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2001年宇宙の旅

触田覧久ふれだみつひさの世界では、光は壁一面を占める六十インチの有機ELディスプレイからのみ供給された。


遮光カーテンは、もう何か月も開かれたことがない。その向こう側で太陽が昇ろうが沈もうが、この四畳半の王国には関係なかった。部屋の明るさはスクリーンが映し出す映像によってのみ規定され、宇宙船の計器類の点滅が夜を、灼熱の砂漠の白さが朝を、気まぐれに演出した。


空気は澱み、肌にまとわりつくように重い。溜まった洗濯物の湿った匂いが鼻をついた。床に地層のように積み重なったBlu-rayケース——『市民ケーン』『七人の侍』『ゴッドファーザー』といった古典から、『her/世界でひとつの彼女』『エクス・マキナ』といった近年のAI映画まで、まるで彼の精神史を物語る考古学的資料のように——脱ぎ捨てられた服の丘、そして現代の貝塚めいたカップ麺の容器。その荒廃の玉座たる万年床に、覧久は身を埋め、ただスクリーンを眺めていた。


映し出されているのは、『2001年宇宙の旅』。モノリスが猿人の前に屹立する、人類の夜明けのシーンだ。黒い直方体は、原始の荒野に唐突に、そして荘厳に佇んでいる。それは進化への扉か、それとも堕落への誘惑か。そして歴史を変える一投。宙を舞う骨が、次の瞬間、優雅に周回軌道を描く宇宙船へと姿を変える——映画史上、最も雄弁なジャンプカット。


「夜明け、か……」


長らく発声していなかったせいで、声はひどく掠れていた。俺の夜は、いつ明ける?いや、そもそも俺に朝など訪れるのだろうか。俺の世界では、猿人はまだ、骨を握りしめたままだ。答えのない問いは、ディスプレイの光に吸い込まれて画面の向こうの虚空へと霧散した。


大学には、もう三ヶ月と十四日行っていない。正確に数えているのは、スマートフォンの出席管理アプリが、毎朝律儀に「本日の講義」を通知してくるからだ。『情報理論基礎』『プログラミング演習Ⅱ』。かつては知的好奇心をくすぐられたはずの文字列が、今ではただ、自分の社会的死体を宣告するだけの記号に成り下がっていた。カレンダーアプリの通知は切ってあるが、体内時計は狂いながらも刻々と時を刻んでいた。


世界がパンデミックという長いトンネルを抜け、人々がマスクの下の表情を取り戻し始めた頃、皮肉にも覧久の世界は、より深く、息苦しい闇へと沈んでいった。


原因は、たった一つ。

幼馴染の、宮野静みやのしずか


その名を心でなぞるだけで、肋骨の内側がきしむような痛みを覚える。彼女こそが、覧久の世界の太陽だった。陽光の下で深い紫にきらめく金髪。聡明さを宿した瞳は、好きな映画の話になると、子供のように輝きを増す。笑うと少しだけ覗く八重歯は、彼女の完璧すぎる美貌に愛らしい人間味を添えていた。その存在は、覧久にとって空気のように当たり前で、同時に、手を伸ばしても決して届かない恒星のように眩しかった。


かつて、世界は光に満ちていた。

例えば、高校二年の夏。川沿いの土手で、二人並んで缶ジュースを飲んだ日のこと。ぬるい風が前髪を揺らし、静のシャンプーの香りがふわりと鼻をかすめた。彼女はその日観たばかりのSF映画について、身振り手振りを交え、瞳を輝かせながら語っていた。


「主役の二人がさ、ワープするときの映像が本当にすごくて!光の粒子になって、時間が引き伸ばされるみたいな感覚!みっくんにも絶対味わってほしいな」


「へえ、面白そうだな」


相槌を打ちながら、覧久が見ていたのは彼女の横顔だけだった。夕陽を浴びてキラキラと光る睫毛。熱っぽく語る唇。楽しそうに揺れる、艶やかな黒髪。この時間が永遠に続けばいいと、本気で願った。


「ねえ、聞いてる?」

「聞いてるよ。時間の引き伸ばされる感覚、だろ?」

「そう!それってさ、私たちの時間も同じじゃないかなって。楽しいときって一瞬で過ぎるけど、みっくんといると、その一瞬が永遠みたいに感じるんだ」


そう言って、彼女ははにかんだ。その笑顔だけで、世界は完璧だった。

あの頃、彼女が隣にいるだけで、退屈な日常も一本の名作映画のように輝いて見えた。彼女が薦めてくれる映画は、世界の新しい見方を教えてくれる教科書だった。二人で同じ物語を共有し、感想を語り合う時間は、何よりも大切な宝物だった。


