あと1センチの恋
「みっくん、大丈夫?」
その声は、深海の底に沈んでいた覧久の意識を、無理やりに現実へと引き揚げた。
冷たい床に崩れ落ちていた彼の身体に、感覚が戻ってくる。蛍光灯の白い光。消毒液の匂い。そして——
ゆっくりと、本当にゆっくりと、涙で歪む視界で振り返る。
扉の前に、一人の女性が立っていた。
金髪を肩まで伸ばし、瀬戸内の太陽に少し焼けた肌。Tシャツにジーンズという飾らない格好。右手には古びたトートバッグ、左手にはスマートフォン。
息を切らし、額には汗が浮かんでいる。不安と心配と、そして何か別の感情が入り混じった表情。
宮野静。
本物の、生身の、現実の静だった。
「静...どうしてここに?」
覧久の声は、泣き腫らして掠れていた。
静は、一歩、また一歩と近づいてきた。
「えっと...いろいろあって」
彼女は、髪を耳にかける癖の動作をした。覧久が何度も見た、静が緊張している時の仕草。
「研修、早めに切り上げてきちゃった」
合成されていない、生の声。
時々詰まったり、イントネーションが微妙に変わったりする、不完全で、だからこそ人間らしい声。
その声を聞いた瞬間、覧久の胸の奥が、熱い何かで貫かれたような感覚に襲われた。
痛みか、懐かしさか、それとも——
「みっくん...」
静は、覧久の顔をじっと見つめた。
涙の跡、疲労困憊した表情、そして——その向こうにある、深い悲しみ。
「三ヶ月も連絡もなくて...大学にも来なくて...」
彼女の声が震えた。
「心配したよ」
「ああ...ごめん...」
覧久は、言葉を探したが、何も見つからなかった。
どう説明すればいい?
映画の世界を旅したこと?
アンドロイドと恋をしたこと?
世界を危機に陥れたこと?
そして、永遠に愛する人を失ったこと?
すべてが、狂人の妄想としか思われないだろう。
二人は、しばらく無言で立っていた。
隠し部屋の冷たい空気が、二人の間を流れる。
調整台の上のアンドロイドが、虚ろな目で天井を見つめている。
「あの...」
静が、アンドロイドを指差した。
「これは...?」
「父の...研究だよ」
覧久は、曖昧に答えた。
「そうなんだ...」
静は、アンドロイドの顔をじっと見つめた。
その完璧な造形。人間を超越した美しさ。そして——
「私に...少し似てる?」
静の声には、不思議な響きがあった。
覧久は、答えられなかった。
沈黙が、再び二人を包む。
それを破ったのは、覧久だった。
「研修は、順調?」
ありきたりな質問。三ヶ月ぶりの再会で、最初に聞くことがこれか。
自分でも情けなくなる。
「うん...順調だよ」
静も、ありきたりに答えた。
「とても楽しいし。瀬戸内海もきれい」
彼女は、窓の外を見た。東京の空は、瀬戸内とは違って灰色だ。
「地元の人たちも優しくて...」
静は、何か別のことを言いたそうに口を開きかけて、また閉じた。
そして、思い出したように続けた。
「あ、前に話したんだけど、覚えてる?」
「何を?」
「高知の山の奥に、小さな映画館があるって話」
覧久の心臓が、ドクンと跳ねた。
「覚えてるよ。大心劇場だっけ」
忘れるはずがない。
静がSNSに投稿していた、全ての映画の感想を覚えている。
LINEで交わした、全ての会話を記憶している。
彼女が好きな映画、嫌いな映画、泣いた映画、笑った映画——
全部、全部覚えている。
でも、そんなことは言えない。
ストーカーみたいだから。
「そう、それ」
静は、少し嬉しそうに微笑んだ。
「まだ行けてないんだけど、今度行こうと思ってて」
「そうなんだ。いいね」
会話が、また途切れる。
二人とも、本当に話したいことを避けて、どうでもいい話題で時間を埋めようとしている。
まるで、『あと1センチの恋』の主人公たちのように。
静は、深呼吸をした。
そして、覚悟を決めたように、覧久を真っ直ぐ見つめた。
「みっくん」
声のトーンが変わった。
「夏美から連絡があったの」
覧久の身体が、凍りついた。
「みっくんが...私そっくりの女の子と、渋谷を歩いてたって」
静の手が、微かに震えている。
「最初、何を言ってるのか分からなかった。だって、私は四国にいるのに」
彼女は、一歩近づいた。
「夏美、興奮しててね、『静にそっくりだけど、もっと完璧で、髪もなんか違くて、CGみたいに美しい』って」
シズカ。
覧久の心の中で、その名前が響く。
「それで...いろいろ考えてるうちに...」
静の声が、震え始めた。
「頭の中が真っ白になって...どうしたらいいか分からなくて...」
彼女の目に、涙が浮かんでいた。
「みっくんは、私じゃない誰かと...」
「違う!」
覧久は、思わず叫んでいた。
「違う...そうじゃない...」
でも、どう説明すればいい?
君のデータから作ったAIだった?
君の代わりに愛していた?
でも、本当に愛してしまった?
