第七章「月のパレオ」
五嶌は病院の窓から外を眺めていた。入院してから二か月半が経過し、左腕がかろうじて動かせるようになったものの、焦燥感は日に日に募るばかりだ。鬼頭の死の知らせは、まるで冷たい氷の刃が胸を貫いたような衝撃だった。
「鬼頭……」
その名を思い浮かべるだけで、胸の奥に穴が開く気がした。彼がいなければ、この戦いはどこへ向かうのか。迷い、絶望に沈みそうになる自分を、亜佳里は黙って見守っていた。彼女は五嶌の助手――五嶌本人は冗談めかして「雑用係」と呼んでいるが、亜佳里は自分の役割を知っていた。
「……五嶌さん」
亜佳里が静かに声をかける。彼の沈黙を破るように、病室のドアがノックされた。
ドアを開けた看護師が口を開く。
「外出許可が下りました。この用紙に患者さんと付き添いの方のご氏名、それから大体の帰着時間を記入してください」
「ありがとうございます!」
亜佳里の言葉に五嶌はわずかに顔を上げた。彼女の眼差しが、外出の必要性を静かに訴えていた。
「外出か……」
「ええ。気分転換になるはずですよ。ずっと病室にいるのは良くない。私が運転するから、安心してください」
亜佳里はそう言うと、にっこりと微笑んだ。五嶌はわずかに眉を寄せるが、言葉には出さずに頷いた。
病院の廊下を歩きながら、看護師が注意を促す。
「お酒やたばこ、ジャンクフードは控えてくださいね」
亜佳里はくすっと笑いながら返した。
「はぁ~い。ちゃんと気をつけます」
五嶌は車椅子から起き上がる際にぎこちなく左腕を動かした。亜佳里がそれを支え、慎重に歩を進める。
車の鍵を手にした彼女は、車内のハンドルを握ると、ゆっくりとエンジンをかけた。五嶌は助手席に座りながら、深く息を吐く。
信号を右に曲がり、雑居ビルの並ぶ街並みに車を進める。五嶌は疲れた表情で窓の外を眺める。亜佳里は運転に集中しながらも、彼の肩越しにさりげなく視線を送った。
「気分転換になるといいけど……」
やがて、地下への階段がある薄暗い雑居ビルの前に車が停まる。
「ここが、あの……」
五嶌が尋ねると、亜佳里はわずかに頷いた。
「『月のパレオ』。100%当たるという噂の占い師がいるらしいですよ」
「……占いなんて、どうせバーナム効果やコールドリーディングの類だ。信じる奴がSNSで広めてるだけだろう」
超能力者の存在を知っているにもかかわらず、五嶌はどこか懐疑的に呟いた。
亜佳里は少し苛立ちつつも、ふざけた口調で返す。
「本当に当たったら、吠え面かかないでくださいよ~」
木製の装飾が施されたドアを押すと、中年の男性の声が「いらっしゃいませ」と迎えた。数人の客が談笑し、低音のジャズがかすかに流れている。壁には暗い赤のペイントと控えめな照明。カウンターには、年齢は30代後半から40代に見える、凛とした女性が立っていた。
彼女の目が二人を鋭く捉える。
亜佳里はためらいながらも声をかけた。
「あの、ここの占い、100%当たるって聞いて……」
女性は無言で手のひらをかざした。静寂が数秒続く。
「お客様には裏メニューをご用意しております」
その声は落ち着きと、どこか威厳があった。
すると、近くの若い男女が興奮気味に話し始める。
「えっ、裏メニュー!? マジやばくない?」
スマホで投稿を始め、歓声を上げる。
亜佳里は五嶌の右腕を引き、彼女の顔に少しの緊張が見え隠れした。
「行きましょう」
そう告げ、女性は二人をバーの奥へと案内した。裏口は殺風景なレンガ造りの空間。中央には大きな丸テーブル、そしてカジノ風のゲームセットが数台並ぶ。
「あなたたち、『奴ら』を知っている人間ね」
女性は声を落とした。
五嶌は一瞬身を強ばらせる。
「奴らって?」
「超能力者。鳥獣戯画の入れ墨をした連中。ご存知かしら?」
五嶌は亜佳里を見るが、彼女は首を振る。
「過去は既に収束した運命。誰かに聞く必要はないわ」
女性は冷静に告げる。
「運命、収束……スピリチュアルな言葉だな」
五嶌は半笑いで返す。
「否定しないわ。でも、あなたたちがここに来た以上、情報は必要でしょ」
「何の話…?」
五嶌の言葉を待たず女性はトランプを取り出し、カードを五嶌に向ける。
「私は薊 未和子。カードを一枚選んで」
五嶌は迷いながらもスペードのジャックを選んだ。
瞬時に女性の目が光る。
「スペードのジャックね。あなたのカードよ」
「長年使ったカードの傷や皺、形の変化で見分けてるんだろ?」
五嶌が問うと、薊は首を横に振る。
「そんな些末なことは覚えていないわ。見えるの。あなたの未来の一つが……」
亜佳里は五嶌の隣で黙って見つめている。
「あなたはキツネの入れ墨の男に殺される。私の助けなしには、間違いなく」
五嶌は言葉を飲み込む。
「ゲームをしましょう。五ラウンド制。勝てばここから出してあげる、負ければ生涯私の奴隷として飼ってあげるわ」
五嶌は怒りを露わに叫んだ。
「ふざけるな!」
「拒否も可能よ。ただし、二人の命は保証しないけど」
亜佳里はドアの頑丈な鍵と窓の防弾ガラスを確認する。
脱出は難しい。絶望的な状況に五嶌は冷静を装う。
「分かった、やろう。ただし命は保証しろ」
「いいわ。ただしここを出ても私を誰にも話さなければ」
薊は冷たく答え、ゲームが始まった。