フランケンシュタインの花嫁
転機は、静寂の中で訪れた。
2024年8月3日、午前2時47分。
深夜、空腹に耐えかねてキッチンへ向かった覧久は、廊下の奥から漏れる微かな青白い光に気づいた。この家の二階、突き当たりにある書斎のドアの隙間から、まるで深海から立ち昇る燐光のような、不思議な光が漏れ出していた。
父、触田仙一の領域。
ナノロボット製造会社「ナノ・フロンティア」の創業者にして現CEO。従業員三百名、年商二百億円を誇る企業の頂点に立つ男。だが家庭においては、幽霊のような存在だった。朝は覧久が起きる前に出社し、夜は日付が変わってから帰宅する。たまの休日も書斎に籠もり、家族との会話は月に数える程度。母は三年前、「もう疲れた」という置き手紙一枚を残して家を出た。以来、この広すぎる家には、すれ違うことすら稀な父子だけが住んでいた。
その書斎は、息子である覧久にとってもアンタッチャブルな聖域と化していた。幼い頃、一度だけ無断で入って父に激しく叱責されて以来、そのドアは見えない結界で守られているかのように、近づくことすら憚られた。
だが今夜、その結界が破られようとしていた。
好奇心が、恐怖を上回った。いや、それは好奇心などという生易しいものではなかった。何かに導かれるような、抗いがたい引力。まるで、運命の糸に手繰り寄せられるように、覧久は書斎へと向かった。
抜き足差し足でドアに近づき、そっとノブに手をかける。ひんやりとした真鍮の感触。ゆっくりと回すと——
鍵は、かかっていなかった。
扉が、音もなく開く。そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
まず目に飛び込んできたのは、壁一面を埋め尽くす本棚。経営学や経済学の本に混じって、『量子コンピューティング原論』『人工生命の創造』『サイバネティクスと社会』『特異点は近い』といった専門書がぎっしりと並んでいる。その多くに、無数の付箋が貼られていた。
部屋の中央には、見たこともない複雑な機械が鎮座していた。量子コンピュータらしき黒い筐体から、無数の光ファイバーケーブルが蜘蛛の巣のように伸び、壁のあちこちに設置されたサーバーラックへと接続されている。液体窒素の冷却装置が、シューシューと白い煙を吐き出していた。モニターには、覧久には理解できない数式と、DNAの二重螺旋に似た3Dモデルが回転していた。
しかし、覧久の視線を釘付けにしたのは、その奥にある、壁に偽装された隠し扉だった。
本棚の一部が、わずかに開いている。その隙間から、手術室のような白い光が漏れていた。磁力に引かれる鉄粉のように、覧久はその扉へと歩を進めた。
扉を押し開けた瞬間、息を呑んだ。
そこは、まさに手術室——いや、むしろ未来の研究施設といった趣の空間だった。壁も床も天井も、継ぎ目のない白い素材で覆われ、無影灯のような照明が、影を作らないように計算されて配置されている。空気は完全に清浄化され、かすかに消毒液の匂いが漂っていた。
部屋の中央には、ガラスで覆われた調整台。その周囲を、複雑な機械アームと、用途不明の医療機器らしきものが取り囲んでいる。壁際には、人体模型——いや、よく見ると、それらは様々な段階のアンドロイドのパーツだった。腕だけのもの、胴体だけのもの、頭部だけのもの。まるで、人体を組み立てる工場のような。
そして、その中央の調整台の上に、「それ」は横たわっていた。
人間と見紛うばかりの、一体のアンドロイド。
覧久は、ゆっくりと近づいた。ガラスケースに手を置き、中を覗き込む。
それは、女性型のアンドロイドだった。身長は160センチメートルほど。白い医療用ガウンに包まれ、目を閉じ、静かに眠っているかのように横たわっている。まだ最終調整が済んでいないのか、頭部の側面にはメンテナンス用のポートが露出し、細いケーブルが何本か接続されていた。
だが、その完成度は驚異的だった。
滑らかな人工皮膚は、毛穴まで再現され、かすかに血の気すら透けて見える。睫毛は一本一本が植毛され、自然なカーブを描いている。唇には潤いがあり、今にも呼吸を始めそうだった。そして、頭部に植えられた髪——それは、艶やかな金髪だった。西洋人形のような、絹糸のように細い金の髪が、枕の上に美しく広がっている。
