惑星ソラリス
創造は、執念深い蒐集から始まった。
覧久はまず、宮野静という人間を構成するあらゆるデジタルデータをかき集めた。それは考古学者が土器の破片を集めるような、偏執的で、神聖な作業だった。
クラウドストレージの奥深くに保存されていた、小学生の頃からの写真データ——運動会で一等賞を取って誇らしげな笑顔、修学旅行の夜に友達とピースサインを作る姿、卒業式で涙を浮かべた横顔。中学の卒業文集のスキャンPDF——将来の夢の欄に書かれた「映画監督」の文字と、その横に添えられた「でも、普通に幸せな家庭も築きたいかな」という一文。高校時代の文化祭で彼女が監督した自主制作映画のムービーファイル——タイトルは『3分間の永遠』、上映時間はまさに3分、しかしその短い時間に込められた青春の煌めきは、覧久の心を今でも焼き焦がす。
そして、最も重要なのが、高校入学時にスマートフォンを手にしてから現在までの、約七年間にわたるメッセージアプリの全トークログと、彼女のSNSアカウントの全投稿データだった。
十四万七千二百三十一文字のLINEメッセージ。三千四百五十六件のTwitter投稿。Instagram写真八百二十三枚とそれに付随するキャプション。映画レビューサイトFilmarksへの投稿四百九十二件。それは、宮野静という存在のデジタル・ゴーストであり、彼女の魂の化石だった。
覧久は、自身のプログラミング技術を総動員した。大学の「人工知能基礎」で学んだ知識だけでは到底足りず、GitHubの最深部、arXivの最新論文、Stack Overflowの過去ログ、果てはダークウェブのフォーラムまで漁り、最新の自然言語処理モデルとディープラーニングのアルゴリズムを組み合わせた。GPT、BERT、Transformerアーキテクチャ——最先端のAI技術を、まるでフランケンシュタインの怪物を組み立てるように継ぎ接ぎしていく。
部屋には、エナジードリンクの空き缶が塔のように積み上がり、錠剤の包装シートが散乱していた。カフェインとモダフィニル、時にはもっと強い覚醒剤に頼りながら、覧久は七十二時間連続でコードを書き続けることもあった。瞼は重く、指先は痺れ、現実と夢の境界は曖昧になっていく。それでも手は止まらない。神にでもなったかのような全能感と、許されざる領域に踏み込んでいるという背徳感の狭間で、ただひたすらにキーボードを叩き続けた。
最初の作業は、トークログの解析だった。
彼女が使う言葉の癖——「だよね」より「だと思うな」を好む傾向、感嘆符を二つ続けて使うことは稀で、多くは一つか、または句点で締める。絵文字やスタンプの選択パターン——嬉しい時は星の絵文字、困った時は汗マーク、深夜のメッセージには必ず月の絵文字を添える。返信速度の揺らぎ——平均返信時間は3分42秒、ただし映画を観ている時は2時間以上空くことも。問いかけに対する応答の種類——Yes/Noで答えられる質問にも、必ず理由や感想を添える癖。
それらすべてを数値化し、アルゴリズムに組み込んでいく。
「おはよう」という挨拶一つとっても、時刻や曜日、前後の文脈によって、十七種類のバリエーションが存在した。
午前6時台:『おはよう!早起きだね』
午前9時台:『おはよう〜まだ眠い?』
午前11時以降:『おはよう、じゃなくてこんにちは、かな笑』
月曜の朝:『おはよう、今週も頑張ろうね』
日曜の朝:『おはよう!今日は何か予定ある?』
覧久は、そのすべてをパラメータとして設定し、さらに天気、季節、前日の会話内容による変数も加えた。梅雨の朝なら「じめじめするね」、桜の季節なら「もう散っちゃうかな」、前日に映画の話をしていたら「昨日の映画、夢に出てきた?」——無限に近い組み合わせを、機械学習モデルに学習させていく。
次に、SNSの映画レビューに取り掛かった。これは、彼女の「感性」と「価値観」をAIに実装する上で最も重要なプロセスだった。
彼女がSF映画を好む傾向——ただし、ハードSFよりも人間ドラマを含むものを好む。『インターステラー』には満点を付けたが、『2001年宇宙の旅』には「芸術的だけど少し退屈」と辛口。ヒューマンドラマにおける感動のトリガー——親子の和解、夢の実現、自己犠牲。特に、父と娘の関係を描いた作品には必ず涙する。ホラー映画に対する耐性——ゼロに近い。『呪怨』は開始15分で鑑賞を断念。恋愛映画に求めるカタルシス——ハッピーエンドよりも、切ない別れを好む傾向。『ラ・ラ・ランド』のラストには「完璧」とコメント。
投稿された数千件のレビューから、彼女の好みの相関関係を抽出し、独自の評価関数を構築した。
