第六章「亡霊」
鬼頭大吾は、警察庁地下の封鎖フロアに足を踏み入れた。かつて共に死線をくぐった仲間たちが、重苦しい沈黙の中、集っている。
「……集まったのは、これだけか」
「恐怖は記憶に棲みつく。忘れられない奴も、忘れようとした奴も……そいつらにとっちゃ、ここへ来ること自体が地獄なんだ」
返したのは松永。五年前、前線で部隊を率いた男だった。今は公安教育課に身を置いている。
「……無理もない。五年前の“あれ”は、ただの事件じゃなかった。“戦争”だった」
鬼頭は机に広げた衛星写真の上に指を置く。浄水施設と都市中継基地の間に埋もれるように建つ、旧・生物学研究所。かつて存在したはずのない計画の、実験場――通称「黒谷ラボ」。
「瞭然――擬態の能力者。五嶌から情報を得た。擬態は生体信号に基づくもので、非接触での感知が鍵だ。ヤツを生かしておけない」
「突入は?」
「夜明け前。迷彩妨害フィールドと近傍音センサを使う。潜入で始末をつける」
隊員たちは頷いた。鬼頭の瞳には、もはや一片の迷いもなかった。
潜入部隊は、遮蔽カーボン装備を纏い、黒谷ラボに静かに踏み込む。だが、入り込んだ瞬間、感覚が歪んだ。
「なに、これ……っ!?」
「感覚が……狂う……」
色彩が流れ、音が逆行し、重力すら歪むような錯覚。何人かが膝をついた。
――めまいか?違う、もっと根源的な“異常”だ。
鬼頭は一瞬、宙に浮かぶ光景に目を見張る。それは五年前、仲間が次々と倒れていったあの夜の再現だった。
「……また、か」
幻覚。鬼頭は胸の中で言葉をかみしめる。だが、錯乱する意識の奥、ただ一人揺るがぬ影が鬼頭の視界に映る。
「ようやく来たか、公安の犬」
女――夜の闇に映える漆黒のチャイナドレス。肌には、あの特徴的なウサギの刺青。
「私の姿に見覚えがあるだろう? 五年前――我々はあの場にいた」
「貴様が……!」
銃を構えた瞬間、瞭然の姿が溶け、別人へと変わる。擬態。幻覚と組み合わせることで、見分けすら困難になる完全な撹乱。
鬼頭は咄嗟に耳を澄ませ、仲間たちとの無線を頼りに、微細な音の不一致を探る。
「…そこだ」
EMP弾。局所的な電子撹乱を引き起こす装置が炸裂し、擬態が剥がれる。
「まさか、視覚じゃなく、音の方向で……?」
「擬態が優れているほど、“本物らしさ”に誤差が生じる。あいにく、俺の耳はまだ若いつもりでな」
瞭然が睨む。だがそのとき、見覚えのある人物たちが、鬼頭を取り囲んだ。
ー五年前の亡霊
「……やっぱり、見えてたんだな。こいつらの顔も、無念も」
銃声が響く。鬼頭は、幻覚に惑いながらも、現実に存在する瞭然の心臓を撃ち抜いた。
「……いい撃ち方だった」
瞭然もまた、鬼頭の腹部へとナイフを突き立てていた。
「……さよならだ、公安の犬」
崩れる二人の身体。そのとき、幻覚がすっと消えた。
鬼頭はその場にかがみこむように瞭然はのけぞるようにして倒れ、両者は完全に沈黙する。
「瞭然が死んだか……。計画が、また振り出しになる」
身を潜めていた女がいた。おそらく幻覚の主だろう。右頬には猿の入れ墨。派手なピンク色の長髪を揺らしながら暗い路地へ姿を消した。
作戦終了後。警察庁の一室には、報告を終えたOBたちが沈黙して並んでいた。そこへ、足音が鳴る。
「……大吾は、どこ」
現れたのは、鬼頭の恋人、亜理紗。彼の死を受け止めるには、時間があまりにも短すぎた。
「……遺体は……まだ発見できていません。ただ、現場からは瞭然のものと思われるDNAが……」
「彼の死が無駄じゃなかったって証明して……そうしなきゃ、あの人が報われない……!」
涙を流しながら、OBの一人である佐藤の胸ぐらをつかむ。
その夜。病室で、亜佳里は五嶌から重大な真実を聞かされていた。
「第二次世界大戦中、日本陸軍はある微生物に着目していた。脳の神経伝達物質の異常活性化……それを使って“超人”を造ろうとした」
「五年前の事件って、その研究の延長線上……?」
「そうだ。そして、今回の鳥獣戯画も……あの延長線にいる」
二人の間に、静かな沈黙が流れる。
次の瞬間、五嶌のスマホが震えた。
《鬼頭大吾 殉職確認。黒谷ラボにて、擬態能力者・瞭然と相打ち。》
画面の文字が、無音の弔鐘のように、部屋に響いていた。