5
王宮の長い廊下を進む一行。煌びやかな壁飾り、衛兵たちの鋭い視線。
アンは痛む心臓に気がつかないふりをしながらも堂々と歩く。
その後ろにはなぜか『ついてきたがる家族』
――父は威厳を保とうとしているが、所詮はただの男爵。母は場違いなほど浮き立ち、ソフィアは姉を妨害する気でいるのを必死に隠している。
「……ああっ」
突然ソフィアが胸に手を当て、苦しげに息を乱した。侍女が慌てて支えた。
「ソフィア! 大丈夫なの!?」
「くっ……苦しい。お、お姉様、助けて……」
ソフィアはアンに向かって手を伸ばす――が、その間にニュっと男が割り込んだ。
伸ばされた手を断りもなくガシッと掴み、顔を近づける。
背は高いが猫背気味。宮廷服は上等なのに袖口や裾にはインクのシミ。黒髪は整えられず後ろが鳥の巣頭の男であった。
「……ふむ」
あまりに距離が近いため、ソフィアは思わず後ずさった。
「呼吸のリズムは正常。血色も悪くない。体温も平熱……まあ少し高めかもしれない、いや、ただの一時的な上昇。緊張だろう」
ぶつぶつと独り言のような分析を並べ立てる男は、ソフィアを心配というよりかは観察の対象としているように感じた。
「うん。問題ない。君は仮病だ」
ソフィアの顔がかっと赤くなる。母が抗議の声を上げようとしたが、男は彼女らに関心はないようで続ける。
「聖女がまだかと思ったら……こんなところで道草とは。急いで。私、あの部屋に閉じ込められるのは飽きたんでね」
その瞳は光を反射してどこか狂気じみている。
神官が慌てて紹介した。
「こちらは宮廷付き聖女研究者、ガーヴェン博士でございます」
博士はやる気なさそうに胸に手を当て形式的に一礼したが、視線はアンだけに釘付けだった。
家族と無理やり引き剥がされたアン。ソフィアは泣き叫びながら両親に連れていかれた。
重厚な扉が開く。
寝台の上には顔色の失せた宰相、その傍らで医師や侍女たちが沈痛な面持ちで控えていた。
アンが一歩足を踏み入れると、室内の空気がわずかにざわめく。
「……本当に、この聖女で大丈夫なのか」
「狂ったと噂されている……」
今朝、王宮前に「聖女アンは力を失った」と弾劾するビラが貼られていたのだ。
ビラのことなど知らないアンは怪訝な視線を彼らに送る。
アンの耳に届かぬように囁いているつもりなのだろうが、すべてはっきり聞こえていた。
アンは眉ひとつ動かさず、無言で寝台へと歩みを進める。
ただ胸の奥では、寿命があとどのくらい削られるのかという恐怖に脈打ち、冷たい汗が背を伝わっていた。
レオンの視線も冷たい。疑念を隠さず――「金目当てで適当にやるのでは」と。
神殿を代表して来た高官たち。レオンを王都に呼び戻した男もそこにいた。彼らの瞳は冷ややかであった。
彼らだけが知っている――アンは失敗するということ。
アンは寝台の傍に膝をついた。
衆人環視の中、息を吸い込み、胸の奥にある恐怖を押し殺す。
(もしかしたら、これが終わった瞬間に死ぬかもしれない)
両手を胸の前で組み、静かに目を閉じる。
次の瞬間、薄暗い寝室に光が満ちていった。
アンの掌から溢れ、やがて部屋全体を包み込む。
冷え切っていた空気が春の陽射しのような温もりに変わっていく。
宰相の顔に失せていた血色がゆっくりと戻り、閉じられた瞼がかすかに震えた。
「……っ」
侍女が息を呑む。医師が目を開き、祈るように震える手を口元に当てた。これはまさしく「聖女の奇跡」
「……ばかな、狂った聖女が……」
誰かが小さな声で呻いた。
やがて宰相が苦しげだった呼吸を整え、うっすらと目を開いた。
「……聖女……さま?」
掠れた声でそう呟くと、周囲は一斉にざわついた。
恐怖と疑念の空気は一転して驚愕と畏敬へ。
その場の誰もが、目の前の奇跡を認めざるを得なかった。
部屋の隅にいたレオンも動くことができなかった。
彼の胸に巣食っていた疑いが、ひとつ、音を立てて崩れていく。
「……本物だ」
そして間違いなく歴代の中でも類を見ない。無意識に洩れた言葉は、彼自身をも驚かせた。
驚いていたのはアンも同じだった。
ふと己の胸に意識を向けた。
(おかしい……これほど大きな祈りをしたのに、頭痛も眩暈もない。どうして?)
今までやったこともない祈り、危篤のものを復活させるほどの祈りを捧げたのに。
(……大きく寿命を削ったはずなのに)
困惑が胸をよぎり、彼女は人々の歓声から切り離されたようだった。
そのとき――
「……素晴らしい!!」
ガーヴェン博士が声を響かせた。
椅子から飛び上がり、目をぎらつかせながらアンに歩み寄った。
博士の目は異様に輝いていた。
「このような力見たことない! かつてないパワーだ! ちょっとした怪我を治すどころのものじゃないぞ! 聖女殿、ひとつ聞かせてくれ。君は今の祈りで『寿命を削った』と感じるか?」
室内が別の意味でのざわめきに包まれた。
誰もが知っている。祈りの代償は聖女の命を蝕むこと。それを口にすること自体が重い禁忌だった。聖女は神の使い、人々を助ける尊く清らかな存在――
「博士! 控えてください!」
神官が慌てて声を上げる。
しかしガーヴェンは首を傾げるだけで無邪気な子供のように続ける。
「いや、不思議だろう。これほど大きな祈りをしたんだ。ならば、どこかに必ず兆候があるはずだ。それを調べるための研究所のはずだが」
「で、どうだ? 聖女殿。息苦しさとか、めまいとか、どうだ」
答えに詰まるアンよりも早く、低い声が博士の言葉を遮った。
「やめろ」
レオンが博士の方を抑え、鋭く睨みつける。
「命を測るような真似は、冒涜だ」
博士は一瞬ぽかんとした顔をしたが、次の瞬間には愉快そうに肩をすくめた。
「ふむ…騎士殿は情緒的だな。けれど、何が悪いんだ。聖女の寿命がわかるに越したことはないだろう」
そのころ王宮の一角。
高官たちは密かに言葉を交わしていた。
「……まさか成功するとは」
瞳には不快の色が浮かんでいた。
他の神官たちもわずかにうなずく。
「本来狂った聖女に祈りが成せるはずない……だってあれは――」
ひときわ低身長の高官が額に手を当て、吐息を漏らす。
「王宮は監視の目をますます光らせるだろうな」
再び静寂が訪れる。
誰もが声にはしないが、心の奥底で同じ恐れを抱いていた。
――あの女が、『聖女』を壊しかねない、と。