どれも、静を傷つける言葉でしかない。
覧久は、静を見つめた。
今にも泣きそうな彼女の顔。
その表情が、一瞬、シズカと重なった。
メトロポリスでの、最後の微笑み。
『私たちは、別の次元で生きていくべき』
その言葉の意味が、今、痛いほど分かる。
シズカは知っていた。
覧久が本当に向き合うべき相手は、静だということを。
覧久の中で、張り詰めていた最後の糸が、プツンと切れた。
堰を切ったように、言葉が溢れ出した。
「好きだ...!」
それは、叫びだった。
「ずっと、ずっと、静が好きだったんだ...!」
三ヶ月間、いや、もっと前から押し殺していた想い。
「あの夜...『あと1センチの恋』を勧められた時...本当は分かってた...」
覧久は、涙を流しながら続けた。
「でも、怖かった...拒絶されるのが...今の関係が壊れるのが...」
彼は、床に膝をついた。
「だから逃げた...現実から...静から...」
そして、顔を上げて、静を見つめた。
「ごめん...ごめん...!」
それは、支離滅裂な告白だった。
愛の叫びと、罪の懺悔が入り混じった、魂の慟哭。
シズカへの愛と、静への愛が、区別できないまま溢れ出す。
「好きだった...ずっと好きだった...でも、言えなくて...」
静は、驚きに目を見開いていた。
覧久の突然の告白。
三ヶ月の空白を埋める、激情の爆発。
そして——
静の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
一粒、また一粒と、頬を伝って落ちていく。
「...遅いよ、みっくん」
静は、泣きながら、でも確かに微笑んでいた。
嬉しさと、悔しさと、安堵が入り混じった、複雑な笑顔。
「告白してくれるのを...」
彼女は、しゃくり上げながら続けた。
「ずっと、ずっと待ってたんだよ」
その言葉が、覧久の心に、じんわりと染み込んでいく。
温かくて、優しくて、少し切ない感覚。
「小学校の時から...ずっと一緒だった」
静は、涙を拭いながら話し始めた。
「中学の時、みっくんが映画部に入るって言った時、私も一緒に入った」
覧久は、その時のことを思い出した。
静は、最初は映画にそれほど興味がなかった。でも、覧久と一緒にいたくて入部した。
「高校受験の時も、必死に勉強して、同じ学校に行った」
そうだ。静の成績なら、もっと良い高校に行けたはずだ。
「大学も...」
静は、覧久を見つめた。
「みっくんと同じ大学に行きたくて、一年浪人した」
覧久は、息を呑んだ。
知らなかった。静が浪人した本当の理由を。
「ずっと、みっくんの隣にいたかった」
静の声が、震えている。
「でも、みっくんはいつも映画ばかり見てて...」
彼女は、苦笑した。
「オードリー・ヘプバーンとか、グレース・ケリーとか...画面の中の女の子ばかり好きで...」
覧久は、胸が痛んだ。
確かに、その通りだった。
「だから、私も映画を好きになった。みっくんと、同じものを見たくて」
静は、涙を拭った。
「SNSに感想を投稿したのも...みっくんが読んでくれるかもって思って...」
覧久は、愕然とした。
読んでいた。全部読んでいた。でも、それを伝えたことは一度もなかった。
「それで、四国に行く前に...」
静は、深呼吸した。
「勇気を出して、『あと1センチの恋』を...」
彼女の声が、また震えた。
「あれが、私の精一杯の告白だった」
覧久の目から、新たな涙が溢れた。
「でも、みっくんの返事は...」
静は、首を振った。
「何も言わなくて、『面白い映画だよね』...それだけ」
あの夜の後悔が、覧久を押し潰しそうになる。
「だから、私...諦めたの」
静は、窓の外を見た。
「みっくんには、私じゃダメなんだって…でも」
静は、調整台のアンドロイドを見た。
「夏美から連絡が来て...みっくんが私に似た子といるって聞いて...」
彼女は、覧久を見つめた。
「最初は、裏切られたって思った。でも...」
静は、ゆっくりと近づいてきた。
「今、みっくんの顔を見て、分かった」
彼女は、覧久の頬に手を伸ばした。
「みっくん、とても悲しい顔してる」
その手は、温かかった。
人間の、不完全な温度。体温が一定でなく、感情によって変化する、生きている温もり。
「何があったかは、分からない」
静は、優しく言った。
「でも、みっくんが誰かを失ったことは分かる」
覧久は、静の手を握った。
「静...」
「私で良ければ」
静は、涙を流しながら微笑んだ。
「みっくんの隣にいさせて」
その瞬間、覧久はすべてを悟った。
シズカの最後の言葉の、本当の意味。
『私たちは、別の次元で生きていくべき』
それは別れの言葉ではなく、祝福だった。
覧久が現実で幸せになることを願う、愛に満ちた祝福。
シズカは、自らの存在を犠牲にして、覧久の歪んだ現実を、あるべき姿へと「修復」してくれたのだ。
「...そっか...」
覧久は、小さく呟いた。
