第八章「取引・1」
バー「月のパレオ」裏の空間に設けられた密室――かつて裏社会の拷問部屋として使われていたその場所には、今や厳重な鍵が施され、誰一人として外に出ることは叶わない。
照明は弱く、空気もどこか埃っぽい。だが場の緊張感は、何よりも濃密だった。
丸テーブルに並ぶ3つの座席。薊未和子はその中央にゆったりと腰掛け、タロットのようなトランプを混ぜながら言った。
「今夜、あなたたちに挑んでもらうのは、私が“裏メニュー”と呼んでいるゲームよ。全部で五つ。三つ先に勝った方の勝利。単純明快だけど――頭と心臓の強さが要るわ」
五嶌は腕を組み、警戒したまま視線を逸らさず問う。
「……お前は能力を使わないと保証できるのか?」
薊は笑みを浮かべる。「当然よ。私が能力を発動すると脳波に特有のパターンが生じる。ほら、これを見て?」
彼女は壁の端末を操作し、古びたモニターに脳波測定器の出力を映し出した。青いグラフが穏やかに推移している。
彼女は手元のボタンに指を触れた。「違反した場合、私にも罰が下るよう設定してある。強制的に脳内神経刺激が作動するの。簡単に言えばで電気ショックね」
「……見せるだけじゃ信用できないが」
五嶌は眉をひそめる。
薊は少し肩をすくめた。「さて、ゲームに集中しましょうか。第一ゲームは、【レイズ・オア・ディグ】」
テーブルに専用のデッキが置かれ、薊がそれを広げる。
「ルールはシンプル。13枚のカード、1から13までが揃っていて、プレイヤーと私が1枚ずつカードを引きます。お互いにカードは伏せたまま――中身は絶対に見せない。交互に“宣言権”を持ち、『ライズ(相手より高いと読む)』『ディグ(相手より低いと読む)』『スルー(判断を保留)』のいずれかを宣言できる」
亜佳里が小さく首を傾げる。「スルーって、意味あります?」
薊は頷く。「ええ、スルーは1回まで使える。勝負の見極めが難しいときに使えば、次のターンに宣言が持ち越される。だが、2回目は許されない。失格よ」
五嶌が言葉を挟む。「じゃあ、宣言が当たったら?」
「当たれば1ポイント。そしてこのゲームのラウンドは2ポイント先取制。」
「つまり最大で三回戦い、二回勝てばいい」
五嶌が腕を組んだまま、ふっと鼻で笑った。「面白い。勝負してやろう」
薊はすっと手を差し出した。「では、ランダムにサイコロでプレイヤーを決めましょう。奇数は新妻さん、偶数は五嶌さん」
コロコロ、と転がされた12面サイコロ。奇数――亜佳里。
「わたし?!」
亜佳里は思わず声に出すが、五嶌が肩を軽く叩く。「落ち着け。初手はお前のほうが相手の様子を見やすい」
「なんか…馬鹿にされてる気がします」
薊は苦い顔をしながらカードを切り、1枚ずつ裏向きに二人に配った。
第一ゲーム「レイズ・オア・ディグ」:ターン1(宣言権:亜佳里)
亜佳里はカードを握った手に力を込める。カードの数字は“7”。絶妙に中間。強くも弱くもない。
相手の手札が何かは、絶対に分からない。見えない情報の海で、唯一の頼りは――相手の“揺らぎ”だ。
目の前の薊は微笑んだまま、まるでガラス細工のように完璧な無表情。
「くっ……こんなの読めるわけ――」
彼女は頭を振る。視線が泳ぎそうになるが、五嶌の声が飛ぶ。
「目を見るな。呼吸を見ろ」
――呼吸。
薊の胸元。規則的な呼吸。しかし、そのリズムがわずかに――速い?
「……ライズ!」
薊が小さく笑った。
二人のカードが公開される。
亜佳里:7
薊:6
「お見事」
薊が口元を覆い、笑う。
「えっ、当たった!? マジで?!」
「……過信してたな」
五嶌が呟いた。「今の相手の呼吸は、少し自分のカードに自信がなかった証拠だ。焦ってた」
ターン2(宣言権:薊)
カードが配られ、亜佳里には“4”、薊には何かが配られる。薊は表情を一切変えない。
ただし、今回の薊の動きは先程と違う。少しだけ、口元に笑みが浮かんだ。
「ライズ」
――即答。
カードを公開。
薊:8
亜佳里:4
「……うぐっ」
亜佳里は悔しげに呻く。
「なっ……なんで即答でわかったの?」
「あなたがさっき自信を見せて勝ったのが逆効果になったのよ。次のターンで運を戻すような不安が表情に出ていたわ」
「……うそ、そんなので……」
五嶌が補足する。「心理的な“反動補正”を利用されたな。人間は勝った後、自然に慎重になる。そこを読まれた」
ターン3(宣言権:亜佳里)
カードが配られる。今度の亜佳里のカードは“10”。勝てる……か?
だが――薊が視線をそらし、微かに鼻を鳴らす。余裕のある態度。自信か、誘導か?
「……読めない……どうすれば……」
「一つだけ、ヒントをやろう」
五嶌が低く言った。「“表情”の正体は感情の一貫性だ。何かに自信がある人間は、一瞬でも姿勢を崩さない。だが――誘導のときだけ、人はわざと‘感情のフリ’をする。注意しろ」
亜佳里は思い出す。薊がカードを引いてから、少し顎があがっている。
自信なさげを装っているが――不自然に“魅せている”。
「……ディグ!」
宣言が空気を裂く。
カードを公開。
薊:12
亜佳里:10
「やった……!!」
亜佳里の叫びに、薊が肩をすくめる。
「よく読んだわね。確かに、今の私はわざと“自信なさげ”に見せようとしたの。人の目は、騙しやすい」
【第一ゲーム・勝者:亜佳里 1-0】
亜佳里が深く息を吐いた。こわばっていた指が、ようやく解ける。
「し、心臓が……バクバク……」
「よくやった」
五嶌は小さく頷く。「次は俺の番だな」
薊はカードを回収する。
「いい調子ね。さて、第二ゲームは……どれにしましょう?」
彼女の指が滑る。次なる戦いの火蓋が、再び静かに落とされようとしていた。