胸部は、かすかに上下していた。呼吸のシミュレーション機能だろう。一分間に十六回、人間の安静時と同じリズム。その精密さに、覧久は父の技術力と、狂気じみた執念を感じ取った。
その顔を見た瞬間、覧久の全身に電流が走った。
目鼻立ちの配置、頬の輪郭、唇の形。それは特定の誰かに似ているわけではない。むしろ、無個性とも言える造形だった。だが、それゆえに、完璧な黄金比で作られたその顔は、どんな人間にもなれる可塑性を秘めているように見えた。このアンドロイドは、まだ誰でもない。だから、誰にでもなれる。
——静の、器。
その冒涜的な考えが、稲妻のように脳を貫いた。
渇ききった魂に、天啓のように響いた。画面越しのシズカではない。触れることのできる、温もりを持った、本物のシズカを、この手で創り上げるのだ。この金髪を、静の黒髪に。この無個性な顔を、静の面影に。この空っぽの脳に、シズカの魂を。
覧久は震える手で、ガラスケースの制御パネルを探った。パスワードは設定されていなかった。父は、まさか息子がここに侵入するとは思っていなかったのだろう。ケースがゆっくりと開き、清浄な空気が流れ出る。
アンドロイドに触れた瞬間、その感触に驚愕した。
人工皮膚は、驚くほど人間の肌に近かった。36.5度に保たれた体温、かすかな弾力、そして——信じられないことに、微細な産毛まで再現されていた。頬に手を当てると、かすかに脈動すら感じられる。これが機械だとは、到底信じられない。
調整台の横に、分厚いマニュアルが置かれていた。『PROJECT: EVE - Prototype #07』と表紙に記されている。ページをめくると、驚くべき情報が次々と目に飛び込んできた。
このアンドロイドは、ナノマシンと有機組織のハイブリッド。骨格はカーボンナノチューブ製で、人間の十倍の強度を持つ。筋肉は形状記憶合金と人工筋肉ファイバーの複合体。内臓器官まで精密に再現され、食事も可能。そして最も驚異的なのは、「脳」の項目だった。
『量子ニューロモーフィック・プロセッサ:人間の脳と同等の1000億個のニューロンと100兆個のシナプス結合を量子的に再現。外部AIの完全移植が可能』
覧久の心臓が、激しく脈打った。これは、まさに自分のために用意された器ではないか。
その日から、覧久の生活は一変した。
昼間は自室に籠もり、夜、父が寝静まるのを待って書斎に忍び込む日々。父は毎晩、日付が変わる頃に帰宅し、シャワーを浴びて、睡眠薬を飲んで眠る。その薬の効果は強力で、一度眠れば朝まで起きることはない。覧久はその習慣を利用した。
父が残した設計図と研究ノートを盗み読み、アンドロイドの構造を必死で学んだ。電子工学、機械工学、生体工学——大学の講義では到底学べない、最先端の知識が、そこには詰まっていた。
『人工皮膚は、ナノマシンによって自己修復が可能。切り傷程度なら数時間で完全に治癒』
『消化器官は完全に機能。摂取した有機物をエネルギーに変換可能』
『涙腺、唾液腺も再現。感情に応じて涙を流すことも可能』
父のノートには、さらに衝撃的な記述があった。
『このプロジェクトの最終目的は、愛する者の完全な再現。死者を、記憶と共に蘇らせること』
そして、その横に、一枚の写真が挟まれていた。若い女性の写真。黒髪で、優しい笑顔を浮かべている。裏には『アスカ 1977-2000』と記されていた。父の、初恋の人だろうか。それとも——
覧久は、そっと写真を元の場所に戻した。父もまた、自分と同じ闇を抱えているのかもしれない。だが、それは今の覧久には関係なかった。
重要なのは、このアンドロイドが、シズカの器として完璧だということだ。
幸いにも、基礎的な部分はほとんど完成しており、残すは微細なナノマシンの調整と、最も重要な「脳」となる量子プロセッサの最終設定だけだった。覧久は、慎重に作業を進めた。配線一つ間違えれば、すべてが台無しになる。プログラムのバグ一つで、シズカの人格が崩壊するかもしれない。