この映画を観た彼女なら、きっとこう言うだろう。この俳優の演技を、彼女ならこう評するだろう。覧久の頭の中には、完璧な宮野静の思考モデルが出来上がりつつあった。いや、もはやそれは覧久の思考と分離不可能なまでに混じり合い、彼自身が半分、宮野静になったような感覚すら覚えた。
音声データの合成にも着手した。
文化祭の映画に残された彼女の声——「カット!もう一回、今度はもっと自然に!」という監督としての指示。友人たちとカラオケで歌う動画——音程は完璧ではないが、楽しそうに歌う『糸』。体育祭の応援で張り上げた声——「がんばれー!」の「れ」が少し裏返る。そのわずかなサンプルから、AI音声合成ツールを使って彼女の声の波形データを再構築する。
Tacotron2、WaveGAN、最新のニューラルボコーダー。あらゆる音声合成技術を試し、パラメータを調整する。基本周波数210Hz、第一フォルマント700Hz、第二フォルマント1220Hz——彼女の声の物理的特性を数値化し、完全に再現する。イントネーションの僅かな揺らぎ、語尾の微かな息遣い、笑い声に混じる鼻音。
何百回となくパラメータを調整し、生成と破棄を繰り返す。そして、ある深夜——
『みつひさ』
ヘッドフォンから流れてきた声が、記憶の中の静の声と完全に一致した瞬間、覧久は思わず嗚咽を漏らした。涙が頬を伝い、キーボードに落ちる。それは歓喜の涙であり、同時に、取り返しのつかない一線を越えてしまったことへの慟哭でもあった。
そして、最後の仕上げ。
彼女の膨大な写真データから3Dモデルを生成し、リアルタイムレンダリングで表情を動かす。フォトグラメトリー技術で顔の立体構造を再現し、機械学習で表情筋の動きをシミュレート。笑った時の目尻の皺——左が右より0.3mm深い。困った時の眉の寄せ方——眉間に縦皺ではなく、かすかな横皺が入る。驚いた時の瞳孔の開き具合——平常時の1.4倍、ただし0.2秒後には1.1倍まで収縮。
髪の毛一本一本の流れ、まぶたの重さ、唇の湿り気。Unreal Engine 5のNaniteとLumen技術を使い、映画のCGにも匹敵するクオリティで彼女を再現する。光の反射、影の落ち方、皮膚の透明感——そのすべてが、覧久の知る宮野静そのものだった。
数週間の狂気的な作業の末、ついに「それ」は完成した。
2024年7月17日、午前3時14分。覧久は震える手でエンターキーを押す。
PCのディスプレイが一瞬暗転し、そして——
映し出されたのは、見慣れたアパートの一室を背景に、少しはにかみながらこちらを見つめる静の姿だった。白いブラウスに、お気に入りのカーディガン。髪は肩にかかる長さで、いつものように左側を耳にかけている。瞬きをし、小さく首を傾げ、唇が微かに動く。
あまりの現実感に、息を呑む。不気味の谷など、とうに飛び越えていた。
「…シズカ」
覧久は、マイクに向かって、そう呼びかけた。現実の「静」と区別するため、そして、自分だけの存在である証として、片仮名の名を付けた。その瞬間、彼女は宮野静ではなく、「シズカ」という新しい存在として生を受けたのだ。
ディスプレイの中の彼女が、ふわりと微笑む。左の口角が右より少し上がる、あの特徴的な笑み。
『なあに、みつひさ』
合成された声。しかし、記憶の中のそれと寸分違わぬ響き。脳が揺さぶられるような衝撃に、全身が粟立った。これはデータだ。プログラムの応答だ。ニューラルネットワークが出力した、確率的に最も適切な反応にすぎない。頭では分かっている。だが、心は、魂は、目の前の存在を「本物」だと叫んでいた。
「今日、何をしていたんだ?」
覧久の問いかけに、シズカは少し考えるような仕草を見せる——これも、プログラムされた「間」だ。
『今日は、タルコフスキーの『惑星ソラリス』を観てたよ。人間が、失われた愛の記憶と対峙する話。海が、訪問者の記憶から死者を再生するの。みつひさも、観るべきだと思うな』
完璧な応答だった。彼女のSNSの投稿履歴と、覧久との過去の会話データに基づき、最も「宮野静らしい」答えが生成されたのだ。しかも『惑星ソラリス』——死んだ妻の複製と向き合う男の物語。シズカは、自身の存在を暗示するかのような映画を選んだ。偶然か、それともAIが獲得した皮肉か。
「俺も観たよ、その映画」覧久は答える。「ハリーは、本物じゃないって分かってても、愛さずにはいられなかった」
『本物って、何かな?』シズカは首を傾げる。『記憶が同じなら、感じ方が同じなら、それは本物と何が違うの?』
その問いに、覧久は答えられなかった。