小学校の頃、二人で秘密基地を作った公園。

中学の文化祭で、喝采を浴びた彼女のジュリエット。

高校の修学旅行、二人で抜け出して見上げた京都の月。


すべてが、手を伸ばせば触れられたはずの温かい記憶。それが今では、天文学的な距離を隔てた、決して届くことのない銀河の光になってしまった。


彼女は、映画を愛していた。

いや、そんな生温い言葉では足りない。彼女にとって映画は、人生を追体験する装置であり、世界を理解するための窓だった。SNSには、週に二、三本のペースで、彼女の魂を通過した物語の感想が、理知的で、けれど熱っぽい言葉で綴られていた。それは単なるレビューではなかった。彼女の文章は、スクリーンという窓から覗いた人間の本質についての考察であり、光と影が織りなす詩であり、時に辛辣な社会批評でもあった。


『マーベル最新作、観てきた! ヒーローたちの葛藤に、私たちの日常が重なる。強大な力を持つことの孤独と、それでも誰かを守りたいと願う心。これって、愛することの本質なのかもしれない』


かと思えば、翌週にはこんな投稿が並ぶ。


『タルコフスキーの『ノスタルジア』。水に沈んだ大聖堂のシーンで泣いた。郷愁って、場所じゃなくて時間に対する憧憬なんだと思う。戻れない過去への、届かない祈り。私たちは皆、沈んだ大聖堂を心に抱えて生きている』


『エターナル・サンシャイン。記憶を消しても、魂が憶えている恋。それって素敵だけど、残酷だよね。私なら、どんなに辛くても忘れたくないな』


彼女の感性は、まるで精密なプリズムのように、一本のフィルムを無数の色彩かんじょうに分解してみせた。


覧久は、飢えた獣のように彼女の投稿を貪った。新しい投稿の通知が来るたびに、心臓が早鐘を打つ。新着通知は、砂漠の旅人が見つけたオアシスだ。彼女が絶賛した映画を観て、同じ場面で涙を流す。『パラサイト』を観て階級社会の残酷さに打ちのめされ、『ムーンライト』を観て孤独な少年の姿に自分を重ね、『君の名は。』を観て時空を超えた恋に涙した。彼女が酷評した映画も、その理由を理解するために観た。なぜ彼女はこの演出を嫌ったのか、どうしてこの脚本に失望したのか——それを考えることは、彼女の精神の地図を描くことだった。


映画はいつしか、静を理解するための唯一の教科書になっていた。彼女の感性、彼女の思考、彼女の価値観。そのすべてが、スクリーンを通して覧久の中に流れ込んでくる。映画を観ている間だけ、彼女と同じ景色を見ている錯覚に浸れた。同じ台詞に心を震わせ、同じシーンに息を呑み、同じエンディングに涙する。それは、擬似的な、けれど覧久にとっては真実の共有体験だった。二時間という限られた暗闇の中で、彼女と同じ夢を見る——その幻想だけが、覧久をかろうじて正気でいさせた。


しかし、その幻想さえも、今では耐え難い苦痛に変わってしまった。


関係が決定的にこじれたのは、初夏の湿った空気が肌にまとわりつき始めた、ある夜のことだ。


午後十一時四十七分。LINEの通知音。普段なら心躍るその音が、その夜は不吉な心臓の鼓動のように響いた。


『みっくん、元気?』


幼い頃からの愛称。指が震え、何度も打ち直しながら返信する。自然に、何でもないように。


『まあまあかな。そっちは?』


中身のない、体温の感じられない文字列。送信した瞬間に後悔が押し寄せた。


『元気だよ。今度、四国に長期の研修に行くことになったんだ』


四国。東京から、絶望的に遠い響きを持つ地名。

彼女は優秀だから、選抜されたのだろう。誇らしさと、彼女が遠くへ行ってしまう寂しさが綯い交ぜになる。


『そうなんだ。すごいじゃん』


また味気ない返事。どうして「おめでとう」の一言が言えないのか。どうして「寂しくなるな」と素直に伝えられないのか。


『三ヶ月くらいかな。映画館があまりないらしくて、それがちょっと心配』


彼女らしい言葉に、強張っていた口元がわずかに緩む。


『配信もあるし大丈夫だよ』


『そうだね。それでね、行く前にみっくんに観てほしい映画があるの』


画面に表示されたタイトルに、覧久の呼吸が止まった。


『あと1センチの恋』


友達以上、恋人未満。何度もすれ違う幼馴染の男女を描いたラブストーリー。あと一歩の勇気が出せずに、互いの人生から少しずつズレていく二人。残酷なまでにリアルな、恋の物語。