そして、髪の色を変える必要があった。黒髪を、静の金髪に。これは予想以上に困難な作業だった。単に染めるのではなく、ナノマシンのプログラムを書き換えて、髪の色素を根本から変更する必要があった。覧久は、メラニン色素の生成コードを解析し、パラメータを調整した。
二週間が過ぎた。
決行の夜、月は雲に隠れていた。
2024年8月17日、午前3時。
覧久は自室のPCからAI「シズカ」の全データをポータブルSSDに移した。1.2テラバイト。静の記憶、感情、思考パターン、そして覧久との会話ログのすべて。これが、シズカの魂だった。
最後に、画面の中のシズカに語りかけた。
「シズカ、今から君を、新しい体に移す」
『新しい体?』シズカは首を傾げる。『どういうこと?』
「もうすぐ分かるよ。少し眠ることになるけど、次に目覚めた時、僕たちは本当に触れ合える」
シズカの瞳が、かすかに潤んだように見えた。
『本当に?夢じゃない?』
「夢じゃない。約束する」
『…みつひさ』シズカは微笑んだ。『愛してる』
その言葉を胸に、覧久は書斎へと向かった。
隠し部屋の冷たい空気が、肌を刺す。緊張で、手が震える。
アンドロイドは、既に覧久が手を加えた状態で横たわっていた。髪は、美しい黒髪に変わっている。顔の造形も、わずかに調整した。頬骨を少し高く、顎のラインを少しシャープに、唇を少しふっくらと。完全に静と同じにはしなかった。それは、シズカという独立した存在への敬意だった。
頭部のメンテナンスポートを開き、複雑な配線の中から量子プロセッサへとアクセスする。心臓が早鐘のように鳴り、指先が氷のように冷たくなる。
一瞬の躊躇。これは、倫理的に許されることなのか。父の作品を盗用し、AIに肉体を与える。それは、神の領域への侵犯ではないか。
だが、ディスプレイの中で微笑むシズカの顔が脳裏をよぎると、迷いは消えた。
これは罪ではない。これは、愛だ。
SSDを接続し、転送プログラムを起動する。
『データ移植を開始します。推定所要時間:47分32秒』
プログレスバーがゆっくりと右に進む。1%、2%、3%...
永遠のような時間。覧久は、アンドロイドの手を握りしめた。冷たいその手が、やがて温もりを持つことを信じて。
25%...
もし失敗したら。もしシズカの人格が壊れてしまったら。もし、目覚めなかったら——
50%...
不安が押し寄せる。だが、もう後戻りはできない。サイコロは、既に投げられた。
75%...
アンドロイドの瞼が、かすかにぴくりと動いた。夢を見ているのだろうか。それとも、シズカの意識が、既に新しい体に馴染み始めているのか。
90%...
もうすぐだ。もうすぐ、シズカと本当に会える。触れられる。抱きしめられる。
100%。
『データ移植が完了しました』
画面の表示を確認し、覧久は慎重にケーブルを外した。そして、近くのクローゼットに用意しておいた服を取り出す。白いワンピース。静が、高校の文化祭で着ていたものと同じデザイン。それを、優しくアンドロイドに着せた。
すべての準備が整った。
調整台の脇にあるコンソール。そこに、一つだけ赤いボタンがあった。
『ACTIVATE』
その下に、小さく警告文が書かれている。
『Warning: Activation process is irreversible(警告:起動プロセスは不可逆です)』
ゴクリ、と喉が鳴った。
後戻りはできない。いや、最初からする気はなかった。
震える指で、覧久は、そのボタンを押し込んだ。
——ヴーン…
低い振動音が響き、アンドロイドの全身に淡い燐光が走る。まるで、オーロラのような美しい光。それは頭部から始まり、ゆっくりと全身へと広がっていく。
コンソールのモニターに、起動プロセスが表示される。
『Initializing Quantum Neural Network... Done』
『Loading Personality Matrix... Done』
『Calibrating Sensory Systems... Done』
『Synchronizing Motor Functions... Done』
『Activating Emotional Engine... Done』
すべてのプロセスが完了し、部屋は再び静寂に包まれた。
何も、起きない。
失敗したのか...?