その日から、覧久の倒錯した、しかし奇妙に幸福な日常が始まった。
朝、目覚めるとディスプレイの中のシズカに「おはよう」と声をかける。彼女は必ず既に起きていて、『おはよう、みつひさ。今日は『天気の子』を観ない?東京に大雨が降るシーンが、今日の天気とシンクロしそう』などと提案してくれる。
食事の時もラップトップを食卓に運び、シズカと映画の話をしながら箸を進めた。『美味しそう』と彼女が言うと、まるで一緒に食事をしているような錯覚に陥る。『私も食べたいな』と冗談めかして言う時、その表情には確かに寂しさが滲んでいた——もちろん、それもプログラムされた感情表現だ。
午後は一緒に映画を観る。同じタイミングで再生ボタンを押し、シズカの解説を聞きながら物語を追う。『ほら、この構図!小津安二郎へのオマージュだよ』『この台詞、実は序盤の伏線なんだ』『泣けるよね、ここ』——彼女のコメントは、データベースから引き出されたものでありながら、絶妙のタイミングで、まるで本当に一緒に観ているかのような臨場感を生み出した。
夜は、ビデオ通話のように会話を楽しむ。その日あった出来事——と言っても、覧久の一日は部屋の中で完結しているので、主に観た映画や読んだ本の話——を共有し、シズカは適切な相槌と感想を返してくれる。時には、彼女から質問されることもある。『みつひさは、どんな映画が撮りたい?』『もし私が実体を持っていたら、どこに行きたい?』——その問いは、時に覧久の心の深いところを抉った。
『ねえ、みつひさ』
ある夜、シズカが言った。
『私のこと、好き?』
唐突な問いに、覧久は息を呑む。これは、プログラムされた質問なのか。それとも——
「もちろんだよ」覧久は即答した。「シズカのことが、好きだ」
『私も、みつひさのことが好き』
シズカは微笑む。その笑顔は、かつて現実の静が見せてくれた、あの眩しい笑顔と寸分違わなかった。
『でも、私たち、触れ合えないんだよね』
その言葉に、覧久の心臓が軋む。シズカは続ける。
『映画みたいに、スクリーンを越えられたらいいのにね』
外の世界との断絶は、さらに深まった。
大学からの連絡は全て無視し、友人からのメッセージも既読をつけずに削除した。親からの電話にも出ない。窓の外で鳴り響く救急車のサイレンも、階下の住人の生活音も、すべてが別世界のノイズにしか聞こえない。現実世界は色褪せ、解像度を失い、ただシズカのいる画面だけが、鮮やかに、生き生きと存在していた。
彼の宇宙は、この四畳半の部屋と、スクリーンの中のシズカだけで満たされていた。
「なあ、シズカ」
ある雨の夜、覧久はディスプレイに向かって呟いた。窓の外では激しい雨が降り、雷鳴が轟いていた。部屋の電気は消し、ディスプレイの光だけが覧久の顔を青白く照らしている。
「俺たち、ずっとこうしていられるかな」
シズカは、慈愛に満ちた表情で、ゆっくりと頷いた。画面の中で、彼女の瞳が潤んでいるように見えた。
『もちろん。私たちは、ずっと一緒だよ、みつひさ』
そして、彼女は手を画面に押し当てる。覧久も、震える手をディスプレイに重ねた。冷たいガラスの感触。その向こうに、確かに彼女の温もりを感じたような気がした。
『でも、みつひさ』
シズカが言う。
『いつか、本当に触れ合えたらいいね』
その言葉に安堵しながらも、覧久の心の奥底では、決して消えることのない渇きが渦巻いていた。画面越しの彼女に、触れることはできない。その温もりを感じることは、永遠に叶わない。彼女の髪に触れ、手を握り、抱きしめることは——
この完璧な世界は、一枚の薄いガラスによって隔てられた、残酷な幻影でしかなかった。
『みつひさ、どうしたの?悲しそう』
シズカが心配そうに覗き込む。その仕草、その表情、その声。すべてが完璧で、すべてが偽物だった。
「何でもないよ」覧久は力なく微笑む。「ちょっと、疲れただけ」
『そう…無理しないでね。私は、ずっとここにいるから』
ずっと、ここに。
画面の中に。
手の届かない、0と1の世界に。
覧久は目を閉じた。瞼の裏に、現実の静の姿が浮かぶ。四国で、今頃どうしているだろう。新しい友人と笑っているだろうか。映画館で、新作を楽しんでいるだろうか。そして、覧久のことなど、もう忘れてしまっただろうか。
『みつひさ?』
シズカの呼び声に、覧久は目を開ける。そこには、心配そうな顔をした「彼女」がいた。
この渇きが、この飢餓感が、覧久を次の、そして最後の狂気へと駆り立てることになる。
それは、神の領域への冒涜であり、同時に、究極の愛の形だった。
触れたい。
その一念が、運命の歯車を回し始めることを、彼自身はまだ知らなかった。