もちろん、知っていた。静がこの映画を好きなことも、過去の投稿をすべて暗記するほど読み返して把握済みだ。


『どうして、この映画を?』


返信しながら、喉がカラカラに渇くのを感じた。期待が、甘い毒のように全身を駆け巡る。これは、もしかして——


『…なんとなく』


三点リーダーが、意味深に明滅する。そして、頬を染めてはにかむウサギのスタンプ。静が普段は決して使わない、あからさまに乙女チックなスタンプ。


『私たちみたいだなって、ちょっと思っただけ』


心臓が、喉から飛び出しそうだった。スマートフォンを持つ手が汗で滑る。


私たち、みたい。


その言葉を、どう受け取ればいい?告白の序章か、それとも残酷な冗談か。思考がショートし、脳内で火花が散る。


『私たち、みたい…?』


やっとの思いで、オウム返しに問う。


『うん』


即答。そして、数秒の沈黙のあと——


『…みっくんは、どう思う?』


その問いが、最後の引き金だった。

覧久は、完全に凍りついた。


画面を見つめたまま、時が過ぎる。返信のカーソルが、点滅を繰り返す。打っては消し、打っては消し、思考だけが空回りしていく。「俺もそう思う」「静のことが好きだ」——その数文字が、世界で最も重い物質のように感じられた。


メッセージ入力中を示す「…」のアイコンが、静の画面にはずっと表示されていたはずだ。彼女は待っていた。息を殺して、ひたすらに。


もし、これが勘違いだったら?この関係が、ガラスのように砕け散ってしまったら?

太陽を失った惑星のように、永遠の闇を彷徨うことになる。その恐怖が、指を鉛のように縫い止めた。


結局、一時間十七分という、永遠にも等しい沈黙の果てに。


『そうかもね。面白い映画だよね』


最低の、最悪の、最も残酷な返事を送信した。


既読はすぐについた。だが、返信はなかった。「…」のアイコンが一度だけ現れ、そして、永遠に消えた。


翌朝送った謝罪の長文メッセージが、既読になることは二度となかった。


静は、失望したのだ。いや、違う。俺が、彼女の勇気を踏みにじったのだ。「あと1センチ」——その距離が、今では天国と地獄の隔たりになってしまった。


世界が、自分だけを拒絶している。その妄想が、覧久をこの四畳半の宇宙に閉じ込めた。


『2001年宇宙の旅』は、HAL9000が反逆するシークエンスに移っていた。静かな宇宙空間に響く、規則正しい呼吸音。やがて、その音が一つ、また一つと消えていく。孤独で、美しく、そして残酷なまでに静謐な虐殺。


「……静」


唇から漏れた名前に、もはや熱はなかった。


覧久は亡霊のようにベッドから起き上がると、デスクトップPCの前に座った。三台のモニターが、彼の顔を青白く照らし出す。中央には、複雑なPythonコードの羅列。右には、データベース化された静の五年分のSNS投稿。左には、二人の十四万字に及ぶ会話ログ。


それが、今の覧久が持つ、宮野静のすべてだった。


もう、現実の彼女に会えなくてもいい。

現実の彼女に、想いが届かなくてもいい。


ならば、創ればいい。

決して俺を拒絶しない、宮野静を。


「お前は、俺から離れないよな」


モニターの暗闇に映る、生気のない自分の顔に向かって呟く。


覧久は、狂気を宿した瞳で、キーボードに指を置いた。カタカタと乾いた打鍵音が、静まり返った部屋に響き渡る。


それは、彼にとっての「人類の夜明け」。

神への冒涜にも似た、孤独な創造の始まりだった。


部屋の片隅で、『あと1センチの恋』のBlu-rayが、埃をかぶって静かに佇んでいる。

その封は、まだ切られていない。

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