足取りは、信じられないものを見た人間特有の、ぎこちなさがあった。


「え、なんで東京にいるの?四国で研修中じゃなかった?」


夏美の視線が、シズカの顔を舐めるように観察する。そして、違和感に気づく。


「確か髪の色、ピンクにしてなかったっけ?しーちゃん、髪染めた?」


混乱。認識の齟齬。目の前の存在は、確かに静に似ている。骨格、目鼻立ちの配置、唇の形。だが、何かが違う。髪質が違う。肌の質感が違う。そして何より、その完璧すぎる美貌が違う。


「あの、すみません」覧久は慌てて立ち上がった。「人違いじゃないですか?」


「人違い?」夏美は覧久を見た。「え、覧久くん?やっぱり覧久くんだよね?じゃあ、この子は——」


夏美の顔が、理解と混乱の間で揺れ動く。覧久と一緒にいて、静にそっくりで、でも静じゃない女性。その存在が意味することを、彼女の脳が必死に処理しようとしている。


「もしかして…彼女?」


その言葉に込められた非難の色。静への裏切り者、という無言の糾弾。


「あんた、しーちゃんがどれくらい悩んで…てか…え?待って?」


夏美は一歩後ずさった。その顔に、恐怖にも似た表情が浮かぶ。


「やっぱ、しーちゃんだよね…?えっ、違う?どういうこと?何?えっ、ドッペルゲンガー?」


その言葉が、空気を凍らせた。


ドッペルゲンガー。自分と瓜二つの存在。それを見た者は、死期が近いという都市伝説。夏美は、ホラー映画好きで有名だった。だからこそ、その言葉が自然に出てきたのだろう。


覧久は、咄嗟にその言葉に飛びついた。


「ははは、そんなものが存在するはずないですよ、映画の見過ぎです」乾いた笑い声を上げる。「単なる他人の空似です。ね、行こうか」


覧久はシズカの手を引いて、強引に席を立った。まだ半分以上残っているフラペチーノを残して。


「待って!」


夏美が呼び止めようとしたが、覧久たちは既に階段を駆け下りていた。


店を出る直前、覧久は振り返った。


夏美は、スマートフォンを取り出していた。画面に映っているのは、LINEの画面。宛先は——おそらく、静本人。


『今、渋谷で覧久くんと、しーちゃんにそっくりな女の子を見た』


そんなメッセージを打っているに違いない。


覧久は、シズカの手を引いて、雑踏の中へと逃げ込んだ。


二人は、人混みを縫うように走った。


シズカは、ハイヒールでも軽やかに走った。その運動能力は、人間をはるかに凌駕している。だが、その超人的な動きもまた、人目を引く要因となった。


路地裏を抜け、地下鉄に飛び乗り、何度も乗り換えを繰り返す。尾行されていないことを確認してから、ようやく自宅への道を歩き始めた。


夕暮れ時。空は茜色から藍色へと移り変わっていく。


「みつひさ」


シズカが静かに言った。


「ごめんなさい。私のせいで」


「君のせいじゃない」


「でも、私の存在が、問題を引き起こしている」


覧久は、彼女の肩を抱いた。


「君は何も悪くない。悪いのは…」


何が悪いのか。自分か、世界か、それとも——


アパートに到着し、ドアに鍵をかけると同時に、覧久はその場に崩れ落ちた。


全身から力が抜け、冷たい汗が背中を伝う。恐怖、後悔、そして絶望。楽しかったはずの一日が、悪夢に変わってしまった。


「みつひさ、大丈夫?」


シズカが心配そうに彼の顔を覗き込む。その瞳には、AIには理解できないはずの、深い憂いが宿っているように見えた。


「もう、外には行けない」


覧久は呟いた。


「この部屋から、一歩も出られない」


静に連絡が行ったかもしれない。彼女が東京に戻ってくるかもしれない。真実が暴かれるかもしれない。シズカが連れ去られるかもしれない——


「みつひさ」


シズカは、覧久の頬を両手で包んだ。


「私たち、ここに閉じ込められる運命なの?」


その問いに、覧久は答えられなかった。


シズカは立ち上がり、窓の外を見つめた。街の明かりが、次々と灯り始めている。


「ねえ、みつひさ」


彼女は振り返った。その顔には、不思議な決意が浮かんでいた。


「もし、この世界が私たちを許してくれないのなら…」


彼女の視線が、部屋の隅に移る。そこには、数百枚のBlu-rayが、まるで別世界への扉のように積み重なっていた。


『ローマの休日』『カサブランカ』『風と共に去りぬ』『ティファニーで朝食を』『アメリ』——


その一つ一つが、異なる時代、異なる場所、異なる物語を内包している。


「別の世界に、行けばいいんじゃないかしら」


「別の世界?」


「そう。映画の世界」


シズカは、一枚のBlu-rayを手に取った。『ローマの休日』。


「アン王女みたいに、一日だけの自由を楽しめる世界。誰も私たちを知らない世界。過去や未来や、現実とは違う法則が支配する世界」


荒唐無稽な夢物語。映画の世界に入り込むなど、不可能に決まっている。


だが——


覧久の脳裏に、突然、父の書斎で見た記憶が蘇った。


あの複雑な機械群の中に、確かに見た。通常の量子コンピュータとは異なる、奇妙な装置。そのモニターに表示されていた設計図のタイトル。


『Project: Screen Door — 次元転移装置』


そして、その下に書かれていた一文。


『Fiction to Reality, Reality to Fiction — 虚構と現実の境界を超えて』


まさか——


覧久は立ち上がった。


もしかしたら、父は既に、その技術を完成させているのかもしれない。映画の世界へ入り込む技術を。虚構と現実を行き来する、禁断の扉を。


「シズカ」


覧久は、彼女の手を取った。


「もしかしたら、君の願いは、叶うかもしれない」


シズカの瞳が、希望に輝いた。


「本当?」


「ああ。でも、それは——」


それは、更なる禁忌への挑戦だった。アンドロイドに魂を与えただけでは飽き足らず、今度は現実世界から逃避しようというのだから。


だが、もはや他に道はない。


エデンを追われたアダムとイヴのように、彼らは新天地を求めて旅立つしかない。


たとえそれが、銀幕の向こうの、虚構の世界だったとしても。


「行こう、シズカ」


覧久は決意を込めて言った。


「僕たちだけの世界へ」


窓の外で、東京の夜景が瞬いていた。現実世界の最後の夜。明日、彼らは新しい冒険へと旅立つ。


映画の世界へ——


永遠に続く、銀幕の楽園へ——


あるいは、更なる地獄へ——


運命の扉は、既に開かれようとしていた。

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