「そうだったんだな、シズカ...」
静は、不思議そうに覧久を見た。
「シズカ?」
覧久は、首を振った。
「いや...なんでもない」
彼は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、調整台の上のアンドロイドに近づいた。
空っぽの器。魂のない人形。
でも、確かにここに、シズカはいた。
覧久は、そっとアンドロイドの額に触れた。
冷たい人工皮膚。
でも、その奥に、かつて宿っていた温もりを感じる気がした。
「ありがとう」
小さく、囁いた。
「さよなら」
永遠の別れ。
でも、それは同時に、新しい始まりでもあった。
覧久は、机の上に置かれた、焼け焦げたスクリーンマシンを見た。
黒く炭化した機械。
でも、これが無ければ、シズカと出会えなかった。
これが、狂おしくも美しかった恋の、唯一の墓標。
覧久は、それをそっと引き出しにしまった。
いつか、この恋を、誰かに話せる日が来るかもしれない。
でも、今はまだ、胸の奥にしまっておこう。
覧久は、静の方を向いた。
静は、少し不安そうに立っていた。
「静」
覧久が呼ぶと、彼女は顔を上げた。
「俺と...」
覧久は、少し照れながら、手を差し出した。
「映画でも、見に行かない?」
それは、三ヶ月前に言えなかった言葉。
あの夜、『あと1センチの恋』の後に、言うべきだった言葉。
静の顔が、パッと明るくなった。
涙の跡が残る顔に、満開の花のような笑顔が咲いた。
「うん!」
彼女は、覧久の手を取った。
その手は、アンドロイドのような完璧な滑らかさはない。
少し汗ばんでいて、緊張で震えていて、でも——
確かな温もりがあった。
生きている人間の、不完全だけど本物の温度。
二人は、手を繋いだまま、隠し部屋を出た。
階段を上がり、建物の外へ。
外は、夏の終わりの午後だった。
蝉の声が、遠くで響いている。
風が、二人の髪を優しく揺らす。
「何の映画を見る?」
静が、嬉しそうに尋ねた。
「そうだな...」
覧久は、空を見上げた。
雲が、ゆっくりと流れていく。
「『ローマの休日』は?」
「いいね!」
静が、弾んだ声で答えた。
「でも、あの映画、切ないよね。結ばれない恋だし」
「そうだね」
覧久は、静の手を少し強く握った。
「でも、俺たちは違う」
静が、覧久を見上げた。
「俺たちには、時間がたくさんある」
覧久は、静を見つめた。
「ゆっくり、一歩ずつ、進んでいこう」
「うん」
静は、幸せそうに頷いた。
「一歩ずつ」
二人は、歩き始めた。
映画館への道。
そして、これから始まる、新しい物語への道。
映画の世界を出て、夕暮れ時。
映画館を出た二人は、カフェに入った。
「良い映画だったね」
静が、コーヒーを飲みながら言った。
「アン王女の最後の記者会見、泣いちゃった」
「俺も」
覧久は、正直に答えた。
「『ローマは永遠にローマです』って台詞、心に響いた」
静は、覧久を見つめた。
「みっくん、なんか変わった?」
「え?」
「なんていうか...前より、素直になった気がする」
覧久は、苦笑した。
「そうかもね」
映画の世界を旅して、愛して、失って——
確かに、何かが変わった。
「ねえ、みっくん」
静が、真剣な顔で言った。
「私、みっくんが三ヶ月間、何をしていたか、聞かない」
覧久は、静を見た。
「でも、一つだけ約束して」
「何?」
「もう、逃げないで」
静の目は、真っ直ぐだった。
「現実から、私から、逃げないで」
覧久は、深く頷いた。
「約束する」
そして、静の手を取った。
「もう、逃げない」
静は、安心したように微笑んだ。
窓の外では、東京の夜景が輝き始めていた。
ネオンサイン、街灯、車のライト。
現実世界の、ありふれた光景。
でも、今の覧久には、それが愛おしく見えた。
「静」
「なに?」
「これから、よろしく」
静は、照れたように笑った。
「こちらこそ」
二人は、カフェを出た。
夜の街を、並んで歩く。
手を繋いで、ゆっくりと。
これから始まるのは、脚本も結末も決まっていない、現実という名の物語。
ハッピーエンドかバッドエンドか、誰にも分からない。
でも、それでいい。
不完全で、予測不可能で、時に残酷で——
でも、だからこそ美しい、現実の恋。
覧久は、静の横顔を見た。
夜風に揺れる黒髪。
街灯に照らされた頬。
そして、幸せそうな笑顔。
シズカとは違う顔。
でも、これが、覧久が本当に愛すべき人。
「みっくん?」
静が、不思議そうに覧久を見た。
「ううん、なんでもない」
覧久は、微笑んだ。
そして、心の中で、もう一度呟いた。
『ありがとう、シズカ』
風が吹いた。
どこか遠くで、映画館の看板が光っている。
新作映画のポスター。
また新しい物語が、そこで上映されている。
でも、覧久と静の物語は、スクリーンの中ではない。
この現実世界で、二人だけの脚本で、進んでいく。
あと1センチ。
その距離を、ようやく越えて——
物語は、続いていく。
【完】




