1
「聖女さま! どうかお気を確かに――!」
ガシャーン!
甲高い破砕音。散らばるガラス片が光を跳ね返し、侍女の悲鳴と子どもの泣き声が混じる。
ここ数週間、すっかり日課となったこの騒ぎに、扉を守る騎士たちは顔を見合わせた。
――誰が行くか。目で押し付け合い、結局は新人がため息交じりに覚悟を決める。
王都の誰もが信じている。
「かつて心優しく気高かった聖女が、今や聖力の暴走に囚われ錯乱している」と。
「……っ!」
重たい扉を押し開けた瞬間、噂の真実が視界に飛び込んでくる。
「うぇーん、うぇーん!」
わざとらしい、子どもの真似事のような泣き声。
宝石で縁取られた成金趣味のテーブルの上。
そこに大の字で寝そべり、手足をばたつかせる聖女アン。
倒れた椅子、散らばる茶菓子、粉々のグラス。
呆然と立ち尽くす子爵夫人と、怯えて母の腕にしがみつく幼い息子。
新人騎士は慌てて駆け寄り、アンへ手を伸ばした。
「聖女さま、危険です! どうか――ぐっ!」
次の瞬間、顎を蹴り上げられた。
星が散りそうな痛みに呻く間もなく、髪をわし掴みにされる。
新人は涙目で必死に宥めるが、相手は十人しかいない聖女。傷でもつければ、自分の首が飛ぶ。
横目には、先輩騎士たちが夫人と息子を慌てて退室させているのが見えた。
母子は何が何だかわからぬ顔のまま、恐怖に背を押され、足早に去っていく。
――扉が閉じる、その瞬間。
「……ふぅ。行ったわね」
さっきまで昆虫のようにばたついていたアンは、すっと上体を起こした。
あっさりテーブルから降り立った顔には勝ち誇った笑みすら浮かんでいる。
「これ、片付けておいて」
残骸を指さし、用件だけ告げて、軽やかに自室へ戻る。
残されたのは沈黙と、新人騎士の胸を満たす絶望。
――辞めよう。もうやってられない。
そう思った彼は、七人目の退職希望者となった。
事情はこうだ。
侍女が片付けながらぽつぽつと語った。
子爵夫人は「息子に祈りを」とアンを訪ねた。祈りは本来神殿で行うべきだが、相手は子爵家。
男爵家は断れず、銭勘定と見栄で“非公式の祈り部屋”を設けていた。
最初、アンは黙って話を聞いていた。随分と不機嫌だったそうだがしっかりと椅子に座っていた。
だが、退屈した息子が部屋を物色し、ガラスのスノードームを見つけて叫んだ。
「これ、ちょうだい!」
かつてのアンなら、笑って譲っただろう。
だが今の彼女は冷ややかに答えた。
「――あげるわけ、ないでしょ」
拒絶に癇癪を起こした少年。
するとアンは突如立ち上がり、食器を薙ぎ払いながら大号泣劇場を開幕というわけだった。
結果、スノードームは無惨に砕け散り、誰も得をしないまま「聖女は狂った」という噂だけが補強された。
数週間前。
アンは立ちくらみに悩まされていた。祈っても治らない。むしろ祈れば祈るほど体は重く、息は上がる。
『聖女は短命。力が強ければ若くして死ぬ』
定説が、現実の影を帯び始める。
(……まさか、私も?)
だが不安を打ち明けられる相手など、誰もいない。
六歳で聖女に選ばれてから十二年。
「清く正しく。不満も欲も抱かぬこと」――そう叩き込まれ、誰にも甘えることを許されず、ただ祈りだけに生きてきた。
そんなある日。王都の神殿に“引退した聖女”が訪れることとなる。
齢七十を超えた、異例の長命を保つ聖女。研究者たちが何年もかけて口説き落としたのだという。
アンは他の聖女に会ったことがなかった。
聖女同士は会わず、互いの話題も禁じられてきた。
だから神殿は、彼女が遭わぬよう、さらに仕事を押し付けた。おかげで体調は底を打ち、何十人目かの患者を癒やし終えたとき、鼻血が一筋こぼれた。
(……だめ)
胸がいやに苦しく、呼吸が乱れる。
アンは何かを決意し、侍女を下げ、人気の途絶えた廊下の窓から抜け出す。
目指すは西の角部屋――引退した聖女が滞在しているはずの部屋だ。
重い体を引きずり、もつれる足を叱咤して、窓辺に辿り着く。
中を覗くと、そこにはゆったりとした黒のローブを身に纏った老女がいた。
彼女が引退した聖女さまに違いない。
腰が曲がっている女は杖をつきながら部屋をやけに念入りに見回っている。絵の裏、花瓶、机の引き出し――
そして聖女は机の上に置かれたままの金の文鎮を掴んで何事もなかったかのように袖に滑り込ませる。
(……え?)
完全に窓を叩くタイミングを逃してしまったが、ありがたいことにタイミングよく振り向いた老女が先にアンに気がついた。ゆったりとした動作で窓を開け眉をしかめる。
「誰だいあんた」
堂々とした口ぶりにアンは慌てて頭を下げた。
「わ、わたくしは聖女のアンと申します」
「ああ、あんたも聖女かい。わたしもだよ。」
「……はい、もちろん存じております」
「ほんとうかい? さっきのを見ても?」
返す言葉に窮していると、老女の視線がアンの指先と顔色をなぞる。粗く剝けた皮、土気色の頬――来訪の目的を察したらしい。
「あんた、もしかして体調が悪いのかい」
窓枠へ身を乗り出した老女の顔が近い。深い皺と、白く薄い眉。
そして、いたずらっぽく上がった眉の下で、口が軽く開く。
そして白髪と同色の眉毛をわずかに上げた聖女はとても面白そうにアンにこう言った。
「ああ、あんた――持って半年だね」
まるで天気の話でもするように。
ぽん、と肩に置かれた手から、かすかなシガーの匂いが立つ。
「半年…」
「そんなの、よくあることだよ」
“よくあること”――若くして逝った聖女たちの群像がみえた。
言葉を失ったままのアンに、老女は「早く戻りな。見つかるよ」とだけ告げた。
部屋にこっそりと戻ったアンは自分が思ったよりもショックを受けていることにびっくりしていた。
その夜。
男爵家に戻る道すがらも、食卓についても、胸の奥には同じ言葉が渦巻いた。
「余命半年」
覚悟していたはずなのに、現実を突きつけられると、足をすくませる威力がある。
『どうして私ばかり』――その言葉が浮かんでは消える。
怒りが胸を焼き、次の瞬間には虚しさに変わる。
「どうせ半年」――そう呟いた途端、涙が込み上げた。
(聖力なんて気にする意味があるの? 力が尽きる前に、命が尽きるというのに)
眠らぬまま迎えた早朝、祈りの鐘が鳴る前。
アンはふと、思った。
(どうせ死ぬなら――好きに生きる)
そう思った瞬間。胸の奥で何かがぱちんと弾けた。
味わったことのない解放感が、血に混ざって巡った。
その瞬間、アンは「仮面の聖女」をやめ、「本来の自分」として生き直す決意を固めたのだった。
アンはとうに知っていた。
聖女は清らかな存在?ーー自分の性根は、きれいに整形できるほど上等ではない、と。