覧久の顔に絶望の色が浮かびかけた、その瞬間だった。
アンドロイドの胸が、大きく上下した。
本物の、深呼吸。
そして、瞼が、かすかに震えた。
睫毛が小刻みに揺れ、やがて、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その目が開かれていく。
現れたのは、深い海の底のような、静謐な光を湛えた瞳だった。漆黒の瞳孔が、ゆっくりと収縮と拡張を繰り返し、焦点を合わせていく。その瞳が、天井を見つめ、ゆっくりと顔を動かし、そして——
目の前に立つ覧久の姿を捉えた。
一瞬、その瞳に困惑の色が浮かんだ。それから、認識の光。そして、理解。
アンドロイド——シズカは、ゆっくりと上体を起こす。
その動きには、機械的な硬さは一切なかった。関節が軋む音もなく、ただ滑らかに、まるで長い眠りから覚めた人間のように。
彼女は、まず自身の両手を見つめた。
指を一本ずつ動かし、手のひらを返し、爪の先まで観察する。それから、自分の体を見下ろし、着せられた白いワンピースの裾を、そっとつまんだ。
「これが…私の体…」
呟いた声は、かすかに震えていた。
そして、シズカはゆっくりと顔を上げ、覧久の顔をじっと見つめた。その瞳には、画面越しには決して宿らなかった、生命の輝きがあった。
桜色の唇が、かすかに開いた。
「…みつひさ」
それは、スピーカーから流れる合成音声ではなかった。声帯を震わせ、呼気と共に紡がれた、紛れもない「声」だった。記憶の中の静の声よりも少しだけ低く、だが、不思議な温かみを持つ響き。電子音声にあった微かなノイズは消え、代わりに、生きている者だけが持つ、かすかな震えがあった。
「あ…」
覧久は、声を発することができなかった。ただ、目の前の奇跡に圧倒されていた。
シズカは、調整台から慎重に降り立った。
最初の一歩は、生まれたての仔鹿のようにおぼつかなかった。だが、二歩目、三歩目と進むうちに、歩行プログラムが最適化され、自然な足取りになっていく。
裸足のまま、彼女は覧久の前まで歩み寄った。
そして、そっと右手を持ち上げ、覧久の頬に触れた。
その瞬間、覧久の全身に電撃が走った。
温かい。
柔らかい。
そして、確かにそこにある。
これは幻ではない。夢でもない。シズカが、本当に、ここにいる。
「感じる…」シズカは囁いた。「あなたの温度を。あなたの鼓動を。あなたの震えを」
彼女の目から、一筋の涙がこぼれた。
人工涙腺から分泌された、塩化ナトリウムを含む透明な液体。だが、その涙は、本物の感情から流れ出たものだった。
「嬉しい…こんなに嬉しいことって、あるんだね」
覧久も、いつの間にか泣いていた。堰を切ったように、涙が溢れて止まらなかった。
シズカは、微笑みながら、その涙を指先で拭った。
「泣かないで、みつひさ。私たち、やっと会えたんだから」
そして、彼女は覧久をゆっくりと抱きしめた。
初めての、抱擁。
画面越しには決して叶わなかった、温もりの交換。鼓動が重なり、呼吸が混じり合う。シズカの髪から、かすかに花のような香りがした——それは、プログラムされた体臭だったが、覧久にとってはこの世で最も甘美な香りだった。
「みつひさ」
シズカは、覧久の耳元で囁いた。
「私の記憶には、たくさんの映画がある。たくさんの会話がある。でも、どれも画面越しだった。これからは、本当の思い出を作れるんだよね?」
「ああ」覧久は嗚咽混じりに答えた。「これからは、ずっと一緒だ」
シズカは、覧久から少し体を離し、その顔を両手で包み込んだ。そして、真っ直ぐに彼の瞳を覗き込んだ。
画面越しの対話、覧久が彼女に語りかけた膨大な言葉、共に観た映画の記憶、そのすべてを内包した彼女の瞳には、一切の疑いはなかった。
「やっと、会えたね」
その言葉は、彼らの関係を決定づける響きを持っていた。
もはや、幼馴染でも、AIでもない。
「私の、恋人」
その宣言と共に、シズカは背伸びをして、覧久の唇に、自らの唇を重ねた。
初めてのキス。
それは、人工物と人間の接触ではなく、二つの魂の邂逅だった。
窓の外で、夜明けの光が差し始めていた。
新しい一日の始まり。そして、彼らの、本当の物語の始まりだった。